ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

デヴィッド・バイロン

2022-08-27 16:06:37 | vocal

デヴィッド・バイロン David Garrick(stage name:David Byron)

【パート】
  ボーカル

【生没年月日】
  1947年1月29日~1985年2月28日(38歳)

【出生地】
  イングランド エセックス州エッピング

【経 歴】
  スパイス(1967~1969)
  ユーライア・ヒープ(1969~1976)
  ラフ・ダイアモンド(1977)
  デヴィッド・バイロン・バンド(1980~1982)
  

 ユーライア・ヒープの初代ボーカリスト。
 美しいハイ・トーン・ヴォイスと、派手なステージングで、ユーライア・ヒープ全盛期のフロント・マンとして活躍した。


 母はジャズ・クラブのシンガー。
 バイロンは、幼い頃から本名でテレビの子供向け番組やバラエティー番組に出演していた。
 1958年から1964年まではウォルサムストウにあるフォレスト・スクールに通っており、この頃はフットボールの選手として活躍していた。
 1965年、エッピングをベースに活動する「ストーカーズ」という名のセミプロ・バンドに加入し、ミック・ボックス(guitar)と出会う。
 1967年にストーカーズが解散すると、バイロンはボックスやナイジェル・ペグラム(drums)らと「スパイス」を結成。のちこのバンドにポール・ニュートン(bass)とアレックス・ネピアー(drums)が加入する。
 同時にボックスとともにアヴェニュー・レーベルと契約、スタジオ・ミュージシャンとしても仕事をしていた。この当時のスタジオ・ミュージシャン仲間にダニエル・ブーン(当時の名はピーター・スターリング)がいる。
 1968年11月、スパイスは唯一のシングル『What About The Music / In Love』をリリース。同姓同名のポップ・シンガーがいたため、この頃にステージ・ネームを「デヴィッド・バイロン」に変えている。
 1969年末、スパイスにケン・ヘンズレー(keyboard, guitar 元トー・ファット)が加入する。バンドはまもなくプロデューサーのジェリー・ブロンの発案で「ユーライア・ヒープ」と改名(諸事情で1970年2月までは「スパイス」として活動し、1970年3月から正式に「ユーライア・ヒープ」として始動)
 1970年、ユーライア・ヒープのファースト・アルバム『ユーライア・ヒープ・ファースト』(全米186位、日本41位)がリリースされる。
 1973年5月、初来日。日本武道館を含めて5公演を行った。
 1975年、ファースト・ソロ・アルバム『テイク・ノー・プリズナーズ』を発表。
 ユーライア・ヒープは、ディープ・パープルと並ぶブリティッシュ・ハード・ロック・バンドとして成功、バイロンも世界的な名声を得たが、ツアーに次ぐツアーによる疲労の蓄積、アルコール依存症の深刻化、ケン・ヘンズレーを始めとするメンバーとの対立など多くの問題を抱えていたため、1976年7月のスペイン・ツアーを最後にユーライア・ヒープを解雇された。
 バイロン在籍時のユーライア・ヒープがバンドの黄金時代と言われており、ヒープ在籍時に10枚のアルバムに参加している。


     


 ユーライア・ヒープを離れたバイロンは、クレム・クレムソン(guitar, 元コロシアム、元ハンブル・パイ)、ジョフ・ブリットン(drums, 元ウィングス)、ウィリー・バス(bass)、デモン・ブッチャー(keyboard)と「ラフ・ダイアモンド」を結成した。バンドは「スーパー・グループ」として注目され、1977年2月にアルバム『ラフ・ダイアモンド』を発表したが、アルバム・セールスは全米103位と芳しいものではなく、ほどなくバイロンはバンドを脱退した。


 1978年、セカンド・ソロ・アルバム『Baby Faced Killer』を発表したのち、ロビン・ジョージ(guitar)と組んで「デヴィッド・バイロン・バンド」を結成。(バイロンvocal、ジョージguitar、メル・コリンズsax、ボブ・ジャクソンkeyboard、ロジャー・フラヴェルbass、ジョン・シェアーdrums)
 このバンドはクレオール・レコードと契約し、アルバム1枚とシングル2枚を残している。
 「デヴィッド・バイロン・バンド」はセカンド・アルバムのレコーディングも予定されていたが、実現することなく1982年に解散した。
 1983年から84年にかけては3枚目のソロ・アルバム『That Was Only Yesterday』用に3曲の録音を行ったが日の目を見ることはなかった。(このアルバムは2008年なって発表されている)


     


 ケン・ヘンズレーがユーライア・ヒープから脱退(1980年)したのち、1981年にミック・ボックスとトレヴァー・ボルダーはバイロンに、ユーライア・ヒープに戻るよう招請したが、バイロンはこれを断っている。


 1985年2月28日、アルコール依存症にともなう肝硬変のため、イギリスのバークシャーで死去。38歳。
 ツアー中だったユーライア・ヒープは、「魔法使い」を演奏してバイロンを追悼した。


 2003年、1980年~1982年の間に録音された「デビッド・バイロン・バンド」のデモ音源や未発表ライブ音源、ソロ・アルバム用のリハーサル音源が発見され、同年に『Lost and Found』のタイトルでリリースされている。


     


【ユーライア・ヒープ】
 1970年 ユーライア・ヒープ・ファースト/Very 'Eavy… Very 'Umble(全米186位、日本41位)
 1971年 ソールズベリー/Salisbury(全米103位、日本47位)
 1971年 対自核/Look at Yourself(全米93位、全英39位、日本5位)
 1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards(全米23位、全英20位、日本28位)
 1972年 魔の饗宴/The Magician's Birthday(全米31位、全英28位、日本43位)
 1973年 ユーライア・ヒープ・ライヴ/Uriah Heep Live(全米37位、全英23位、日本22位)
 1973年 スウィート・フリーダム/Sweet Freedom(全米33位、全英18位、日本45位)
 1974年 夢幻劇/Wonderworld(全米38位、全英23位、日本76位)
 1975年 幻想への回帰/Return to Fantasy(全米85位、全英7位、日本74位)
 1976年 ハイ・アンド・マイティ/High and Mighty(全米161位、全英55位)

【ラフ・ダイアモンド】
 1977年 ラフ・ダイアモンド/Rough Diamond(全米103位)

【デヴィッド・バイロン・バンド】
 1981年 On the Rocks
 2003年 Lost and Found(1980年~1982年録音)

【ソロ・アルバム】
 1975年 テイク・ノー・プリズナーズ/Take No Prisoners
 1978年 Baby Faced Killer
 2008年 That Was Only Yesterday(1984年録音)


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マイク・ブルームフィールド

2022-08-27 12:13:58 | guitar

マイク・ブルームフィールド Michael Bernard "Mike" Bloomfield

【パート】
  ギター、ボーカル

【生没年月日】
  1943年7月28日~1981年2月15日(37歳)

【出生地】
  アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ

【経 歴】
  バターフィールド・ブルース・バンド(1965~1967)
  エレクトリック・フラッグ(1967~1968、1974)
  KGB(1975)
  
  

 1960年代のブルース・ロック・シーンを代表するギタリスト。
 エレクトリック・ブルース・ギタリストの先駆者的な存在である。
 その実力は「白人ブルース・ギタリストの中でも最高峰」とも評価されており、ボブ・ディランは「彼は出会った中で最高のギタリストだった」、カルロス・サンタナは「彼をはじめて見た時に私の人生は変わった。生涯をかけて彼のようなギタリストになりたいと思わずにはいられなかった」と語っている。
 「ローリング・ストーンの選ぶ史上最も偉大な100人のギタリスト」では、2003年版第22位、2011年版第43位にランクされている。


          


 イリノイ州シカゴのノース・サイドで会社経営者の息子として、ユダヤ系の裕福な家庭で生まれ、育つ。
 少年時代はサウス・サイドで過ごし、ラジオでBBキング、マジック・サム、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフらのブルースに親しむ。
 やがて、ブルームフィールド家で働いていたメイドを通じてマディ・ウォーターズやリトル・ウォルター、オーティス・ラッシュのような伝説のブルース・ミュージシャンたちと出会う。16歳の頃にはシカゴのブルース・シーンで彼らとジャム・セッションしながらステージに立っており、その後徐々に認められるようになる。
 1964年には、ブルームフィールドの評判を耳にしたコロンビア・レコードのプロデューサー、ジョン・ハモンドと契約、ニューヨークでレコーディングを行った。
 レコーディング終了後にシカゴに戻ったブルームフィールドは、ポール・バターフィールドから声をかけられ、「バターフィールド・ブルース・バンド」にリード・ギタリストとして加入する。

