我が家は、小学校に上がるまで文字を教えませんでした。
それでも、友達と手紙交換したいし、自然に覚えてしまうものだけど、こちらから「文字に興味持つよう」な働きかけは一切して来なかったのです。
「入学して苦労しない?」
って心配してもらうことも多かったけど、小1になった娘は「ようやく文字を教えてもらえる♡」ことが嬉しかったようで目キラキラ
「こんなに意欲的に授業を受けてる子も珍しい」と担任の先生に驚かれたものよ。
うちは2人の娘に文字を教えなかったけど、苦労したことなんて全くなかったのです。
「一旦覚えちゃった文字を忘れることはできないんだから、せめて乳幼児期は文字を覚えなくてもいいんじゃない?」ってのが私の考え。
……………………転載します……………………
篠秀夫 先生ブログ
「7才までは文字を教えないで」(文字は言葉ではありません)
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201209030000/
現代人は「言葉」について大きな勘違いをしています。
それは「言葉」を単なる「コミュニケーションの道具」だと思い込んでいることです。
そして、コミュニケーションの道具だから、「コミュニケーション」で伝えることも出来ると思い込んでいます。
「リンゴ」という言葉を教えるためにはリンゴを見せて、「これがリンゴだよ」と教えれば済むと思っています。
確かに、そのように学んだ言葉でも、それなりにコミュニケーションの道具としては使うことが出来ます。
「リンゴを買ってきて」とか「リンゴジュース」という言葉も理解できるでしょう。
そして現代人は「言葉とはそういうものだ」と思い込んでいます。
でも、この場合の「リンゴ」は、「言葉」ではなく、「リンゴ」というものを指し示すための「記号」に過ぎません。
ですから、「リンゴ」ではなく「A301」でも同じです。
リンゴを見せて、「これはA301だよ」と教えても、そこには何の違いもありません。
「A301を勝ってきて」と言えばちゃんとリンゴを買ってくるでしょうし、「A301ジュース」といえば「リンゴジュース」だということを理解するでしょう。
でも、この場合の「リンゴ」は「言葉としてのリンゴ」ではありません。
そもそも、皆さんが今お読みなっているこの「文字」も本来の意味の「言葉」ではないのです。
文字は「言葉」を記録するために作り出された記号に過ぎません。
ですから、「文字=言葉」ではないのです。
実は、私たちの脳は、「文字」をいちいち「言葉」に変換して理解しているのです。
脳は「文字」のままでは理解できないのです。
実際、ある種の障害によって「文字」を「言葉」に変換できない人たちがいるのです。
そのような人は文字を読むことが出来ても、読んで理解することが出来ないのです。
でも、同じ文章を人に読んでもらえば理解することが出来るのです。
そして障害がなくても、7才前の幼い子どもたちはみなそのような状態です。
「言葉<->文字」という変換機能が未成熟なのです。
(発達には個人差がありますから7才前後と言うことです。)
その辺の機能がしっかりとしてくるのが7才を過ぎてからです。
だから7才を過ぎるまでは文字を教えない方がいいのです。
確かに、7才前の子どもでも教えれば「文字」を書いたり読むことが出来るようにはなります。
でも、文字を読んでも「言葉として」理解することが出来ないのです。
大人の常識としては理解しにくいかも知れませんが、大人に読んでもらえば理解できるような文章でも、幼い子どもは文字を通してでは理解できないのです。
また、そのような作業は幼い子どもの脳に大きな負担になります。
人間にとって「言葉」はその生命の働きとつながった本能的、本質的な要素ですが、「文字」はその「言葉」の道具として発明された人工物なのです。
ですから、「文字」がなくなっても「言葉」は残りますが、「言葉」が消えてしまったら「文字」も消えてしまいます。
「文字」を教えるためには「言葉」が必要だからです。
「言葉」だけで「言葉」を教えることは出来ますが、「文字」だけで「文字」を教えることは出来ないのです。
「言葉」は「文字を超えた世界」なのです。
それが「言葉の世界」です。
でも、現代人は「文字を超えた言葉の世界」の存在が理解できなくなりつつあります。
