オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

NHKスペシャル 村人は満州へ送られた

2016-08-21 | 戦争
昭和20年8月、旧満州(中国東北部)。ソ連の侵攻で軍が撤退、取り残された人々は攻撃にさらされ、逃げ惑い、およそ8万人以上が犠牲となり、中国残留孤児など数々の悲劇を生んだ。それが、植民地の治安安定や軍への食糧供給を目的に27万の人々が満州に送り込まれた『満蒙開拓』、移民事業の結末だった。これまで「関係資料は破棄され、人々が渡った経緯は不明」とされていて、その詳細は知られてこなかった。だが、村人を送り出した、ある村長の記録や破棄されたはずの極秘文書が発見され、農村を中心に村人がどのように送りだされたのか実態が明らかになってきた。今回、日記や関係資料の全容取材が許された。
 
戦中、中国侵略での傀儡国として満州国維持・食糧増産のために行われた満蒙開拓は、昭和11年から行われ、敗戦直後まで、27万人の民間人が満州に送られた。
日本国内、各地の農作に優れた村から村人を満州に送り出す分村移民。この政策は、農村に助成金補助を行いインフラをも整備させるという条件と引き換えに、満洲国に村人を送る国策であった。長野県河野村、胡桃沢村長の日記によれば、胡桃沢氏は当初、満洲に村民を送ることには否定的だった。中国人から強制的に現地の土地を奪った場所に日本人が入ることが正当化されることではないと判断していた。しかし、次第に戦況・時代の波に飲み込まれ、「補助金・助成金があれば村のためになる」という大義から、満蒙開拓政策を受け入れ、村の住民を一軒一軒、説得に回る。国の割り当ての50戸には及ばないが、27戸・95人の満州・分村住民を満州に送ることとなる。日本の戦況は末期状態、農民輸送船まで撃沈されてしまう状況だった。敗戦間際、満洲国へソビエトの侵攻がある。同時に満州分村地域の日本人は現地の中国人等の憎しみを買っていた。日本軍はとっくに満州分村地域から後退している。日本人村の45歳までの男たちは、戦場に駆り出されているから、村にいない。残った村人は、女性、老人、子供たちであり、村人は近くの山へと逃げ、集団自決に追い込まれる。ただ一人、奇跡的に生還した村人がいる。14歳で分村参加した久保田イサムさんだ。彼は、女性・老人・子供らと共に逃げまどい、集団自決の際、手助けをした。
日本にいる河野村の村長、胡桃沢さんは、満洲分村の悲惨な現状を敗戦後まもなく知り、自分が満州に送り出した村人に対して自責の念に耐えきれず、1946年、自宅で自害する。41歳だった。
国策として行われた満州分村は、農林省管轄の官僚組織により、事務的に行われた。敗戦間際の8万人以上に及ぶ分村民間人が犠牲になったことについて、1979年の農水系極秘の総括的資料・録音に「あの政策は日本にとってよかった」「悪い政策ではない」との官僚の発言に唖然とした。
 