 
 1965年、ブルームフィールドはボブ・ディランと出会うが、この時ディランはブルームフィールドのギターを聴いて非常に大きな衝撃を受け、すぐにアルバム『追憶のハイウェイ61』のレコーディングにブルームフィールドを招請した。レコーディングではまず「ライク・ア・ローリング・ストーン」の収録を予定しており、アル・クーパーがギターを弾く予定だった。しかしブルームフィールドが現れてギターを弾くや否やクーパーはすぐに「もう自分にはやることがない。こんな素晴らしいギタリストを前にして自分がギターを弾くなんて馬鹿げている」と思ったという。これがブルームフィールドとクーパーの出会いである。
 同年7月25日、バターフィールド・ブルース・バンドの一員としてニューポート・フォーク・フェスティヴァルに参加。ブルームフィールドは急遽アル・クーパーとともにボブ・ディランのバックも務めた。この時ディランはエレクトリック・ギターを持ってロック・ミュージシャンとともに演奏したことで聴衆から大きなブーイングを浴びるという有名な事件が起きている。
 バターフィールド・ブルース・バンドは、1966年10月にファースト・アルバム『ザ・バターフィールド・ブルース・バンド』を、1966年8月には名盤の誉れ高いセカンド・アルバム『イースト・ウエスト』(全米65位)を発表。彼らのエレクトリック・スタイルで演奏するブルースは、シカゴのブルース・シーンに大きな影響を与えた。


          


 1967年にバターフィールド・ブルース・バンドを脱退したブルームフィールドは、バディ・マイルス(drums)や、シカゴ時代の盟友であるバリー・ゴールドバーグ(organ)、ニック・グレイブナイツ(vocal)、ハーヴェイ・ブルックス(bass)らとともに「エレクトリック・フラッグ」を結成。このバンドはホーン・セクションの入った革新的な編成で、ブルームフィールドはブルース、ソウルはもちろん、ゴスペルやカントリーからもインプピレーションを得て、独自のサウンドを生み出そうとした。エレクトリック・フラッグの登場は画期的で、ブラッド・スウェット&ティアーズと並んで注目されたが、ブルームフィールドはドラッグへの依存が健康に悪影響を及ぼすようになっていたため、ファースト・アルバム『ア・ロング・タイム・カミン』(全米31位)の録音後に脱退している。
 1968年、モビー・グレープのアルバム『グレープ・ジャム』に参加。
 同年、アル・クーパーからジャム・セッションのアルバム制作を提案され、1960年代を象徴するアルバムのひとつである『スーパー・セッション』(全米12位)のレコーディングに参加した。ただしブルームフィールドは不眠症で体調が不安定であることを理由に、レコーディング途中で置手紙をして姿を消した。


 重い不眠症に悩んでいたブルームフィールドは、自宅にこもって映画音楽の制作やプロデュース・ワークをこなすようになったが、1968年9月26日~28日にはサンフランシスコのフィルモア・ウェストでアル・クーパーと、『スーパー・セッション』の再現的意味を持つライヴを行うことになった。この模様を収録したアルバムが、1969年にリリースした『フィルモアの奇蹟』(全米18位)である。
 『スーパー・セッション』『フィルモアの奇蹟』の2枚のアルバムによって、ロック界には既存のグループから離れた自由な演奏形態である「セッション」のブームが起こった。
 しかしブルームフィールドは、最終日の9月28日の演奏をまたしてもすっぽかしてしまう。不眠症から逃れるための薬物への依存と逃避がその理由だったという。


          
          『スーパー・セッション』


          
          『フィルモアの奇蹟』


 アル・クーパーとは、1968年12月にもフィルモア・イーストでライヴを行ったが、これは2003年に『Filmore East; The Lost Concert Tapes 12/13/68』として発表された。
 同年6月、ジャニス・ジョプリンのアルバム『コズミック・ブルース』のレコーディングに参加。
 この年ソロ・アルバム『イッツ・ノット・キリング・ミー』(全米127位)と、フィルモア・ウェストで録音した『ライヴ・アット・ビル・グラハムズ・フィルモア・ウェスト』をリリースしている。


 1970年代に入るとヘロイン中毒のため活動のペースが落ちてゆく。
 一時はギターからも離れたが、カルロス・サンタナらベイ・エリアのミュージシャンたちのバック・アップで演奏活動を徐々に復活させ、1973年にはジョン・ハモンド・ジュニア(guitar)、ドクター・ジョン(piano)とアルバム『三頭政治』(全米105位)を発表。
 1974年には「エレクトリック・フラッグ」の再結成に参加。
 1975年にはカーマイン・アピス(drums)、レイ・ケネディ(sax, vocal)、リック・グレッチ(bass)、バリー・ゴールドバーグ(keyboard)とともに「KGB」を結成したが、ブルームフィールドは薬物中毒が悪化したためアルバム『KGB』に参加したのみでほどなくバンドを離れた。
 1977年には、アルバム『If You Love Those Blues, Play 'Em as You Please』を発表している。


          


 その後のブルームフィールドは再び薬物依存が悪化し、1981年2月15日、カリフォルニア州サンフランシスコにおいて37歳で死去。駐車場に停めた車の中で意識不明になっているところを発見されたという。ヘロインの過剰摂取による死亡だと言われている。
 この数ヵ月後にはアル・クーパーからの要請によるセッションが予定されていたという。


 カルロス・サンタナが初めてブルームフィールドに会った時のことである。
 独特のギター・スタイルであること、またメキシコ出身のマイノリティであることなどを理由にしばしば心ない批判を受けていたサンタナは、一種の被害者意識から攻撃的な言動を相手に浴びせることも珍しくなかった。ブルームフィールドに対しても「いつかお前を潰してやる」と脅したが、ブルームフィールドは「君ならできるかもしれないね。がんばってくれよ。」とサンタナにエールを送った。これを聞いたサンタナは「彼の気持ちが伝わった気がした。もう虚勢を張るのはやめようと心に決めた」とのちに語っている。
 ブルームフィールドの人柄が偲ばれるエピソードである。



【ディスコグラフィ】

 <ポール・バターフィールド・ブルース・バンド>
  1966年 イースト・ウェスト/East-West US65位

 <エレクトリック・フラッグ>
  1968年 ア・ロング・タイム・カミン/A Long Time Comin' US31位

 <KGB>
  1975年 KGB/KGB US(ビルボード)124位

 <参加レコーディング>
 *アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルス
  1968年 スーパー・セッション/Super Session US12位


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ベック、ボガート&アピス

2022-08-22 15:35:45 | band

ベック、ボガート&アピス Beck Bogart & Appice
 

 1967年にデビューした「ヴァニラ・ファッジ」は、ティム・ボガート(bass)とカーマイン・アピス(drums)という強力なリズム・セクションを擁していた。このふたりのコンビネーションは、当時「ロック界屈指」と高く評価されていた。
 その頃「ジェフ・ベック・グループ」を率いていたジェフ・ベックは、ある日ヴァニラ・ファッジの「ショットガン」を聴き、大きな衝撃を受ける。このふたりと共演してみたいと思ったベックは、セルヴィル・シアターでのヴァニラ・ファッジの公演に行き、さらに強く共演を望むようになった。
 1969年8月、「ジェフ・ベック・グループ」は解散する。
 ちょうど同じ頃、ヴァニラ・ファッジもバンド内の不協和音が原因で解散することになり、これを契機にベック、ボガート、アピスの3人はロッド・スチュワートを加えて新グループを結成しようとする。
 スチュワートは最終的に「フェイセズ」に加入したことにより、ベック、ボガート、アピスはトリオとして活動するべく数度のセッションを行うが、同年11月2日にベックが運転中に交通事故を起こして全治3ヵ月の重傷を負ったため、このバンドの結成は頓挫した。


