オータムリーフの部屋

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イスラエルと仲良く、難民支援の不思議

2015-02-08 | 政治
シリアにおける人道の危機は、いまに始まったことではない。2011年3月、政治改革を求めるデモをアサド政権が武力で抑えようとして以来、シリア内戦は難民を生み出してきた。化学兵器の使用が国際問題となり、難民の数は200万人を超え、国内避難民と合わせると、その数は625万人以上。

パレスチナ難民を受け入れているヨルダン。その数は200万人以上。ヨルダンの全人口は600万人強だから、3人に1人がパレスチナ難民だ。
イスラエル建国以来、アラブ諸国と4度にわたる戦争を経て膨大なパレスチナ難民を生み出した。難民キャンプが出来てから50年以上。難民キャンプ生まれ・難民キャンプ育ちの2世・3世が今も難民生活を強いられている。「難民キャンプ」という言葉から、テントのような住まいを想像するかもしれないが、コンクリート造りの家々が並ぶ町並み。どの建物も質素で裕福ではないが、「難民キャンプ」と言うイメージではない。病院や学校といった施設も整っている。ヨルダンの難民キャンプはどこも40~60年ほどの歴史がある。しかし、どれほどインフラや住環境が整備されても、ここが仮住まいであることに変わりはない。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によると、1948年のイスラエル建国によって故郷を追われ、パレスチナ自治区と周辺国に逃れたパレスチナ難民とその子孫は約500万人。レバノンには12の難民キャンプに約45万人が暮らす。隣国シリアの紛争の長期化で、シリアにいたパレスチナ難民も流入し、生活がさらに困窮している。
 
 ヨルダンではシリア紛争以来、60万人~80万人ものシリア難民を受け入れている。ヨルダンの砂漠の真っただ中に、整然と広がる移動式住宅やテントの街。内戦状態のシリアから逃れてきた人々が暮らすザータリ難民キャンプ(Camp Zaatari)は、急速に小さな都市と化しつつある。この難民キャンプが開設されたのは、わずか1年前。現在、このキャンプにはよりどころを無くした11万5000人が暮らす。
 
 シリアと国境を接するトルコ南部キリスのシリア人避難所の高校で、男子高校生の9割近い280人が「ジハード(聖戦)に行く」とシリアに戻り、死亡もしくは行方不明になっている。米軍主導の有志国連合による空爆が拡大した昨年秋以降、シリア行きを希望する男子生徒は急増しており、トルコ全体では数千人規模のシリア人高校生が行方不明になっている。ISのほか国際テロ組織アルカイダ系の「ヌスラ戦線」などアサド政権と敵対する武装組織に入っていると見られる。
 キリスのシリア人避難所には現在、1万人余りが暮らす。小、中、高校の3校があり、児童・生徒数は計約3500人。トルコには11年以降、シリアの混乱に伴い10カ所余りの避難所が設置されており、状況はどの学校も同様との情報もあり、行方不明の高校生は数千人規模に上る。「家族の一部にだけ事前に打ち明けるなどしてシリア側に戻り、武装組織に参加している。フェイスブックの更新が突然途絶えたり、同じように戦闘員になった級友からの情報があったりして死亡を知ることが多い」という。
 子どもたちは日ごろから「なぜ欧米は多数の市民を殺すアサド政権を攻撃せず、アサド政権より市民に信頼のあるISを攻撃するのか」などと、怒りを口にしている。ISはその残虐性で知られるが、イスラム法を守り、敵対しない市民には危害を加えないため、理想化する若者も少なくない。また、避難所の学校の教諭は135人いるが、これまでに若手の教諭15人がシリアに戻り、戦闘で死亡した。教諭で集まると、いつも話題はシリアに残る家族や親戚らのことになる。誰もが避難所で安全に暮らしていることに後ろめたさを感じている。
 キリスの避難所で高校教諭を務めていた男性(43)は「若者世代はシリアで11年に始まった反体制派運動に対するアサド政権の弾圧や市民殺害に強い怒りを抱いている。米軍主導の有志国連合による空爆がアサド政権ではなくISにのみ向けられ、失望したり反発したりしている」と話す。
 