それは、現代社会が「言葉」ではなく「文字」によって機能しているからです。
でも、「子育て」や、「夫婦関係」や、「仲間作り」において重要なのは、何万年も前と同じように、「文字」ではなく「言葉」なのです。
実際、そのような場では「文字」はほとんど役に立ちません。
子育てにおいては全く役に立ちません。
でも、「言葉の世界」を失ってしまった人は、子どもにどのようにして「言葉」を伝えたらいいのかが分からないのです。
だから、「言葉」を教える代わりに「文字」を教えようとします。
言葉の道具として生まれた文字を、言葉よりも先に教えようとしているのです。
また、親子の間の言葉も「文字化」(記号化)しています。
言葉が「言葉」として語られていないのです。
その結果、本来「言葉の育ち」を通して育つはずの「心」や、「からだ」や、「知性」が育たなくなってしまっているのです。
「言葉」は共有されるところから始まります。
赤ちゃんが「あー」と言った時、お母さんも「あー」と応えるのが「言葉の原点」です。
共有することが出来るから、伝えることも出来るのです。
でも、文字は共有できません。
**
「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません。
ですから「詩」こそが「言葉の原型」なのです。
そしてだから、子どもの言葉は「詩」のようであり、また、言葉を得た古代の人たちはすぐに「神」について語り出したのです。
R.シュタイナーの言葉も、聖書の言葉もまた「内的な世界」を伝えるためのものです。
でも、現代人はその言葉を「外的な言葉」を理解するように理解しようとしてしまいます。
そのような理解の仕方しか知らないからです。
だから話がおかしくなってしまうのです。
**
「言葉の世界」はそのままの状態では文字化できません。
その文字化できない世界を説明するのはなかなか困難です。
……………………もういっちょ……………………
「言葉は魔法である」
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201209040000/
最初にちょっと昨日の補足をします。
昨日「7才までは字を教えないで下さい」と書いたのは、大人の意識のことを問題にしたのであって、聞かれたら聞かれた範囲で答えるのはOKです。
でも、その際誤解してはいけないのは、子どもは「字」というものに興味を持っただけであって、「文字を習いたい」と思ったのではないということです。
皆さんが外国に行って、見たことも聞いたこともないスポーツを見た時、「このスポーツはなんですか」「あの人は何をしているのですか」と聞いたとしても、それは「そのスポーツを習いたい」ということではないですよね。
また、子どもが虫を持ってきて、「この虫なんて言うの」と聞いてきたからといって、子どもが「昆虫について」知りたいと思ったわけでもないですよね。
変な漢字が描かれた洋服を着ている外国人が、「漢字を学びたい」と思っているわけではないですよね。
それと同じです。
子どもは大人たちが見たり書いたりしている「不思議なもの」に興味を持っただけであって、それを習いたいと思ったのではないということです。
ましてや、字を覚えて、自分で本を読みたいなどとは思わないものです。
そう思うのは、「本を読んでくれる人」がいない時です。
孤独な子どもが、その孤独を癒す手段の一つとして自分で本を読むことはあります。
でも、そのような子はそのことで、「お母さんと感覚や感情を共有する体験」や「他の子との関わり方」を学ぶ機会を失ってしまうかも知れません。
大人はその状態を喜ぶかも知れませんが、7才前の子どもにとっては失うものも大きいのです。
また、プクプクさんが書いて下さったように、「字」を覚え始めた子は絵を描かなくなります。
それはうちの教室でも見ることが出来る現象です。絵を描かせると「字」を書くのです。
なぜなら、子どもにとっては「字」と「絵」は同じものだからです。
それは、外国人の感覚と同じです。
昨日は最後の方に
『「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません』と書きました。
古代の人たちにとっては、「言葉」は「内的な世界」から出て、直接「内的な世界」に届くものだったのです。