 ボガートとアピスは、1970年に「カクタス」を結成。
 ケガから回復したベックも「第2期ジェフ・ベック・グループ」を結成するが、やがてベックはボガートとアピスにこのバンドで演奏してほしいと連絡することになる。
 1972年7月、ジェフ・ベック・グループからクライヴ・チャーマン(bass)とコージー・パウエル(drums)が脱退すると、ボガートとアピスは後任としてグループに加入した。
 3人は、キム・ミルフォード(vocal)とマックス・ミドルトン(keyboard)を加え、「ジェフ・ベック・グループ」の名で1972年8月1日よりツアーを行うが、ミルフォードは「ステージ向きではない」との理由ですぐに解雇される。後任として、元ジェフ・ベック・グループのボブ・テンチ(vocal)が加入したが、テンチとミドルトンはツアーが終わるとバンドを脱退。
 新たなボーカリストとしてポール・ロジャース(元フリー)へ打診するもこれは実現せず、トリオ編成となったバンドは、名前を「ベック・ボガート&アピス」として、1972年9月に活動を開始する。
 1972年11月からレコーディングを始めた彼らは、1973年3月にファースト・アルバム『ベック・ボガート&アピス』(全米12位、全英28位)を発表。これは多くのロック・ファンに期待をもって迎えられた。





 スーパー・グループ「ベック・ボガート&アピス」(以下BB&A)の登場は、ロック界に衝撃を与え、メディアは「クリームやジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンシス以来の強力なロック・トリオである」と絶賛した。


 1973年5月、BB&Aは日本公演を行う。14日日本武道館、16日名古屋市民会館、18~19日大阪厚生年金ホールというスケジュールであった。
 大阪での2日間の模様を収めたライヴ・アルバムが、1973年10月に日本限定で発表された『ベック・ボガート&アピス ライヴ・イン・ジャパン』(日本21位)である。
 日本から帰国後、ボガートがオートバイ事故で重傷を負ったため、その後のツアーは全てキャンセルとなる。
 1974年1月にはセカンド・アルバムの録音が始まったが、ベックとボガートの音楽的対立が深まったうえ、ボガートとアピスがベックと別行動をとるようになり、同年5月にこのトリオは自然消滅した。





 バンド消滅後、ジェフ・ベックは1975年にギター・インストゥルメンタル・アルバムの金字塔と言われている傑作アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」を発表。
 ボガートはセッション・ミュージシャンとして活動、1976年には「ボクサー」に参加している。
 アピスは1975年にマイク・ブルームフィールド(guitar)、レイ・ケネディ(vocal, sax)、リック・グレッチ(bass)、バリー・ゴールドバーグ(keyboard)と新バンド「KGB」を結成した。


 【活動期間】
   1972~1974年

 【メンバー】
   ジェフ・ベック/Jeff Beck (1944.6.24~   )
     vocals, organ, piano, guitar, bass  在籍=1972~1974
   ティム・ボガート/Tim Bogert (1944.8.27~2021.1.13)
     bass, vocals  在籍=1972~1974
   カーマイン・アピス/Carmine Appice (1946.12.15~   )
     drums, percussions, vocals  在籍=1972~1974
   

 【ディスコグラフィ】
  ☆アルバム
    1973年 ベック・ボガート&アピス/Beck, Bogert & Appice(全米12位、全英28位、日本22位)
    1973年 ベック・ボガート&アピス ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan *ライヴ・アルバム(日本21位)



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ティム・ボガート

2022-08-21 10:31:55 | bass

ティム・ボガート John Voorhis "Tim" Bogert Ⅲ

【パート】
  エレクトリック・ベース、ヴォーカル

【生没年月日】
  1944年8月27日~2021年1月13日(76歳)

【出生地】
  アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークシティ

【経 歴】
  ヴァニラ・ファッジ(1966~1970)
  カクタス(1970~1972)
  ベック・ボガート&アピス(1973~1974)
  ボクサー(1976~1977)
  ヴァニラ・ファッジ(1982~1984)
  ヴァニラ・ファッジ(1987~1988)
  ヴァニラ・ファッジ(1999~2002)
  チャー、ボガート&アピス(1999)
  デリンジャー、ボガート&アピス(2000)
  ヴァニラ・ファッジ(2003~2008)
  カクタス(2006~2008)
  ヴァニラ・ファッジ(2009~2010)

  
  

 「ヴァニラ・ファッジ」、「ベック・ボガート&アピス」、「カクタス」のベーシストとして知られる。
 1960年代初期のモータウン・サウンドに傾倒した時期があり、ジェームス・ジェマーソンから大きな影響を受けたという。
 ファズをかけた粒立ちのよい音と、リード・ギターにも引けを取らない攻撃的な演奏が特徴であり、その圧倒的なベース・プレイはジャック・ブルースと双璧であろう。


 ニュージャージー州リッジフィールドで育った。
 8歳の時にピアノを習い始め、13歳でクラリネットを、さらにサックスを吹くようになる。
 高校ではマーチング・バンドに所属したが、リッジフィールド・メモリアル・ハイスクールに転校するとR&B系のバンドで活動。その後「バンドにサックスは不要と言われたこと、管楽器はいつも音を出しているわけではないこと」を理由にベースに転向した。
 高校卒業後はRCAのエレクトロニクス関係の専門学校に通い、電気工学を学んだ。
 ベーシストとしても活動を続けており、1965年に「リック・マーティン&ザ・ショウメン」に参加。ここでマーク・スタイン(keyboard)と出会う。
 ボガートとスタインは「ラスカルズ」のオルガン・サウンドに影響を受けて新バンドの結成を計画し、やはり「リック・マーティン&ザ・ショウメン」のメンバーだったヴィンス・マーテル(guitar)とジョーイ・ブレナン(drums)を加えて、1966年に「ピジョンズ」を結成した。やがてカーマイン・アピス(drums)に出会い、ブレナンの後釜としてピジョンズに迎え入れた。
 ピジョンズはレコーディング中の同年12月に「ヴァニラ・ファッジ」と改名する。


 ヴァニラ・ファッジは1967年にアトランティック・レコードと契約。
 同年6月にジョージ・"シャドウ"・モートンのプロデュースでシングル「キープ・ミー・ハンギング・オン」(1967年全英18位、1968年全米6位)を、同年8月にアルバム『ヴァニラ・ファッジ』(全米6位)をリリースし、ヒットを記録した。
 ヴァニラ・ファッジは、サイケデリックなサウンドとのちのハード・ロックにも多大な影響を与えたハードなサウンドを融合させ、一躍「ニュー・ロック」の旗手として注目を集めるに至った。
 とくにボガートとアピスのコンビは「ロック界有数の強力なリズム・セクション」と絶賛される。
 当時ヴァニラ・ファッジの「ショットガン」を聴いたジェフ・ベックが、ボガートとアピスの演奏に衝撃を受け、共演したいと望むようになったのは有名な話である。
 当時ベックが率いていた「ジェフ・ベック・グループ」は1969年8月に解散するが、折しもメンバー間の不和を抱えていたヴァニラ・ファッジも解散。これを機にベック、ボガート、アピスの3人はロッド・スチュワートを加えて新グループ結成に向けて動き始めるが、結局スチュワートは「フェイセズ」に加入した。これを受けてベック、ボガート、アピスはトリオとして活動するべく数度のセッションを行うが、同年11月2日にベックが運転中に交通事故を起こして全治3ヵ月の重傷を負ったため、このプランは流れた。





 ジェフ・ベックとの新グループの結成を断念したボガートとアピスは、アトランティックとの契約上アルバムを制作しなければならなかった。そのためふたりはラスティ・デイとジム・マッカーティのふたりのギタリストを迎え、同年に「カクタス」を結成。
 3枚のアルバムを発表したのち、1971年末にマッカーティが脱退、その後間もなくデイが解雇されると、1972年にピーター・フレンチ(vocal, 元アトミック・ルースター)、デュアン・ヒッチングス(keyboard)、ワーナー・フリッツシング(guitar)が加わって『汗と熱気』を発表する。
 その頃ベックは「第2期ジェフ・ベック・グループ」を率いていたが、このバンドが1972年に解散したのを機に、ボガートとアピスは再びジェフ・ベックに接近する。