 自国の歴史認識にも問題のある安倍政権が中東の歴史を公正に認識しているとは思えない。2013年9月、安倍晋三首相は、米国の有力保守系シンクタンク、ハドソン研究所から、ハーマン・カーン賞を受賞した。同賞は、保守的な立場から国家安全保障に貢献した創造的でビジョンを持った指導者に毎年贈られているもので、米国人以外では初めての受賞となった。 それ以来、安倍政権はネオコン推奨の政策の実現に邁進しているように見える。オバマ政権が距離を置くネタニエフ政権(イスラエル)と密接な関係を構築しているのもその一環だ。
 
 ネタニエフは1996年、46歳で首相になり、妥協なき強硬路線で自爆テロを抑えた。その後汚職の疑惑で政権から退いていたが、イランの核武装阻止、ハマースに対する攻勢強化、入植地拡大を約束して、2009年に首相に返り咲いた。
 高校卒業後、入隊。負傷して除隊後、マサチューセッツ工科大学の理工学位とMITスローン経営大学院の学位を取得、ハーバード大学とMITで政治学を学び、三度結婚している。1976年から1978年にかけてボストン・コンサルティング・グループで経営コンサルタントとして勤務し、イスラエルに帰国した。
 
 2013年シリアの化学兵器問題で、ネタニヤフ首相が怒ってケリー長官を殴打したという珍事件がネットを賑わした。イスラエルはアサド政権を攻撃したいのだが、アメリカがロシアの提案を受け入れたので激怒したらしい。それだけでもショッキングな事件なのだが、その時の騒動でアメリカ国務省の長官がイスラエル首相から金品を受け取っていた事がバレてしまったと言う。ケリー長官の側近の政府関係者によると、イスラエルのネタニヤフ首相は米ケリー長官をまるで犬のように扱い、彼を殴打したとのことだ。
 「ドアが閉まると同時に、豚がうめくような声と家具が投げつけられているような音が聞こえました。すると、ケリー長官はネタニヤフに向かって、ノー、ノー、ベンジャミン(ネタニヤフの名)、神に誓って言うよ、あれは私じゃない。あれはバカなロシア人がやったのだ、とネタニヤフに訴えていたのです。その直後にケリー長官が殴打されたような音が聞こえました。その時、ケリー長官は苦痛や怒りの叫びをあげましたが、再度、ケリー長官が叩かれるか、殴られたような音が聞こえたのです。次に、ネタニヤフは、ケリーに向かって、お前にお金を払っているのは何のためだと思ってんだ、と金切り声でののしっていました。その直後に、2人のイスラエル人の警備員が私をドアから引き離したのです。そして5分後に、ケリー長官が少し血が混じったアザだらけの顔でドアから出てきました。ケリー長官のシャツのボタンも取れていました。ネクタイも結び目から下がはさみで切られていました。彼は泣いていたと思います。」と政府関係者が告白し、ケリー長官のアザだらけの顔写真も公開されている。
 
 中東のテロ国家、ネタニエフ政権のイスラエルと組んで、テロ国家イスラム国を崩壊させる。これが日本人を守る政策なのか?
 いったい誰が、中東で起こっている事の善悪を判断できるだろう。殺し合いの無限地獄に巻き込まれていくだけのことだ。
 難民支援を口にするなら、まず先にイスラエルの領土拡張政策、アサド政権の反政府勢力への軍事攻勢に反対し、難民を受け入れるのが筋だろう。
 日本で難民申請をしたシリア難民は昨年までで52人。しかし、結果が出た34人全員が不認定だった。政府は、「人道的理由」から日本での滞在は認めたが、難民とは認めていない。
 

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