一昨日、入院している兄のところへ、父が書いた日記とそれをパソコンで書き直したものを持っていきました。
使っていた日記帳は昭和12年に発行された昭和13年用の実用日記で、一日1ページで日付が入ったもの。
でも父がそれを使って書いた日記は、昭和21年にフィリピンから引き揚げてきた時から記入が始まっています。途中ページが破られている部分があったので、もしかすると昭和13年当時
にも一時期書いていたのかもしれません。
昭和21年6月2日に上陸したときから、昭和27年3月2日まで、途中記載がほとんどない時期もあったけれど、6年近くにわたる日記を崩し字に悩まされながら読み解いていくのは、
結構興味深いものがありました。
ところが先日。
次姉にレタスを届けに行ったときもその日記を携えていたのですが、日記の前の見開きページにも文章が書かれていたのに気づきました。
その内容は昭和21年4月10日に復員船に乗船、同じ月の20日には名古屋港に到着するはずだったのに、船内でコレラが発生したため接岸出来ず、浦賀まで廻航。それから約2か月間
いつ自分がコレラになるかもしれない恐怖や上陸出来ないもどかしさに苦闘していたことが、簡単にではあるけれど書かれていたのでした。
それを読んでいて思い出したのが、コロナの流行が始まった頃の、あのクルーズ船のこと。
まるでコロナのときと同じじゃないか。そう思えたんです。
そのときのことを父はこう書き残しています。
約50日間の船内生活、コレラとの苦闘 夕日まさに落ちんとする頃富士山を眺めて悲憤の涙落つるを如何せん コレラは益々猛烈を極むるばかり
死を覚悟せし事幾度なりや
昭和15年12月に召集されて大陸へ渡り、飢えに苦しみながら戦った月日はもちろん上陸してからの日々も平坦なものではなかったけれど、それ以前にもっと大変な時期が
あったことを初めて知り、急に太平洋戦争がとても身近なものに感じられるようになりましたね。
ひとつ間違えば、私は生まれなかったのかもしれなかったのだから。
この部分はおそらく後になってから書かれたもの。リアルタイムで書き残したとしたら、なんというか、こんな文学的表現?にはならないように私には思えます。
実家の片づけがなければ父の日記の存在には気づかなかったし、生前戦争の話もそれほど口にしなかった父。男だから(と書くと問題がありそうな昨今だけど)あまりベラベラと
おしゃべりすることもありませんでしたからね。それに国鉄マンの父は私たちが休みのときは必ずと言っていいほど仕事で、結核で長期入院していたこともあり、結婚して家を出る
までの25年間で一緒に過ごした時間はそれほど長くなかったはず。
息子は、前にも書いたけれど平和の観点から戦争に興味があり、戦後本にまとめられた、父が所属していた部隊の記録を熱心に読んでいますが、生前に父から直接話を聞かせたかったな。
父が亡くなったとき息子はまだ小学5年生だったので、完全に理解することは出来なかっただろうとは思うけれど、直接聞くのは書かれたものを読むのとはまた違うはず。
何かと物騒な世の中、父たちのような思いは誰にもさせたくありません。