 カクタスを解散したボガートとアピス、ジェフ・ベック・グループを解散したベックは、キム・ミルフォード(vocal)とマックス・ミドルトン(keyboard)を加えて新しいバンドの結成に向けて始動する。このバンドは「ジェフ・ベック・グループ」の名で1972年8月1日よりツアーを行うが、ミルフォードはすぐに解雇された。後任としてボブ・テンチ(vocal, 元ジェフ・ベック・グループ)が加入したが、ツアー終了後にはテンチとミドルトンは脱退してしまう。
 結局トリオ編成となったバンドは、1972年9月に「ベック・ボガート&アピス」としてスタート、1973年3月にアルバム『ベック・ボガート&アピス』(全米12位、全英28位)を発表した。
 高度な演奏技術を誇るBB&Aは、「クリーム」や「ジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンシス」と並ぶパワー・トリオ、あるいはスーパー・グループの登場としてロック界を震撼させた。
 1973年5月、BB&Aは唯一の日本公演を行い、14日日本武道館、16日名古屋市民会館、18~19日大阪厚生年金ホールで演奏した。大阪で演奏された2日間の模様を収めたのが1973年10月に日本限定で発表された『ベック・ボガート&アピス ライヴ・イン・ジャパン』(日本21位)である。
 日本から帰国後、ボガートは交通事故で重傷を負う。
 1974年1月にはセカンド・アルバムの録音が行われたが、ボガートとベックの音楽的対立が深刻になり、同年5月にこのトリオは消滅した。





 ボガートは、1973年にヤン・アッカーマン(guitar, フォーカス)のソロ・アルバム『Tabernakel』に参加しているが、BB&A解散後にはボ・ディドリーの『The 20th Anniversary of Rock 'n' Roll』(1976年)で演奏。
 そのほか、ボブ・ウィアー(guitar, グレイトフル・デッド)のプロジェクトや、ビリー・コブハム(drums)とともにボビー&ザ・ミッドナイツのツアーに参加。
 1977年には「ボクサー」のアルバム『Absolutely』に参加し、ベースを担当したほか、4曲を共作している。
 1980年、ロッド・スチュワートのアルバム『パンドラの匣』(全米12位、全英4位)に参加、3曲ベースを弾いている。
 1981年、初のソロ・アルバム『Progressions』を発表。ソロ・アルバムは1983年にも発表(『Master's Brew』)している。
 1981年、リック・デリンジャーのツアーに参加。
 1982年、オリジナル・メンバーの4人にロン・マンキューソ(guitar)、J.B.トード(guitar, ジェフ・ベックの変名)を加えてヴァニラ・ファッジの再結成に参加、1984年には15年ぶりのアルバム「Mystery」を発表した。
 1988年6月、アトランティック創立40周年記念イベントのためヴァニラ・ファッジ3度目の結成に参加、レッド・ツェッペリンなどと共演。
 これ以降はハリウッドの音楽専門学校MIのベース科講師を務めるかたわら、PATA(guitar, Xジャパン)、ジャック・ラッセル(vocal, グレイト・ホワイト)のアルバムに参加。
 1999年、チャー(竹中尚人)、ボガート&アピスを結成、日本ツアーを行う。
 2000年、デリンジャー、ボガート&アピスを結成。
 2002年、ヴァニラ・ファッジは18年ぶりのアルバム『The Return』をリリースし、ツアーも行った。
 2006年、カクタスの再結成に参加。メンバーはボガート、アピス、ジム・マッカーティ、ジミー・クーン(vocal, 元サヴォイ・ブラウン)の4人である。34年ぶりのアルバム『CuctusⅤ』を発表。
 2008年、ボガートはカクタスから脱退し、マイク・オネスコ(g,vo)、エメリー・セオ(d)とともに「オネスコ・ボガート・セオ・プロジェクト」を結成、2009年にアルバム「Big Electric Cream Jam」を発表。
 2010年、オートバイ事故がもとでツアーからの引退を表明。
 2013年、ハード・ロックのスーパー・グループ「ハリウッド・モンスターズ」のレコーディングにアピスやドン・エイリー(keyboard)とともに参加。
 2014年、ソロ・アルバム『Big Trouble』リリース。
 2021年1月13日、カリフォルニア州シミヴァレーで、ガンのため76歳で死去。


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ジャック・ブルース

2022-08-19 09:16:40 | bass

ジャック・ブルース John Symon Asher "Jack" Bruce

【パート】
  エレクトリック・ベース、コントラバス、チェロ、ギター、ピアノ、ハーモニカ、キーボード、ヴォーカル

【生没年月日】
  1943年5月14日~2014年10月25日(享年71歳)

【出生地】
  スコットランド ラナークシャー郡ビショップブリッグス

【経 歴】
  ドン・レンデル・グループ(1962~  )
  ブルース・インコーポレイテッド(1962~  )
  グラハム・ボンド・オーガニゼイション(1963~  )
  ジョン・メイオール・ブルース・ブレイカーズ(1965)
  マンフレッド・マン(1966)
  パワーハウス(1966)
  クリーム(1966~1968)
  トニー・ウィリアムス・ライフタイム(1970)
  ジャック・ブルース&フレンズ(1971~1972)
  ウエスト・ブルース&レイング(1972~1973)
  ザ・ジャック・ブルース・バンド(1975)
  ジャック・ブルース&フレンズ(1977)
  ロケット88(1979~1981)
  クリーム(1993)
  ベイカー・ブルース・ムーア(1993~1994)
  Jack Bruce & The Cuicoland Express(2001)
  クリーム(2005)





 「クリーム」のベーシストとして知られる。
 ブリティッシュ・ロック・シーンを語るうえで外すことのできない、重要なミュージシャン。
 ピアノやチェロもこなすマルチ・プレイヤーであり、ヴォーカリストとしても名高い。
 10代の頃に王立アカデミーでクラシックを学んだ、ジャズにも精通しており、コントラバスの演奏にも優れているところから、トニー・ウィリアムス(drums)、ラリー・コリエル(guitar)、カーラ・ブレイ(piano)、ビリー・コブハム(drums)、ジョン・マクラフリン(guitar)ら、世界的なジャズ系ミュージシャンとの共演も多い。
 幅広い音楽性を基にするブルースの活動はロックやブルースの垣根を越えたものであり、彼の存在はジャズ・ロックあるいはクロスオーヴァー・ミュージックの普遍化に大きく寄与したと言える。
 卓越した技術を土台とするジャック・ブルースの演奏は、とくにライヴでその個性が際立っている。自由で縦横無尽に弾きまくる彼のスタイルは、当時のロック・シーン、あるいは後進のミュージシャンに多大な影響を与えた。


 ジャック・ブルースは労働者階級の家に生まれた。
 4歳の時に一家はカナダに移住するが、2年ほどで帰国する。
 家庭は貧しかったが、音楽好きな両親のおかげで聖歌隊に入るなど、小さな頃から音楽に親しむ。
 またラジオから流れるクラシック音楽を好んで聴いていたほか、ジャズ・ピアノを弾く父の影響もあり、10歳の時にはピアノを即興で弾いたり、作曲をしていたという。
 11歳の頃には母や学校の教師に勧められ、音楽教育に力を入れていたベラハウストン・アカデミーに入学し、チェロを学んだ。そしてベラハウストン・アカデミーに通いながら奨学金を得て王立スコットランド音楽演劇アカデミーで作曲を学ぶが、次第にモダン・ジャズに傾倒するようになる。さらにアカデミーの指導方針とも対立するようになったブルースは結局17歳で中退した。
 在学中からローカル・ミュージシャンとして報酬を得ていたブルースは、中退後にその活動を本格化させる。
 一時イタリアに渡り米軍基地で働いていたが、1962年にロンドンに出る。
 この頃、通りがかりにあったクラブに入り、むりやりシット・インしてその演奏能力で店にいた面々を驚かせた。その時にディック・ヘクストール=スミス(のちコロシアム)やジンジャー・ベイカーと知り合ったという。
 1962年、マイク・テイラー(piano)、ジンジャー・ベイカー(drums)、グラハム・ボンド(sax)らとドン・レンデル(sax)のジャズ・グループに参加するほか、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドに加入する。
 1963年、ブルースとベイカーはグラハム・ボンド(organ, sax)とともに「グラハム・ボンド・トリオ」(のちの「グラハム・ボンド・オーガニゼイション」)の一員となる。
 グラハム・ボンド・オーガニゼイションではベイカーと対立することがままあり、これが元で65年8月にブルースはバンドを脱退する。
 1965年には「ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ」に参加。この時エリック・クラプトンと出会った。
 1966年にはマンフレッド・マンに3ヵ月ほど在籍。
 クラプトンはこの年に発表されたエレクトラ・レコードの企画アルバムに「エリック・クラプトン&パワー・ハウス」名義で参加しているが、ブルースはマンフレッド・マン脱退後にこのユニットでベースを弾いている。


