【「澄まし処」との出会い】
ふなちゃんこと吉橋久美子ちゃんの「澄まし処(すましか)」に出会ったのは、
わたしがけーすけと結婚するちょっと前。
ちょうど10年くらい前だなぁ。
ふなちゃんが、田んぼの「ヒエ取りボランティア」に参加してくれて、
その時の休憩時間に畦道で
「結婚前の気持ちを15分聴かせてほしい」と粋な提案をしてくれて、
15分、ただただその時の心境を聴いてもらった。
のちに、
わたしの「あの時・あの瞬間」の語りをテープ起こしして手作りの冊子にしたものを、
結婚のお祝いとしてプレゼントしてくれた。
唯一無二、もう2度と戻ることがない「結婚前」のわたしの気持ちが綴られたその冊子は
一生の宝物。
きっとわたしの命がなくなっても、家族が大切にしてくれるものだと思う。
昔からわたしは、班長、学級委員、児童会、生徒会など、
「代表」になることがそこそこ多く、
4月のクラス発表の時には、
「このクラスからいじめを出さない」
「寂しい思いをする人は作りたくない」
「最高のクラスにしなくちゃ」
と心の中で決意表明し、
遊びに行けば
「わたしがこの場を盛り上げなくちゃ」
「笑わせなくちゃ」
と思っていたし
相談相手に任命してもらった時は、
「沈黙をなんとかしなくちゃ」
「良いこと言わなくちゃ」
と、いつも思っていた。
それは一見、志が高いように思えて、
今思うと、水面の上から、全体を見下げているようなところもあった。
さらには、わたしの人生において
「面白いこと」
が一番大事だと思ってきたから、
「笑わせなくちゃ」
と思っていたと同時に
誰かの話を聴く時も
「オチはないんかーい」
と突っ込んだりもしてた。
「傲り(おごり)」極まりなかったように思う。
そんなわたしにとって「在り方」を見直すきっかけをくれたのが、水野スウさんと、ふなちゃん。
ふなちゃんの「澄まし処」は、
わたしにとって「優しさのつもり」だった
「沈黙をなんとかしなきゃ」
「励まさなきゃ」
が、相手の力を奪っていたことに気づかせてくれた。
【「澄まし処」はひとつの実験】
「澄まし処」とは
ふなちゃんの造語であり、
「ただただ聴く」ひとつの実験。
(ここから見えてくることを味わう時間でもある)
ここでの「聴き手」は「話し手」の思考に影響を与えない聴き方(自分のための聴き方をしない)をする。
わからないことがあっても、
聴きたいことがあっても、
この15分は質問したり、励ましたり、
過剰に「!」「?」「😞」「😆」と表現せずそばで寄り添う。
自分の存在を頑張って「ゼロ」にする。
そうすると、話し手はイキイキしてくる。
「信頼されている」
「尊重されている」
と感じたりもする。
わからないことがあって「?」って顔をしたり、
聴き手が言葉を繰り返す時、語尾に「?」をつけると、
話し手は「詳しく説明しなきゃ」って思ってしまう。
つまり、それは「あなたの時間です」と宣言した「聴き手」が「表舞台に現れる」ことになる。
影武者でいたはずの「聴き手」が、姿を見せてしまうことになる。
人との会話においていつも「澄まし処」のような聴き方をしないといけないのではなく、
日常はお互いに存在しあっておしゃべりしていたとしても、
「澄まし処」での聴き方を知っていると
「ここぞ」って時に相手に寄り添った聴き方ができるようになる。
そうやって聴いてもらう時、聴き手は
「包んでもらっているような」
「ぴったりとそばにいてくれるような」
安心感に包まれたりもする。
15分、語り手に委ねていると(時に「沈黙のあと」で)語り手は自分の言葉が溢れてくる。
「言葉」は海の海面からちょっとだけ出ているだけで
深いところではもっともっとたくさんある。
「ここぞって時になんか良いこと言わなくちゃ」
と優しい人ほど思ったりするけれど、
「なんか良いこと」は「自分の言葉」。
一方、「澄まし処」は、「ありがとう」を言ってもらうこともなければ
達成感もない聴き方ではあるけれど、
ここは、言葉を曲げずに聴いてもらえる場所であり、
聴き手の態度で場が積み上げられる場所であり、
「語り手が自由に動ける舞台に立ったら、何が起きるのか」
「語り手がどう動いていくか」の実験なんだそう。
【語り手の言葉を繰り返す・言葉を辿る】
ただ黙って聴いているだけでなく、
「逐語記録(ちくごきろく)=発言を一語一句漏らさずに記録する」の読み解きをする。
そのまま繰り返すのは「評価せず」のありのままの言葉。
聴き手に言い換えられない(形を壊されない)から、もっと言葉が出てくる。
物語を繰り返すと「物語が続いていく」。
語り手の言葉を語尾まで繰り返すのは
①聴き手が自分の考えをぐるぐるさせないため
②心の中で「その人の身」になるため
③相手の言葉を大切にする=相手を大切にする
こと。
(ふなちゃん談)
これは、話し手に「同調する」のではなく、
話し手の話を「聴き切った」あとで(相手の姿を見せてもらった上で)考えを共有したり、
違うと思えば、反論するなり、意見を戦わせるなりしたらいい。
まずは、聴き切る!
