思い起こせば、我が子が未就園児の頃は、我が子を「悪」から守ることで必死だった。
乱暴な子、乱暴な言葉を発する子、家庭的に心配な子から、我が子を遠ざけたいと思ってた。
娘の周りは「美しい」ものだけでガッツリ固めたいと思ってた。
でも、娘が幼稚園に入ると「我が子だけを愛情豊かに育てる」ことがナンセンスなことだと気付いた。
子どもは友達との関わりの中で成長するから。
小学校に入ったら、地域の子は全員「宝」だと思うようになった。
家庭的に不安な子がいるならば、親の代わりに地域の大人みーんなで関わっていけばいいんだ、ってことに気付いた。
こうして私は徐々に、視野を広げていった。
一緒に「遊び場作り」をしてるプレーパークの仲間たち、問題があるたびに話し合い協力しあって「一緒に地域の子たちを見守っていこうね」と言い合える小学校のママさんたちがいることを、心強く、誇りに思います。
もうね、私の周りのママさんたちは、みんなキラキラしててカッコイイ!
そんなこと考えてたらうるうるしちゃって、ちょうど隣にいた「えりちん」(プレパ会の仲間)に、
「ねぇ!子育て終わったらみんなで遊びに行こうね」
って声かけたら、えりちんも
「ライブとか行こうよ!でも体力つけとかない持たないかもね(笑)」
って言ってくれました。
尊敬できて誇りに思える、カッコイイ子育て仲間がたくさんいる私は、本当に幸せ者です
(そして、このブログを読んで下さる方も、ぜひ私たちの仲間に入ってね!いつでも大歓迎 )
地域で生きていくことの大切さを教えてくれたのがプレーパーク。
そのプレーパークを教えてくれたのは「NPO法人ゆめまちねっと(http://www.h6.dion.ne.jp/~playpark/)」のたっちゃんです。
たっちゃんが寄稿した文章を転載します。
…………………………………
「子どもを守ろう~学校・家庭・地域の力」
「代わり映えせぬ居場所」を全国に ~何げない日常の大切さ~
3月11日の発災から5ヶ月が過ぎた。
大学生の長女は3月に石巻(宮城県)へ、僕と妻は4月に気仙沼(同)へ足を運び、ささやかではあるが、被災地支援をさせていただいた。
当地の親御さんや教育関係者の皆さんにとっては、子どもたちの心のケアが大きな課題の一つになっているのでは、と推察する。
僕らや娘が被災地で感じたのは「何気ない日常」が奪われることは、いかに力を失うことであるかということ。
子どもたちにとっての「何気ない日常」とは、まさに日々の遊びである。
学校生活も子どもたちの日常に組み込まれてはいる。
しかし、震災後の避難所生活やこうして夏休みの生活に入ると、近所の友達と遊ぶという何ともありふれた日常がいかに大切であったかをあらためて知るのである。
ところで、日々の遊びという何げない日常を必要としているのは、震災や原発事故に巻き込まれた子どもたちばかりではない。
どの地域にも生きづらさを抱えている子どもたちがいるだろう。
僕らも子どもたちの居場所づくりの中で、不適切な養育環境下にあったり、学校で教師との人間関係、子ども同士の人間関係に苦しんでいたり、障害特性が理解されなかったり等々で生きづらさを抱えながら、懸命に日々を生きる子どもたちと次々に出会う。
こうした子どもたちに、年間を通して代わり映えしない遊び場を提供し続けている。
その意図は、皆さんのいきつけの居酒屋や喫茶店の魅力を思い浮かべていただけたらいいだろう。
活動参加の常連とも言えるAちゃんは
「あ~あ、ここはつまんないなぁ」
と言いながら誰よりも早く遊びに来て、夕方遅くまで過ごしていく。
代わり映えしない遊び場での代わり映えしない時間。
代わり映えしない僕や妻や何人かのボランティアスタッフ。
そしてそこに集い、遊ぶいつもの顔ぶれ。
そこに子どもたちは自分の「居場所」を感じるのだろう。
震災翌日「冒険遊び場たごっこパーク」の開催を迷っていたら、親御さんたちから
「子どもに衝撃や動揺があるので、ぜひ今日も開催を」
と要望され、いつも通りに開催した。
そこへ、不登校中のBちゃんがいつも通り遊びに来た。
そして、みんなに呼びかけた。
「みんなぁ、今日は笑顔デーにするぞぉ。みんなが笑っていたら、東北の人たちにも笑顔が伝わるかもしれないじゃん!」
悩みを抱えながらも「明日」を信じようとするBちゃんのこの言葉で涙がこぼれそうになった。
子どもたちに「何気ない日常」が続くという「希望」を与えられる居場所を全国各地に築きたい。
乱暴な子、乱暴な言葉を発する子、家庭的に心配な子から、我が子を遠ざけたいと思ってた。
娘の周りは「美しい」ものだけでガッツリ固めたいと思ってた。
でも、娘が幼稚園に入ると「我が子だけを愛情豊かに育てる」ことがナンセンスなことだと気付いた。
子どもは友達との関わりの中で成長するから。
小学校に入ったら、地域の子は全員「宝」だと思うようになった。
家庭的に不安な子がいるならば、親の代わりに地域の大人みーんなで関わっていけばいいんだ、ってことに気付いた。
こうして私は徐々に、視野を広げていった。
一緒に「遊び場作り」をしてるプレーパークの仲間たち、問題があるたびに話し合い協力しあって「一緒に地域の子たちを見守っていこうね」と言い合える小学校のママさんたちがいることを、心強く、誇りに思います。
もうね、私の周りのママさんたちは、みんなキラキラしててカッコイイ!
