オータムリーフの部屋

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日露戦争の戦勝はユダヤ資本のおかげ

2013-09-17 | 政治

近代日本史の中で不自然に美化される日露戦争の「勝利」。しかし実際は外国から借金して、運良く勝利したに過ぎない。そして、そこから外国資本への隷属、太平洋戦争、原発導入、尖閣竹島などの領土問題までの流れが始まったとも言える。そして、その後我が国の負債は借り主を日本国民に替えて、莫大な負債に膨れ上がった。
日露戦争は「自衛の為やむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。」自衛のためやむを得ずという言い回しは、明治時代に既に多用されている。日本は明治時代から基本的に「自衛」であることを主張しながら対外紛争を行っており、これは日清、日露戦争はもとより太平洋戦争でも同じである。そして、その言い回しは安部政権にも受け継がれている。

 明治37(1904)年2月24日、日銀副総裁・高橋是清は横浜出帆の汽船でアメリカに向かった。すでに同月8日には連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し、日露戦争が勃発していた。 是清の役割は戦費を調達することであった。政府はとりあえず1年分の戦費を4億5千万円と見積もり、そのうち1億5千万円が海外に流出するとの予想を立てた。しかし日銀所有の正貨(金と交換しうる貨幣)余力は約5千万円程度しかなく、不足分の1億円を何としても外債で調達しなければならなかった。当時の国家予算・約6億8千万円と比較してみれば、その規模が想像できよう。 是清はアメリカに着くと、数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、「豪胆な子供が力の強い巨人にとびかかった」と日本国民の勇気を嘆賞しつつも、米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無理だとの事であった。アメリカがだめならロンドンで起債を考えなければならない。是清はすぐに英国に向かった。ロンドン市場では日本公債に対する人気は悪かった。4パーセントの利付きポンド建て公債の価格は80ポンドだったのが、戦争が始まるやたちまち60ポンドまで値下がりしてしまい、所有者に大損害を与えていた。一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公債の価格はむしろ上昇気味だった。
この状態で新たに日本公債を発行しても、応募者が集まらず 失敗に終わる可能性が高い。それは日本帝国が欧米金融市場からも見放された事を全世界に知らしめてしまう。そうなれば日本軍の軍費はたちまち底をつき、敗戦は火を見るよりも明らかになる。是清は毎日のように英国の銀行家と話をしているうちに、彼らが日本公債引受けに躊躇している理由が分かってきた。一つには兵力からしても日本に勝ち目はないと見ていることだった。日本が敗戦したら、その公債は紙くずになってしまう恐れがある。もう一つの躊躇の理由は、英国は日本の同盟国ではあるが、建前としては局外中立の立場にあり、公債引受けによって軍費を提供する事は中立違反となるのではないか、という点だった。
 是清はこれらの懸念に丁寧に反論し、1ヶ月を経過すると銀行家たちが公債引受けの条件をまとめてきた。ポンド建て、利子年6分、期限5カ年、発行限度3百万ポンド、額面100ポンドで発行価額92ポンド、日本の関税収入を抵当とする、というものであった。是清は、発行金額を日本政府の希望1千万ポンドの半額5百万ポンドに、期限5ヶ年を7ヶ年に、発行価額92ポンドを93ポンドに、と主張して譲らず、これらを英国銀行家たちに呑ませることに成功した。
 ようやく銀行家たちとの話はまとまったが、まだ必要額1億円の半分である。そこに幸運が訪れた。是清のイギリス人の友人が、銀行家たちとの話がまとまった事を喜んで晩餐会に招待してくれた。そこに居合わせたのが、ニューヨークのクーンロエプ商会代表者シフであった。是清の隣に座ったシフはしきりに日本の経済や生産状況、開戦後の人心動向などについて聞いてくる。是清は一つ一つ丁寧に答えた。後日、シフが人を介して、残りの5百万ポンドを自分が引き受けて米国で発行したいと言ってきたのには、是清も驚いた。シフもクーンロエプ商会も昨晩初めて耳にしたばかりである。 英国の銀行家たちがまとまってようやく引き受けられるほどの金額を、一人で処理できるのか。調べてみると、シフは世界的な大富豪である事が分かった。またロンドンの銀行家たちも、シフの申し出を非常に喜んだ。 英国とロシアの王室は親戚同士であり、また同じ白人国家である。一人英国のみ日本に肩入れするのは心苦しいという後ろめたさがあったのだが、米国も加わったということでそれが一掃された。シフとの商談は人を介してトントン拍子に進み、米英で同時に合計1千万ポンドの発行ができることとなった。シフは契約がまとまった段階でアメリカに帰ることになり、もう一度是清に会いたいと言ってきた。しかし是清は「シフにはひたすら感謝し、敬意を表しているが、私は一国を代表して きている。私に会いたければ、シフの方から訪ねてくればよい」と答えた。公債引受けは援助ではなく、あくまで対等のビジネスだという筋を通したのである。
シフは気を悪くすることもなく、是清が泊まっている三流宿を訪ねてきた。その後、是清が返礼にシフを訪ねると、こちらは各国の王侯クラスが泊まるロンドンでも一流のホテルであった。シフは相変わらず誠意あふれる態度で接してくれたが、是清はさすがに「宿替えをせねば、体面にかかわるなあ」ともらした。