そして、「澄まし処」の学びでは
語ってくれた15分の「読み解き」をする。
言葉を辿ることで見えてくることがある。
ふなちゃんがいつも伝えてくれること。
「澄まし処」は「誰でもできる」こと。
心が広いから聴けるのではなく、
心が狭くても
「あなたの15分、聴かせていただきます」
と決意すれば、誰でも聴ける。
特別な人しかできないことではない。
わたしの大好きな本。
「わたしとあそんで」(マリー・ホール・エッツ 文・絵 / よだ じゅんいち 訳)
ただただおんなの子が「そこに居る」だけで動物たちが寄ってくるおはなし。
「モモ」(ミヒャエルエンデ 作 / 大島かおり 訳)
モモは、相手をじっと見つめ、意見を言ったり、励ましたり、慰めるようなことはしない。
ひたすら相手の話を慎重に、じっくりと聴き続ける。
聴いてもらっているうちに、悩みや問題を抱えている人は、希望が湧いてくる。
【講座の中で出た話】
子どもたちはいじわるで「一語一句」変えずに相手の言葉を真似したりすることもあるけれど、
された方は結構怒れる。
「言葉を繰り返す」ことには、影響力があるということ。
「わたしなんてダメな人間」というようなことを語り手が言ったとき
「そんなことないよ!」
と言われたら
「ありがとう」
と言うし、擁護した側は「ありがとう」と言ってもらえるけれど、
語り手にとってそのとき「何かが壊れた感じ」がする。
大切な話をしているときに
「なんで?」
と聴かれると呼吸が止まる気がする。
質問すると2人の時間になってしまう。
今回、わたしが感じたこと。
人って「べき」や「善悪」で話すことは多くても
「気持ち」を話すことってとっても少ないそう。
「澄まし処」で「これを話そう」と決めてきても
長くてもだいたい10分くらいで話は終わっちゃって、
あとは「えーーーーっと(まだ時間あるな)」ってなる。
ここから出てくるのは、用意していた言葉でも、「べき」でも「善悪」でもなくて
「気持ち」なんだなぁってことに気づいた。
おもしろいね!
機会があったら、ぜひ、ふなちゃんの「澄まし処」に参加してみてね。
自分の「在り方」が変わる気がします。
ふなちゃんと豊橋の方を繋げてくれたのはよっしぃ。
わたしも便乗させてもらって、豊橋までついていったよ。
この場を創ってくれたよっしぃの言葉。
「自分が聴いてもらう体験をしないと、夫や子どもの話も聴けない」
会場はとっても素敵な「駒屋さん」でした!
http://komaya.futagawa.org/
「駒屋さん」を出たあと、噂の「ビオあつみ」に連れてってもらったよ。
入り口に「ゼロウェイスト」がポスターがどどーんと!
昔はどこに行くにもマイ箸持参で、娘たちは恥ずかしそうだった〜
そして、スーパーで量り売りのお惣菜を買うためにタッパを持っていくと
「え…(こういう人めんどくさい)」
って怪訝な顔されること多かったよ。
こんな風に堂々とマイ器を持っていけれて、
値引きまでしてもらえるなんて!
どこのお店もこうなるといいなぁ。
100gづつ量り売りしてもらえたら、
いろんなお米が試せるね!
当たり前にオーガニック食材が量り売りで買えます。
ちんちゃん亭で使っている洗剤「えがおの力」の量り売りも。
これを見て、「あなぐまさんの米ぬか発酵温浴」でも量り売りしようと思って
エコブランチに連絡したよ。
豊橋は良いところ!
この日、一緒に過ごさせていただいたみなさん、ありがとう♡