現代人のように「情報伝達の手段」などと考えるようになったのはつい最近のことだと思います。
そのため、「言葉」はそのまま呪術的なものだったのです。
だから、「言葉」で、呪ったり、祝ったり、祈ったりすることが出来るのです。
そして、その感覚は現代人にも残っています。
だから人は「言葉」によって傷ついたり、喜んだりするのです。
そしてここが重要なのですが、7才前の幼い子どもたちはまだその「呪術的な言葉の世界」に生きているということです。
だから、「いたいの いたいの 飛んでいけ」という「魔法の言葉」が効くのです。
そしてだから、幼い子どもたちはお母さんや大人の言うことをそのまま信じるのです。
うちの子が小さい時、家の中で「お父さんどこ?」と私を探していました。
その時私はおトイレに入っていたのですが、子どもはトイレの前に来て「お父さん中にいるの」と聞いてきました。
それで私はトイレの中から「お父さんはいないよ」と答えました。
その時、声色を使ったわけではありません。
普通の声で「お父さんはいないよ」と言っただけです。
そうしたら子どもは「お父さんがいない」と泣き出したのです。
大人になると理解不能の現象ですが、幼い子どもたちはこのような世界に生きていると言うことです。
ですから、幼い子どもたちに冗談は通じません。
「あんたなんか産まなけりゃ良かった」とか、「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」とか、「バカ、シネ」などというと、子どもはその言葉を「呪いの言葉」として、本気に受け取ります。
そして、その「呪いの言葉」は子どもの無意識の中に入り込み、一生消えません。
「言葉」には人を殺すことも、生かすことも出来る魔法の力があるのです。
でも、現代人はそのような「言葉の世界」を知りません。
学校でも教えてくれません。
そのような言葉と出会うことが出来るのは「物語の世界」の中です。
だから、子どもたちは物語を聞くのが大好きなのです。
子どもたちは「物語の世界の言葉の世界」に生きているのです。
ちなみに、その魔法の力を書き留める「文字」にもまた、「呪術的な魔法の力」があるのです。
それが子どもと古代の人たちの感覚です。
それでも、友達と手紙交換したいし、自然に覚えてしまうものだけど、こちらから「文字に興味持つよう」な働きかけは一切して来なかったのです。
「入学して苦労しない?」
って心配してもらうことも多かったけど、小1になった娘は「ようやく文字を教えてもらえる♡」ことが嬉しかったようで目キラキラ
「こんなに意欲的に授業を受けてる子も珍しい」と担任の先生に驚かれたものよ。
うちは2人の娘に文字を教えなかったけど、苦労したことなんて全くなかったのです。
「一旦覚えちゃった文字を忘れることはできないんだから、せめて乳幼児期は文字を覚えなくてもいいんじゃない?」ってのが私の考え。
……………………転載します……………………
篠秀夫 先生ブログ
「7才までは文字を教えないで」(文字は言葉ではありません)
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201209030000/
現代人は「言葉」について大きな勘違いをしています。
それは「言葉」を単なる「コミュニケーションの道具」だと思い込んでいることです。
そして、コミュニケーションの道具だから、「コミュニケーション」で伝えることも出来ると思い込んでいます。
「リンゴ」という言葉を教えるためにはリンゴを見せて、「これがリンゴだよ」と教えれば済むと思っています。
確かに、そのように学んだ言葉でも、それなりにコミュニケーションの道具としては使うことが出来ます。
「リンゴを買ってきて」とか「リンゴジュース」という言葉も理解できるでしょう。
そして現代人は「言葉とはそういうものだ」と思い込んでいます。
でも、この場合の「リンゴ」は、「言葉」ではなく、「リンゴ」というものを指し示すための「記号」に過ぎません。
ですから、「リンゴ」ではなく「A301」でも同じです。
リンゴを見せて、「これはA301だよ」と教えても、そこには何の違いもありません。
「A301を勝ってきて」と言えばちゃんとリンゴを買ってくるでしょうし、「A301ジュース」といえば「リンゴジュース」だということを理解するでしょう。