そんなこと考えてたらうるうるしちゃって、ちょうど隣にいた「えりちん」(プレパ会の仲間)に、
「ねぇ!子育て終わったらみんなで遊びに行こうね」
って声かけたら、えりちんも
「ライブとか行こうよ!でも体力つけとかない持たないかもね(笑)」
って言ってくれました。
尊敬できて誇りに思える、カッコイイ子育て仲間がたくさんいる私は、本当に幸せ者です
(そして、このブログを読んで下さる方も、ぜひ私たちの仲間に入ってね!いつでも大歓迎 )
地域で生きていくことの大切さを教えてくれたのがプレーパーク。
そのプレーパークを教えてくれたのは「NPO法人ゆめまちねっと(http://www.h6.dion.ne.jp/~playpark/)」のたっちゃんです。
たっちゃんが寄稿した文章を転載します。
…………………………………
「子どもを守ろう~学校・家庭・地域の力」
「代わり映えせぬ居場所」を全国に ~何げない日常の大切さ~
3月11日の発災から5ヶ月が過ぎた。
大学生の長女は3月に石巻(宮城県)へ、僕と妻は4月に気仙沼(同)へ足を運び、ささやかではあるが、被災地支援をさせていただいた。
当地の親御さんや教育関係者の皆さんにとっては、子どもたちの心のケアが大きな課題の一つになっているのでは、と推察する。
僕らや娘が被災地で感じたのは「何気ない日常」が奪われることは、いかに力を失うことであるかということ。
子どもたちにとっての「何気ない日常」とは、まさに日々の遊びである。
学校生活も子どもたちの日常に組み込まれてはいる。
しかし、震災後の避難所生活やこうして夏休みの生活に入ると、近所の友達と遊ぶという何ともありふれた日常がいかに大切であったかをあらためて知るのである。
ところで、日々の遊びという何げない日常を必要としているのは、震災や原発事故に巻き込まれた子どもたちばかりではない。
どの地域にも生きづらさを抱えている子どもたちがいるだろう。
僕らも子どもたちの居場所づくりの中で、不適切な養育環境下にあったり、学校で教師との人間関係、子ども同士の人間関係に苦しんでいたり、障害特性が理解されなかったり等々で生きづらさを抱えながら、懸命に日々を生きる子どもたちと次々に出会う。
こうした子どもたちに、年間を通して代わり映えしない遊び場を提供し続けている。
その意図は、皆さんのいきつけの居酒屋や喫茶店の魅力を思い浮かべていただけたらいいだろう。
活動参加の常連とも言えるAちゃんは
「あ~あ、ここはつまんないなぁ」
と言いながら誰よりも早く遊びに来て、夕方遅くまで過ごしていく。
代わり映えしない遊び場での代わり映えしない時間。
代わり映えしない僕や妻や何人かのボランティアスタッフ。
そしてそこに集い、遊ぶいつもの顔ぶれ。
そこに子どもたちは自分の「居場所」を感じるのだろう。
震災翌日「冒険遊び場たごっこパーク」の開催を迷っていたら、親御さんたちから
「子どもに衝撃や動揺があるので、ぜひ今日も開催を」
と要望され、いつも通りに開催した。
そこへ、不登校中のBちゃんがいつも通り遊びに来た。
そして、みんなに呼びかけた。
「みんなぁ、今日は笑顔デーにするぞぉ。みんなが笑っていたら、東北の人たちにも笑顔が伝わるかもしれないじゃん!」
悩みを抱えながらも「明日」を信じようとするBちゃんのこの言葉で涙がこぼれそうになった。
子どもたちに「何気ない日常」が続くという「希望」を与えられる居場所を全国各地に築きたい。