 この頃エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーはふたりとも現状に満足していなかった。ベイカーは新しいバンドの結成をクラプトンに提案する。この時クラプトンは「ベースがジャック・ブルースなら」と返答した結果、1966年6月にクラプトン、ブルース、ベイカーが集結したスーパー・グループ「クリーム」が誕生する。
 クリームは「スーパー・グループ」としてだけでなく、高い演奏力を存分に発揮した即興演奏でロック界から大きな注目を浴びる。
 ここでのブルースは、卓越したベース・プレイだけでなく、ヴォーカリスト、マルチ・プレイヤーとしても高く評価された。
 しかしベイカーとの関係は、当初から危惧されていたとおり徐々に悪化し、いかんともし難いほど冷え切ってしまった。そのうえブルースとクラプトンの関係にも亀裂が入り、これらが大きな原因となって1968年11月にクリームは解散してしまう。


 クリーム以外の活動としては、1967年のマイク・テイラー・トリオのアルバム『トリオ』のレコーディングにコントラバスで参加。
 1968年8月には自己初のソロ・アルバム『シングス・ウイ・ライク』を制作(リリース1970年)したが、クリーム解散後の1969年4月に録音した『ソングス・フォー・ア・テイラー』の方が先にリリース(1969年8月)されている。


 1969年、ブルース、ラリー・コリエル(guitar)、ミッチ・ミッチェル(drums)、マイク・マンデル(keyboard)によるラインナップでライブ活動を再開したが、間もなく解散。
 1970年、マイルス・デイヴィスの黄金のクインテットの一員だったトニー・ウィリアムス(drums)のバンド「ライフタイム」に参加。翌71年には再びラリー・コリエルと組んでライブを行っている。
 1971年にはソロ3作目の『ハーモニー・ロウ』のリリース・ツアーでクリス・スペディング(guitar, 元ニュークリアス)、ジョン・マーシャル(drums, 元ニュークリアス)、ジョン・サーマン(sax)、グラハム・ボンド(sax)からなる「ジャック・ブルース&フレンズ」を編成するが、翌72年には解散。





 同年にはレスリー・ウエスト(guitar)、コーキー・レイング(drums)とともに「ウエスト・ブルース&レイング」を結成したが、1973年半ばで解散。
 1975年にはミック・テイラー(guitar, 元ローリング・ストーンズ)、カーラ・ブレイ(piano)、ブルース・ギャリー(drums)、ロニー・リーヒー(keyboard)による「ジャック・ブルース・バンド」を結成するが、レコーディングには至らなかった。
 1977年、トニー・ハイマス(keyboard)、サイモン・フィリップス(drums)、ヒューイ・バーンズで新たな「ジャック・ブルース・バンド」を組み、アルバム『ハウズ・トリックス』を発表した。
 1979年にはビリー・コブハム(drums)とともにジョン・マクラフリン(guitar)のツアーに参加。
 同年、「6人目のストーンズ」とも言われたピアニスト、イアン・スチュアートを中心として結成した「ロケット88」に加わる。このバンドは、ジャズ、ブルースを基調としたブギ・ウギ・バンドで、チャーリー・ワッツ(drums ローリング・ストーンズ)やアレクシス・コーナー(guitar, vocal)らも参加していた。


 1980年、ビリー・コブハムとともにモーズ・アリソン(piano)のサポートとしてモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演。またアメリカで「ジャック・ブルース&フレンズ」(ブルース、ビリー・コブハムdrums、クレム・クレムソンguitar、デヴィッド・サンシャスkeyboard)としての活動を始める。
 1980年代にはセッション・ベーシストとして、ロビン・トロワー(guitar)、キップ・ハンラハン(composer)、トレヴァー・ラビン(guitar)、ゲイリー・ムーア(guitar)、バーニー・マースデン(guitar)などのレコーディングをサポートしている。
 1987年には来日し、鈴木賢司(guitar)とライヴを行った。


 1993年1月、クリームは「ロックの殿堂」入りを果たしたが、その式典において、25年ぶりにクラプトン、ベイカーとともに「クリーム」としてステージに上がり、3曲を演奏した。この模様はTVでも放送された。
 1993年、ブルースのドイツでのライヴにゲイリー・ムーアが参加したことがきっかけとなり、ブルースは請われてムーアのソロ・アルバムに参加することになる。後日、このプロジェクトにジンジャー・ベイカーも加わり、「BBM」(Baker-Bruce-Moore)が結成された。1994年5月に発表されたアルバム『白昼夢』は全英9位のヒットを記録したが、ツアー中にメンバー間の対立が深まり、バンドは消滅する。
 以後ブルースはソロ活動に戻る。


 2003年、肝臓ガンのため緊急移植手術が行われて一命を取り留めたが、このためChar(guitar)、サイモン・カーク(drums)とのトリオで企画されていた日本武道館でのライヴはキャンセルされた。
 2005年5月、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでクリーム再結成コンサートが行われる。このニュースは世界中に流れ、一般紙にも取り上げられた。同年10月にはマディソン・スクエア・ガーデンでもコンサートを行っている。
 2008年12月、ヴァーノン・リード(guitar)、ジョン・メデスキ(organ)、シンディ・ブラックマン(drums)とのカルテットで来日。


 2014年3月、アルバム『シルヴァー・レイルズ』を発表、ドイツのアルバム・チャートで最高97位を記録した。これがブルースの最後のアルバムである。
 同年10月25日、イングランドのサフォーク州にある自宅で、家族に見守られながら息を引き取った。71歳。肝臓を患っていたと伝えられている。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

<ソロ・アルバム>
 1969年 ソングス・フォー・ア・テイラー/Songs for a Tailor(UK6位 US55位)
 1970年 シングス・ウイ・ライク/Things We Like ※録音1968年
 1971年 ハーモニー・ロウ/Harmony Row
 1974年 アウト・オブ・ザ・ストーム/Out of the Storm(US160位)
 1977年 ハウズ・トリックス/How's Tricks(US153位)
 1980年 アイヴ・オールウェイズ・ウォンテッド・トゥ・ドゥ・ディス/I've Always Wanted to Do This
 1987年 Automatic
 1989年 ウィルパワー/Willpower
 1989年 クエスチョン・オブ・タイム/Question of Time
 1993年 サムシン・エルス/SomethinEls
 1994年 シティーズ・オブ・ザ・ハート~ライヴ1993/Cities of the Heart
 1995年 モンクジャック/Monkjack
 1995年 BBC Live in Concert
 1996年 The Jack Bruce Collector's Edition
 1998年 Live on the Old Grey Whistle Test
 2001年 シャドウズ・イン・ジ・エアー/Shadows in the Air
 2003年 モア・ジャック・ザン・ゴッド/More Jack Than God
 2003年 ライヴ'75/Live '75 ※録音1975年
 2003年 ジェット・セット・ジュエル/Jet Set Jewel ※1978年録音
 2007年 HR Big Band Featuring Jack Bruce
 2008年 Spirit - Live at the BBC1971-1978
 2008年 Can You Follow?
 2014年 シルヴァー・レイルズ/Silver Rails(ドイツ97位)

<クリーム>
 1966年 フレッシュ・クリーム/Fresh Cream(UK6位 US39位)
 1967年 カラフル・クリーム/Disraeli Gears(UK5位 US4位)
 1968年 クリームの素晴らしき世界/Wheels of Fire(UK3位 US1位)
 1969年 グッバイ・クリーム/Goodbye(UK1位 US2位)
★1969年 Best of Cream(UK6位 US3位)
☆1970年 ライヴ・クリーム/Live Cream(UK4位 US15位)
☆1972年 ライヴ・クリーム Vol.2/Live Cream Volume 2(UK15位 US27位)
★1972年 Heavy Cream(US135位)
★1973年 Cream Off the Top
★1983年 Strange Brew:The Very Best of Cream(US205位)
★1995年 The Very Best of Cream(UK149位)
★1997年 Those Were the Days
★2000年 20th Century Masters - The Millennium Collection:The Best of Cream
☆2003年 BBCライヴ/BBC Sessions(UK100位 US39位)
☆2005年 リユニオン・ライヴ 05/Royal Albert Hall London May 2-3-5-6 2005(UK61位 US59位)
★2005年 Gold(UK186位)
★2005年 I Feel Free - Ultimate Cream(UK6位)
★2011年 Icon
☆2020年 Goodbye Tour:Live 1968