でも、この場合の「リンゴ」は「言葉としてのリンゴ」ではありません。
そもそも、皆さんが今お読みなっているこの「文字」も本来の意味の「言葉」ではないのです。
文字は「言葉」を記録するために作り出された記号に過ぎません。
ですから、「文字=言葉」ではないのです。
実は、私たちの脳は、「文字」をいちいち「言葉」に変換して理解しているのです。
脳は「文字」のままでは理解できないのです。
実際、ある種の障害によって「文字」を「言葉」に変換できない人たちがいるのです。
そのような人は文字を読むことが出来ても、読んで理解することが出来ないのです。
でも、同じ文章を人に読んでもらえば理解することが出来るのです。
そして障害がなくても、7才前の幼い子どもたちはみなそのような状態です。
「言葉<->文字」という変換機能が未成熟なのです。
(発達には個人差がありますから7才前後と言うことです。)
その辺の機能がしっかりとしてくるのが7才を過ぎてからです。
だから7才を過ぎるまでは文字を教えない方がいいのです。
確かに、7才前の子どもでも教えれば「文字」を書いたり読むことが出来るようにはなります。
でも、文字を読んでも「言葉として」理解することが出来ないのです。
大人の常識としては理解しにくいかも知れませんが、大人に読んでもらえば理解できるような文章でも、幼い子どもは文字を通してでは理解できないのです。
また、そのような作業は幼い子どもの脳に大きな負担になります。
人間にとって「言葉」はその生命の働きとつながった本能的、本質的な要素ですが、「文字」はその「言葉」の道具として発明された人工物なのです。
ですから、「文字」がなくなっても「言葉」は残りますが、「言葉」が消えてしまったら「文字」も消えてしまいます。
「文字」を教えるためには「言葉」が必要だからです。
「言葉」だけで「言葉」を教えることは出来ますが、「文字」だけで「文字」を教えることは出来ないのです。
「言葉」は「文字を超えた世界」なのです。
それが「言葉の世界」です。
でも、現代人は「文字を超えた言葉の世界」の存在が理解できなくなりつつあります。
それは、現代社会が「言葉」ではなく「文字」によって機能しているからです。
でも、「子育て」や、「夫婦関係」や、「仲間作り」において重要なのは、何万年も前と同じように、「文字」ではなく「言葉」なのです。
実際、そのような場では「文字」はほとんど役に立ちません。
子育てにおいては全く役に立ちません。
でも、「言葉の世界」を失ってしまった人は、子どもにどのようにして「言葉」を伝えたらいいのかが分からないのです。
だから、「言葉」を教える代わりに「文字」を教えようとします。
言葉の道具として生まれた文字を、言葉よりも先に教えようとしているのです。
また、親子の間の言葉も「文字化」(記号化)しています。
言葉が「言葉」として語られていないのです。
その結果、本来「言葉の育ち」を通して育つはずの「心」や、「からだ」や、「知性」が育たなくなってしまっているのです。
「言葉」は共有されるところから始まります。
赤ちゃんが「あー」と言った時、お母さんも「あー」と応えるのが「言葉の原点」です。
共有することが出来るから、伝えることも出来るのです。
でも、文字は共有できません。
**
「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません。
ですから「詩」こそが「言葉の原型」なのです。
そしてだから、子どもの言葉は「詩」のようであり、また、言葉を得た古代の人たちはすぐに「神」について語り出したのです。
R.シュタイナーの言葉も、聖書の言葉もまた「内的な世界」を伝えるためのものです。
でも、現代人はその言葉を「外的な言葉」を理解するように理解しようとしてしまいます。
そのような理解の仕方しか知らないからです。
だから話がおかしくなってしまうのです。
**
「言葉の世界」はそのままの状態では文字化できません。
その文字化できない世界を説明するのはなかなか困難です。
……………………もういっちょ……………………
「言葉は魔法である」
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201209040000/
最初にちょっと昨日の補足をします。