 5月11日から、米英両国で公債の募集を開始した。おりしも5月1日には日本軍が朝鮮と満洲の境をなす鴨緑江の渡河作戦でロシア軍を圧倒し、大勝を博したとのニュースが流れた。日本公債の人気は急上昇した。

 その後、是清はシフとの交際を深めていく過程で、彼がなぜ積極的に日本公債を引受けたのかが明らかになった。かねてからロシアではユダヤ人が虐待されており、海外のユダヤ人はロシア政府を援助することによって、同胞の待遇を改善しようとしていたが、ロシア政府は金を借りるときだけ都合の良い事を言って、一向に約束を守らない。 シフは米国のユダヤ人の会長であり、ロシア政府に対して憤慨していた。そのロシアに戦いを挑んだ日本の兵は訓練が行き届いて強いということを知り、これを財政的に助けて、よしんば日本が勝利を得なくとも、ロシアの政変にでもつながれば、ユダヤ同胞はその虐政から救われるだろう、と考えたのであった。
その後、是清は英国銀行団やシフの協力を得て、第2次・2億円、第3次・3億円、第4次・3億円と矢継ぎ早に公債募集を成功させていった。
日露57万の兵力が激突した奉天会戦、バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦を経て、明治38(1905)年9月5日、講和条約が調印された。償金は要求せず、南樺太のみ割譲という日本側が大幅に譲歩した条件であった。
ロシアから莫大な償金をとれなかった日本政府は資金に窮して、再度公債募集を図るのでは、という観測が欧米市場に流れ、日本公債の人気がにわかに下落した。是清はインタビューを求めてきたロイター通信などの記者にこう語った。「軍隊の引き揚げ等、戦争の後始末に要する費用は現在の資金にて十分であり、もし今後、外債を起こすことがあれば、従来の高利公債を整理するためにほかならない。この際、平和の成立は満足すべきことであって償金の有無は主要の問題ではない。」 この発言が各新聞に掲載されると、投資家たちは好感して、日本国債の人気は再び盛り上がった。

ロシアへの戦争を日本にけしかける英国とアメリカの様子を描いた当時の諷刺画。世界は戦争の構図をこう見ていた。



ニッポンがロシアと戦争をしようとしていたとき、シフらは、ソビエトの成立を経済支援していた。ユダヤ人を迫害した帝政ロシアに対する敵意があったとも言われるが、実は30年戦争以降の全ての国際戦争でユダヤ系資本が戦費調達に使われていた。彼は、見込みのない戦争を見込みのある戦争にすることで『相場操縦』を行うことに成功した。ジェイコブ・シフ(英語:Jacob Henry Schiff、1847年1月10日 - 1920年9月25日)は、ドイツ生まれのアメリカの銀行家。日露戦争の際に日本の戦時国債を購入したことで、勲一等旭日大綬章を明治天皇より贈られた。
 異例の圧倒的な勝利ではあったとはいえ、日本軍は実力よりもはるかに大きな借金をして戦争に臨んでいたのである。シフの帝政ロシア打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにも拘らず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。1917年にレーニン、トロツキーに対してそれぞれ2,000万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチェース・マンハッタン、J・P・モルガン・アンド・カンパニーと協調して、ソビエトに対する融資を継続した。帝政ロシアに対する敵意があったとはいえ、ユダヤ人がソビエトに金を回し、ロシアの崩壊を誘導していた。ジェイコブ・シフは、ロシア革命をバックアップし、ソビエトの成立を支援することで、強引に日本の戦勝を誘導し、結果的に莫大な富を得たと見ることもできる。そしてロシア革命成功後は冷戦構造を背景にした代理戦争や軍備増強で、莫大な資本を積み上げ、金もうけのためには手段を選ばない軍産複合体が出来上がっていくのである。


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