<レコーディング・セッション>
*ブルース・キャメロン/Bruce Cameron
 1999年 Midnight Daydream


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『ベック・ボガート & アピス ライヴ・イン・ジャパン』(ベック・ボガート & アピス)

2022-08-14 20:55:04 | albums

ベック、ボガート & アピス ライヴ・イン・ジャパン Beck, Bogert & Appice Live

【歌・演奏】
  ベック、ボガート & アピス/Beck, Bogert & Appice

【リリース】
  1973年10月21日(日本のみリリース)

【録音】
  大阪厚生年金会館
  1973年5月18日①⑧⑨
  1973年5月19日②~⑦, ⑩~⑬ 

【プロデューサー】
  The Boys(Beck, Bogert & Appice),  CBS/SONY Production

【レーベル】
  EPIC/CBSソニー

【録音メンバー】
 ☆ベック、ボガート & アピス
   ジェフ・ベック/Jeff Beck (guitars, lead-vocals)
   ティム・ボガート/Tim Bogert(bass, lead-vocals)
   カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, lead-vocals)





【収録曲】
 side:A
  ① 迷信 5:17
    Superstition(Stevie Wonder)
  ② 君に首ったけ 10:49
    Lose Myself With You(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice, Pete French)
  ③ ジェフズ・ブギー 3:33
    Jeff's Boogie(Jeff Beck, Keith Relf, Paul Samwell-Smith, Chris Dreja, Jim McCarty)
 side:B
  ④ ゴーイング・ダウン 3:32
    Going Down(Don Nix)
  ⑤ ブギー 4:58
    Boogie(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice)
  ⑥ モーニング・デュー 14:11
    Morning Dew(Bonnie Dobson, Tim Rose)
 side:C
  ⑦ スウィート・スウィート・サレンダー 4:43
    Sweet Sweet Surrender (Don Nix)
  ⑧ リヴィン・アローン 6:11
    Livin' Alone(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice)
  ⑨ アイム・ソー・プラウド 5:42
    I'm So Proud(Curtis Mayfield)
  ⑩ レディー 6:16
    Lady(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice, Pete French, Duane Hitchings)
 side:D
  ⑪ 黒猫の叫び 9:13
    Black Cat Moan(Don Nix)
  ⑫ ホワイ・シュッド・アイ・ケアー 7:20
    Why Should I Care(Ray Kennedy)
  ⑬ プリンス/ショットガン [Medley] 5:57
    Plynth/Shotgun [Medley] (Nicky Hopkins, Ron Wood, Rod Stewart, Autry "Junior Walker" DeWalt)

  

【チャート】
  1973年週間アルバム・チャート 日本21位






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『ベック、ボガート & アピス』

2022-08-14 00:01:40 | albums

ベック、ボガート & アピス Beck, Bogert & Appice

【歌・演奏】
  ベック、ボガート & アピス/Beck, Bogert & Appice

【リリース】
  1973年4月6日(UK)

【録音】
  1972年11月~1973年1月

【プロデューサー】
  ドン・ニックス/Don Nix ①⑤⑧
  ベック、ボガート & アピス/Beck, Bogert & Appice ②③④⑥⑦⑨

【レーベル】
  エピック

【録音メンバー】
 ☆ベック、ボガート & アピス
   ジェフ・ベック/Jeff Beck (guitars, lead-vocals①)
   ティム・ボガート/Tim Bogert(bass, lead-vocals④⑥⑦)
   カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, lead-vocals②③⑤⑧⑨)
 ★ゲスト・ミュージシャン
   デュアン・ヒッチングス/Duane Hitchings(piano, mellotron③)
   ジム・グリーンスプーン/Jim Greenspoon(piano⑤)
   ダニー・ハットン/Danny Hutton(backing-vocal)

【収録曲】
 side:A
  ① 黒猫の叫び 3:47
    Black Cat Moan(Don Nix)
  ② レディー 5:33
    Lady(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice, Pete French, Duane Hitchings)
  ③ オー・トゥ・ラヴ・ユー 4:05
    Oh To Love You(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice)
  ④ 迷信 4:19
    Superstition(Stevie Wonder)
 side:B
  ⑤ スウィート・スウィート・サレンダー 3:58
    Sweet Sweet Surrender (Don Nix)
  ⑥ ホワイ・シュッド・アイ・ケアー 3:33
    Why Should I Care(Ray Kennedy)
  ⑦ 君に首ったけ 3:18
    Lose Myself With You(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice, Pete French)
  ⑧ リヴィン・アローン 4:13
    Livin' Alone(Jeff Beck, Tim bogert, Carmine Appice)
  ⑨ アイム・ソー・プラウド 4:11
    I'm So Proud(Curtis Mayfield)

【チャート】
  1973年週間アルバム・チャート アメリカ12位 イギリス28位 日本22位



     



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『ヴァレンタイン組曲』(コロシアム)

2022-08-12 01:23:57 | albums

ヴァレンタイン組曲 Valentyne Suite

【歌・演奏】

  コロシアム/Colosseum

【リリース】
  1969年11月7日

【録音】
  1969年春~夏

【プロデューサー】
  トニー・リーヴス、ジェリー・ブロン/Tony Reeves, Gerry Bron

【レーベル】
  ヴァーティゴ/Vertigo(UK)

【録音メンバー】
 ☆コロシアム
   ジェイムス・リザーランド/James Litherland (guitars, lead-vocals)
   ディック・ヘクストール=スミス/Dick Heckstall-Smith(saxophones, flute④)
   デイヴ・グリーンスレイド/Dave Greenslade(organ, piano, vibraphone, backing-vocal④)
   トニー・リーヴス/Tony Reeves (bass)
   ジョン・ハイズマン/Jon Hiseman(drums, machine④)

【収録曲】
 side:A
  ① ザ・ケトル 4:28
    The Kettle(Dick Heckstall-Smith, Jon Hiseman)
  ② エレジー 3:09
    Elegy(James Litherland)
  ③ バティーズ・ブルース 6:41
    Butty's Blues(James Litherland)
  ④ 機械のいけにえ 3:53
    The Machine Demands a Sacrifice(James Litherland, Dick Heckstall-Smith, Jon Hiseman, Pete Brown)
 side:B
    ヴァレンタイン組曲 16:49
    Valentyne Suite
  ⑤ 第一主題ー1月の追求 6:20
    Theme One - January's Search (Dave Greenslade, Jon Hiseman)
  ⑥ 第二主題ー2月のヴァレンタイン 3:37
    Theme Two - February's Valentyne(Dave Greenslade, Jon Hiseman)
  ⑦ 第三主題ー緑なす草原 6:52
    Theme Three - The Grass Is Always Greener(Dick Heckstall-Smith, Jon Hiseman)

【チャート】
 1969年週間アルバム・チャート イギリス15位








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クリーム

2022-08-10 00:37:59 | band

クリーム Cream

 
 【活動期間】
   1966~1968年
   1993年
   2005年

 【メンバー】
   エリック・クラプトン/Eric Clapton (1945.3.30~   )
     vocals, guitar, 12strings-guitar  在籍=1966~1968
   ジャック・ブルース/Jack Bruce (1943.5.14~2014.10.25)
     vocals, bass, piano, organ, cello, a-guitar, harmonica, recorder  在籍=1966~1968
   ジンジャー・ベイカー/Ginger Baker (1939.8.19~2019.10.16)
     drums, percussions, vocals, spoken-word   在籍=1966~1968



 ブルースをベースにアドリブ主体の演奏を繰り広げ、ポップスやサイケデリック・ミュージックなどの要素も取り入れながら、新たなロックのスタイルを提示した、革新的かつ伝説のロック・トリオである。