昨日「7才までは字を教えないで下さい」と書いたのは、大人の意識のことを問題にしたのであって、聞かれたら聞かれた範囲で答えるのはOKです。
でも、その際誤解してはいけないのは、子どもは「字」というものに興味を持っただけであって、「文字を習いたい」と思ったのではないということです。
皆さんが外国に行って、見たことも聞いたこともないスポーツを見た時、「このスポーツはなんですか」「あの人は何をしているのですか」と聞いたとしても、それは「そのスポーツを習いたい」ということではないですよね。
また、子どもが虫を持ってきて、「この虫なんて言うの」と聞いてきたからといって、子どもが「昆虫について」知りたいと思ったわけでもないですよね。
変な漢字が描かれた洋服を着ている外国人が、「漢字を学びたい」と思っているわけではないですよね。
それと同じです。
子どもは大人たちが見たり書いたりしている「不思議なもの」に興味を持っただけであって、それを習いたいと思ったのではないということです。
ましてや、字を覚えて、自分で本を読みたいなどとは思わないものです。
そう思うのは、「本を読んでくれる人」がいない時です。
孤独な子どもが、その孤独を癒す手段の一つとして自分で本を読むことはあります。
でも、そのような子はそのことで、「お母さんと感覚や感情を共有する体験」や「他の子との関わり方」を学ぶ機会を失ってしまうかも知れません。
大人はその状態を喜ぶかも知れませんが、7才前の子どもにとっては失うものも大きいのです。
また、プクプクさんが書いて下さったように、「字」を覚え始めた子は絵を描かなくなります。
それはうちの教室でも見ることが出来る現象です。絵を描かせると「字」を書くのです。
なぜなら、子どもにとっては「字」と「絵」は同じものだからです。
それは、外国人の感覚と同じです。
昨日は最後の方に
『「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません』と書きました。
古代の人たちにとっては、「言葉」は「内的な世界」から出て、直接「内的な世界」に届くものだったのです。
現代人のように「情報伝達の手段」などと考えるようになったのはつい最近のことだと思います。
そのため、「言葉」はそのまま呪術的なものだったのです。
だから、「言葉」で、呪ったり、祝ったり、祈ったりすることが出来るのです。
そして、その感覚は現代人にも残っています。
だから人は「言葉」によって傷ついたり、喜んだりするのです。
そしてここが重要なのですが、7才前の幼い子どもたちはまだその「呪術的な言葉の世界」に生きているということです。
だから、「いたいの いたいの 飛んでいけ」という「魔法の言葉」が効くのです。
そしてだから、幼い子どもたちはお母さんや大人の言うことをそのまま信じるのです。
うちの子が小さい時、家の中で「お父さんどこ?」と私を探していました。
その時私はおトイレに入っていたのですが、子どもはトイレの前に来て「お父さん中にいるの」と聞いてきました。
それで私はトイレの中から「お父さんはいないよ」と答えました。
その時、声色を使ったわけではありません。
普通の声で「お父さんはいないよ」と言っただけです。
そうしたら子どもは「お父さんがいない」と泣き出したのです。
大人になると理解不能の現象ですが、幼い子どもたちはこのような世界に生きていると言うことです。
ですから、幼い子どもたちに冗談は通じません。
「あんたなんか産まなけりゃ良かった」とか、「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」とか、「バカ、シネ」などというと、子どもはその言葉を「呪いの言葉」として、本気に受け取ります。
そして、その「呪いの言葉」は子どもの無意識の中に入り込み、一生消えません。
「言葉」には人を殺すことも、生かすことも出来る魔法の力があるのです。
でも、現代人はそのような「言葉の世界」を知りません。
学校でも教えてくれません。
そのような言葉と出会うことが出来るのは「物語の世界」の中です。
だから、子どもたちは物語を聞くのが大好きなのです。
子どもたちは「物語の世界の言葉の世界」に生きているのです。
ちなみに、その魔法の力を書き留める「文字」にもまた、「呪術的な魔法の力」があるのです。
それが子どもと古代の人たちの感覚です。