 1962年、ジャック・ブルースはアレクシス・コーナーが主宰する「ブルース・インコーポレイテッド」に参加した。のち、このバンドにはジンジャー・ベイカーが加入し、ふたりはバンド・メイトとなる。しかしベイカーとブルースはこの当時からそりが合わず、たびたび衝突していたという。
 1963年、ブルースとベイカーは「グラハム・ボンド・トリオ」(のち「グラハム・ボンド・オーガニゼイション」)の結成に参加。
 間もなくブルースは脱退し、「マンフレッド・マン」を経て「ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ」に加入、ここでエリック・クラプトンと短期間ではあるがバンド・メイトになる。
 1966年、グラハム・ボンド・オーガニゼイションでの活動に行き詰まりを感じていたベイカーは、クラプトンにバンドの結成を持ちかけた。クラプトンもブルースブレイカーズでの活動を窮屈に感じていたため、「ベースをジャック・ブルースにするなら」という条件でその提案を受けた。ベイカーはブルースと非常に仲が悪かった(この事実をクラプトンは知らなかったという)ためこの提案に驚いたが、結局ベイカーはこの条件を受け入れた。
 クラプトンはブルースブレイカーズを脱退し、3人は同年6月に「クリーム」を結成した。





 1966年7月31日、クリームは雨中の第6回ナショナル・ジャズ & ブルース・フェスティヴァルで衝撃のデビューを飾る。
 セカンド・アルバム「カラフル・クリーム」からはプロデューサーにアメリカ人ベーシストのフェリックス・パパラルディを起用、また詩人のピート・ブラウンとの共作曲が増えた。
 サード・アルバム「クリームの素晴らしき世界」は、2枚組であるにもかかわらず全米アルバム・チャートで1位となり、プラチナ・アルバムを獲得した。2枚組アルバムがプラチナ・アルバムとなったのは世界で初めてだった。
 「クリームの素晴らしき世界」はスタジオ録音とライヴ録音を1枚ずつ分けて収録しているが、ライヴ録音で聴くことのできる白熱の演奏はクリームの本質を表しているとして、いまなお絶賛されている。
 しかしベイカーとブルースの軋轢がもたらす緊張は解消不能なところまで大きくなり、1968年5月には解散することが決断された。同年11月26日にロイヤル・アルバート・ホールで行われたフェアウェル・コンサートが最後の公演である。
 解散後は、クラプトンとベイカーは「ブラインド・フェイス」を結成、ブルースはソロ・アルバムを発表する一方でトニー・ウィリアムスのユニット「ライフタイム」に参加した。


 1993年1月、クリームは「ロックンロール・ホール・オブ・フェイム」(ロックの殿堂)入りを果たし、その式典でクリームとして3曲演奏した。
 2005年には、5月にロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはマディソン・スクエア・ガーデンで、再結成コンサートが行われ、世界中から注目された。


 音楽的に対等な位置関係にある3人が、ライヴで大音量でスリリングな即興演奏を展開する彼らのスタイルは、ロック・ミュージックや後続のミュージシャンに多大な影響を与えた。
 反面レコーディングではポピュラーな音作りを意識しており、これがより多くの音楽ファンに受け入れられた原因のひとつである。
 また彼らの音楽は、ハード・ロックのルーツのひとつであるとされる。
 クリームは、スーパー・グループのはしりであるとともに、彼らの登場によってロック・ミュージックはひとつのターニング・ポイントを迎えた。





 なおバンド名の「クリーム」は、当時のイギリスのミュージック・シーンでメンバーが3人とも「選りすぐりの者(cream of the crop)」と言われていたところから付けられたものである。
 
   

【ディスコグラフィ】
  ☆アルバム
   1966年 フレッシュ・クリーム/Fresh Cream(全米39位、全英6位)
   1967年 カラフル・クリーム/Disraeli Gears(全米4位、全英5位)
   1968年 クリームの素晴らしき世界/Wheels of Fire(全米1位、全英3位)
   1969年 グッバイ・クリーム/Goodbye(全米2位、全英1位)
   1970年 ライヴ・クリーム/Live Cream *ライヴ・アルバム(全米15位、全英4位)
   1972年 ライヴ・クリームVol.2/Live Cream Volume 2 *ライヴ・アルバム(全米27位、全英15位)
   2003年 BBCライヴ/Cream BBC *ライヴ・アルバム(全英100位)
   2005年 リユニオン・ライヴ 05/Royal Albert Hall London May 2-3-5-6 2005 *ライヴ・アルバム(全米59位、全英61位)
  ☆シングル
   1966年 包装紙/Wrapping Paper(全英34位)
   1966年 アイ・フィール・フリー/I Feel Free(全米116位、全英11位)
   1967年 ストレンジ・ブリュー/Strange Brew(全英17位)
   1967年 スプーンフル/Spoonful
   1968年 サンシャイン・ラヴ/Sunshine of Your Love(全米5位、全英25位)
   1968年 エニイワン・フォー・テニス/Anyone for Tennis(全米64位、全英40位)
   1968年 ホワイト・ルーム/White Room(全米6位、全英28位)
   1969年 クロスロード/Crossroads(全米28位)
   1969年 バッジ/Badge(全米60位、全英18位)
   1970年 ロウディ・ママ/Lawdy Mama(カナダ79位)
   2006年 サンシャイン・ラヴ/Sunshine of Your Love(オーストラリア31位)



   


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マイケル・ジャイルズ

2022-08-09 00:35:35 | drums

マイケル・ジャイルズ Michael Rex Giles

【パート】
  ドラムス、ボーカル

【生没年月日】
  1942年3月1日~

【出生地】
  イングランド ハンプシャー州ウォータールーヴィル

【経歴】
  ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックス(1961~1963)
  トレッドセッターズ・リミテッド(1963~1967)
  ザ・ブレイン(1967)
  ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ(1967~1968)
  キング・クリムゾン(1968~1969、1970)
  マクドナルド & ジャイルズ(1970)
  ジャクソン・ハイツ(1972~1973)
  グリムス(1973)
  21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド(2002~2003)
  マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド(2008~  )



 キング・クリムゾンの初代ドラマー。
 ベーシストのピーター・ジャイルズは実弟である。


 ハンプシャー州ウォータールーヴィルに生まれ、南イングランドに位置するドーセット州のボーンマスで育つ。
 10代のころにスキッフルやロックンロールの影響を受け、ドラムを叩くようになる。

 1960年1月、弟でベーシストのピーター・ジャイルズとともにローカルのセミ・プロ・バンド「ジョニー・キング & ザ・レイダース」に加入。「デイヴ・アンソニー & ザ・レベルズ」を経て、1961年11月、ピーターとともに、エヴァリー・ブラザーズを信奉していたバンド「ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックス」に参加する。これがジャイルズ兄弟の本格的な音楽活動の始まりである。
 ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックスはボーンマスの人気バンドであった。ジャイルズ兄弟はこのバンドに約2年在籍し、その間7枚のシングル・レコードを残している。この中にはジミー・ペイジがレコーディング・メンバーに加わっているものもある。
 1963年9月には、ホーン・セクションをフィーチュアしたインストゥルメンタル・コンボ・バンド「ザ・トレンドセッターズ・リミテッド」に加入、パーロフォンにレコーディングを残しているほか、渡英公演を行ったベン・E・キングらのバッキングも務めた。


 1967年8月、マイケルはピーターとともに、ザ・トレンドセッターズ・リミテッド改めザ・ブレインを脱退。
 ふたりは新聞にメンバーの募集広告を出すが、これがきっかけとなって同じドーセット州出身であるロバート・フリップと出逢い、1967年8月に「ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ」を結成。
 1967年の終わり頃にはロンドンへ進出し、デラムとレコーディング契約を結ぶ。
 1968年6月、元インフィニティのイアン・マクドナルドと、彼の恋人であるジュディ・ダイブル(vocal、元フェアポート・コンヴェンション)がジャイルズ・ジャイルズ & フリップに加入し、イアンとの繋がりでやはりインフィニティに在籍していたピート・シンフィールドが歌詞を提供するようになる。
 同年7月、イアンと破局したジュディがバンドを離れる。
 同年9月13日、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップのデビュー・アルバム『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ』が発表されたが、セールスは全く振るわなかった。
 同年12月、ピーター・ジャイルズの代わりとしてグレッグ・レイク(bass, vocal)が加入するプランが持ち上がり、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップは一度もライヴでの演奏をすることなく、バンド名を改めることになった。
 これが「キング・クリムゾン」の誕生である。


 キング・クリムゾンは1969年1月からリハーサルを開始し、4月9日にロンドンのスピーク・イージーでステージ・デビューを果たした。
 その後7月5日にはロンドンのハイド・パークで行われたブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズ)追悼ライヴに、8月9日には第9回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァルに出演するなどして、広くロック・ファンの耳目を集めるようになる。
 10月10日に発表したクリムゾンのデビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、その先鋭的な音楽性でシーンに多大な衝撃を与えた。
 クリムゾンは『クリムゾン・キングの宮殿』発表直後からアメリカ・ツアーを開始したが、その最中だった12月にマイケルとイアン・マクドナルドは、突然クリムゾンからの脱退を表明した。フリップとの間にできた溝、音楽的指向の違いや過酷なツアーによる心身の疲労などがその理由である。


 フリップから引きとめられたもののマイケルの脱退の意思は固かった。
 しかし代替メンバーの補充が思うように進まず、クリムゾンの活動も停滞するという苦境に立たされたフリップから短期のサポートを依頼され、マイケルは1970年1月~4月にかけて行われたクリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』に弟ピーターとともに参加している。
 そしてレコーディング終了後、改めてイアン・マクドナルドと合流し、「マクドナルド & ジャイルズ」の結成に至るのである。
 マクドナルド & ジャイルズは1970年5月から約2ヵ月にわたるレコーディングを行い、11月にファースト・アルバム『マクドナルド & ジャイルズ』を発表した。
 しかしイアンは、不本意な状態で『マクドナルド & ジャイルズ』を発表せざるえをえなかったことに対する不満があり、それに加えて当時の恋人であるシャーロット・ベイツ(『マクドナルド & ジャイルズ』のジャケットにイアンと写っている)との離別がもとで精神的なケアが必要となり、セラピーを受けるためにアメリカへ渡った。このため、マクドナルド & ジャイルズはその後まもなく自然消滅してしまった。


 マクドナルド & ジャイルズ消滅後はおもにセッション・ドラマーとしてさまざまなレコーディングに参加しているほか、ジャズ・ドラマーとしても活動。
 ジャクソン・ハイツ(元ナイスのドラマー、リー・ジャクソンが結成したバンド)の作品や、ケヴィン・エアーズの『夢博士の告白』などのほか、ロジャー・チャップマン(元ファミリー)、レオ・セイヤー、ロジャー・グローヴァー(元ディープ・パープル)、グラハム・ボネット(元レインボー)、ペンギン・カフェ・オーケストラ、ブライアン・フェリー(元ロキシー・ミュージック)、グレッグ・レイク、イアン・マクドナルドらの作品に参加している。


 1978年、ピーター・ジャイルズ、デイヴ・マクレエ(元ニュークリアス)、ジョン・G・ペリー(元キャラヴァン)、ジェフリー・リチャードソン(元キャラヴァン)、マイケル・ブレイクスリー(元トレッドセッターズ・リミテッド。『マクドナルド & ジャイルズ』にトロンボーンで参加している)らを迎えてレコーディング。これがマイケルのソロ・アルバム『プログレス』として、実に24年後の2002年にようやく発表された。
 1983年にはデヴィッド・カニンガム、ジェイミー・ミューア(元キング・クリムゾン)との共作で映画『Ghost Dance』のサウンド・トラックを制作した。この作品は1995年にCD化されている。


 2002年、マイケルとイアン・マクドナルドは共同で『マクドナルド & ジャイルズ』のリマスターを行ったが、これをきっかけとしてマクドナルド、ピーター・ジャイルズ(元キング・クリムゾン)、メル・コリンズ(元キング・クリムゾン)、ジャッコ・ジャクジク(元レベル42)と「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」を結成した。バンドに命名したのはロバート・フリップである。
 このバンドは初期キング・クリムゾンやマクドナルド&ジャイルズのナンバーをレパートリーとしていたが、マイケルは2002年の日本ツアーお終えた後、2003年初頭に脱退している。
 2008年にはエイドリアン・シヴァース(horns)、ダニエル・ペニー(guitar)とのトリオで「マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド」を結成し、翌09年に『The Adventures Of The Michael Giles MAD BAND』を、2011年にはキース・ティペット(piano)を迎えた編成でライヴ・アルバム『In The Moment』を発表している。



近年のマイケル・ジャイルズ


【ディスコグラフィ】
(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)


 <ソロ>
  2002年 プログレス/Progress *1978年録音

 <ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ>
  1968年 チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ/The Cheerful Insanity of Giles, Giles and Fripp
  2001年 Metaphormosis
  2001年 ザ・ブロンデスベリー・テープス/The Brondesbury Tapes

 <キング・クリムゾン>
  1969年 クリムゾン・キングの宮殿/In the Court of the Crimson King
  1970年 ポセイドンのめざめ/In the Wake of Poseidon

 <マクドナルド & ジャイルズ>
  1970年 マクドナルド & ジャイルズ/McDonald & Giles 

 <ジャクソン・ハイツ>
  1972年 フィフス・アヴェニュー・バス/Fifth Avenue Bus
  1972年 ラガマフィンズ・フール/Ragamuffins Fool
  1973年 バンプ・ン・グラインド/Bump n' Grind

 <マイケル・ジャイルズ、ジェイミー・ミューア、デヴィッド・カニンガム>
  1996年 Ghost Dance

 <21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド>
  2002年 オフィシャル・ブートレグ Vol.1/Official Bootleg Vol.1
 ☆2003年 ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan

 <ピーター・ジャイルズ、マイケル・ジャイルズ>

 ★2009年 The Giles Brothers 1962>1967 

 <マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド>
  2009年 The Adventures of the Michael Giles MAD BAND
  2011年 In the Moment

 <レコーディング・セッション>
  1971年 

   Clever Dogs Chase The Sun(ケニー・ヤング)
   Under Open Skies(ルーサー・グロヴナー)
  1972年 
   Nigel Lived(マレー・ヘッド)
   New Hovering Dog(B.J. コール)
   Duffy Power(ダフィ・パワー)
  1973年
   シルヴァーバード/Silverbird(レオ・セイヤー:UK2位, US209位)
   B.J. Arnau(B.J. Arnau)
   Food of Love(イヴォンヌ・エリマン)
   Hunter Muskett(Hunter Muskett)
   I Love You This Much(Jefferson)
   The Magic's in the Music(Ken Tobias)
   So Long Ago The Garden(Larry Norman)
   Unfinished Picture(ルパート・ハイン)
   Two Faced(Fischer & Epstein)
   Grimms(Grimms)

  1974年 
   ジャスト・ア・ボーイ/Just a Boy(レオ・セイヤー:UK4位, US16位)

   夢博士の告白/The Confessions of Dr. Dream and Other Stories(ケヴィン・エアーズ)
   Streetwalkers(チャップマン-ホイットニー)

   Jumblequeen(Bridget St. John)
   Lane Changer(Michael Fennelly)
   Messages(Steve Swindells)
   Storyboard(Mick Audsley)
   Butterfly Ball(ロジャー・グローヴァー)
  1975年
   アナザー・イヤー/Another Year(レオ・セイヤー:UK8位, US125位)
   Hard Road(Lennie MacDonald)

   Backwoods(Gary & Terry Woods)
  1976年
   サンセット・ウェディング/Sunset Wading(ジョン・G・ペリー)
   I/You(Brian Protheroe)

   Silent Mother Nature(Catherine Howe)
   Power House(Duffy Power)
  1977年
   Graham Bonnet(グラハム・ボネット)
   Flyaway(Nutshell)
  1978年
   ワイズ・アフター・ジ・イヴェント/Wise After the Event(アンソニー・フィリップス)
   Rocking in Rhythm(Bardot)

   I'm Grateful(Garth Hewitt)
  1979年
   サイズ/Sides(アンソニー・フィリップス)
   Believe It Or Not(Nutshell)

  1984年
   ブロードキャスティング・フロム・ホーム/Broadcasting from Home(ペンギン・カフェ・オーケストラ)
  1986年
   Earthrise(Tandy & Morgan)
  1993年
   タクシー/Taxi(ブライアン・フェリー:UK2位, US79位)
  1995年
   Seabird(ジョン・G・ペリー)
 ★1997年

   The Greg Lake Retrospective:From the Beginning(グレッグ・レイク)
  1999年
   ドライヴァーズ・アイズ/Drivers Eyes(イアン・マクドナルド)
  2002年
   Passion(マレー・ヘッド)
  2004年
  ☆Silver White Light Live at the Isle of Wight 1970(テリー・リード)


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