集団自決のほう助をした久保田イサムさんは自責の念から、悲惨な体験を語り継いでいる。
 
満州移民は、中国の植民地支配を目的に、ソ連国境の防衛と食糧増産を進める国策だった。しかし、終戦間際、移民は行き詰っていたにもかかわらず、なぜ、河野村は国策に呑みこまれていったのか。
久保田さんの実家は農家ではなく、木材や薪を扱っていた。馬車を使った運送業に切り替えて、順調だった。イサムさん自身は、予科練であこがれの少年航空兵になるか、満蒙開拓団へ行くか、揺れていた。戦争は嫌だという雰囲気はなかった。学校の先生は、予科練を勧めたが、叔父が村の議員だったこともあり、満蒙開拓団を選んだ。1944年8月、満洲の河野分村に14歳で渡った。すでに戦局は悪く、敗戦が色濃かったが、国民は知らされていなかった。1945年8月15日に、「根こそぎ動員」があり、18歳~45歳の男、17人が新京へ出征した。残されたのは、女性と子ども、老人、68歳の団長だった。15歳の久保田少年は、満人の苦力を使って、農作業をしていた。すると、団の婦人が知らせに来た。
「日本が負けたから、団本部に来るように」
日本の敗戦は、電気のある隣村の少年が、馬に乗って伝えに来てくれた。久保田少年は、確認に行くように言われて、4キロメートル西の隣村に、自転車で行った。日本が負けることは考えられなかったが、無条件降伏だった。新京では、暴動が起きて、日本人は外に出られなかった、と聞いた。「団に集結せよ!」と命令された。それから、丘のような低い山があって、そこへ避難した。夜中に雨が降り出した。
1945年8月16日。朝、腹ごしらえに、山から村にもどった。11時ころ、原住民が200人くらい集まる。馬に乗って、拳銃を放つ。宿舎の物資を運び出す。燃料に使うためか、窓枠を取り去る。畑からジャガイモを掘り出す。着の身、着のままで、西の吉林方面に逃避する。疲れて、コーリャン畑で寝てしまった。数百人の現地人に襲撃されて、こん棒で殴られた。若かったから、手で防いだりして、致命傷にはならなかった。ところが、こん棒で殴られても、68歳の団長は年寄りだから弱い。
虫の息で、「早く楽にしてくれ!若者は、日本へ帰って、報告してくれ!」
副団長の奥さん、校長先生の奥さん方が集まって協議し、集団自決をすることになった。
団長の首を絞めた。母は腰ひもで、赤ちゃんから首を絞め始めた。小学5、6年生には、「お父さんのところへ行くから」と、言い聞かせて首を絞めるが、息苦しくなると、お母さんの手を、払いのけてしまう。
殺すのをやり返すのは、「かわいそうだ」と、看護婦さんの助言をもらいながら、一気にやってしまうことになる。
子どもの次は、身内のおばあさんの首を絞める。肉親のつぎは、若い婦人が絞められる。73人が殺された。
25歳のマッサージ師と、15歳の久保田少年が残った。2人は石を探した。大きな石を探したが、畑には大きな石はなかった。中でも大きな石を右手に持ち、左手を相手の肩にかけて、石を相手の眉間をめがけて、殴り合った。目に血が流れてきた…倒れた。血が出て失血死するように、頭を下にした。久保田さんは、話をしながら、額を触って、今でもあるデコボコや傷を見せた。殴り合ったときにできたという。
久保田少年は目が覚めたが、立ちあがれない。太陽が見えたから、5~6時間、気絶していたことになる。スコールの水が足跡にたまっていた。
さかずき位の水をすすり、二人は生き返った。73人の死体が転がっている。女性も子どもも、衣類がはがされていたから、丸裸だった。久保田少年もパンツだけだった。1週間、畑の中にいた。どうすればいいのか? 途方に暮れた。現地人の馬車が来て、女性と子どもの死体を荒地に捨てる。2人は殺されなかった。夜になって、現地人に見られて、迷惑にならないように、苦力頭の玄関を叩いた。
苦力頭は、久保田少年の衰弱したパンツ姿を見て、大泣きした。中国では、米のご飯を食べない。食べても、おかゆだが、ご飯を炊いてくれた。それに、塩で味付けした卵焼き。あんなにうまい飯はなかった! 今でも覚えている。
苦力頭は、2人分の衣服、履物を用意してくれた。12キロメートル先の新京へ行く。苦力を、前に2人、後ろに2人つけて、苦力頭が新京まで連れて行ってくれた。新京では、満洲軍の乗用車で日本軍の憲兵隊へ連れて行かれた。車に乗るのは初めてだった。憲兵から逃亡兵の嫌疑がかけられた。疑いが晴れて、収容所へ行く。つぎに開拓研究所へ行く。「根こそぎ動員」された団長の長男ほか10人がいた。となりは、関東軍司令部だが、関東軍はいなかった。その後、列車で奉天へ行くが、略奪、強姦で、新京よりひどかった。奉天から、南へ行くらしい貨物車に潜り込んで、着いた先が安東だった。セメント工場で袋詰め、木材会社で船造り、鉄道工事などをして、生き延びる。マッサージ師は、熱を出して亡くなった。中国の八路軍とともに大連へ行った。帰国まで1年3か月待った。食べ物に不自由し、140人いた日本人は37人に減った。
 
久保田少年は、1948年7月、胡蘆島 (ころとう)から船に乗った。7月23日に舞鶴へ着き、1948年7月31日に家へ帰った。帰国を、胡桃沢村長に伝えることはできなかった。村長は、2年前の1946年7月27日に自殺していた。
 日付、出来事、場所、人名、数字を、久保田さんは鮮明に記憶している。
「満蒙開拓団のことは、よく覚えている。きのう、何をしたか? は覚えていなくても」
 
1955年、河野村と神稲(くましろ)村が合併して、豊丘村になった。
豊丘村には「海外犠牲者 慰霊碑」がある。
 
碑文
 昭和の中世 時の国策の悠久大義なるを信じ それに順応し祖国を離れて海外の新天地に活躍中 
 太平洋戦争の悲惨なる終結に伴い 雄図空しく挫折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直 面し 
幾多の同志は想を故郷に馳せつつ異郷に散華し 生あるものは辛うじて身をもって故山に帰るの止むなきに至れり 
今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して異郷に眠る同志の声なく帰郷を希い 
以て慰めんと欲す
 想を馳すれば吾等の雄図は事志と違い悲惨なる結末を告げたりとはいえ決して無為にあらず 
必ずや後世の歴史は平和に本建設の礎たりしことを証明するであろう 
この丘に立ちて眼下に天龍の清流と栄ゆく母村の姿を見仰いで青天に一片の白雲 
悠々たる故山の姿を眺むる 遠き思新にして感無量なるを覚ゆ
御霊よ 安らかに 永眠されんことを
一九七四年八月一五日
 
長野県は、全国で一番多く満蒙開拓団を送り出した。
最後まで個人的信念を貫き、分村移民を拒んだ下伊那郡、佐々木村長のような立派な政治家も存在した。
 
 世界恐慌(29年)は、繭価の急落につながり、飯田下伊那の経済を直撃した。農村の窮乏を背景に当初は自発的な移民もあったが、次第に希望者が減少。国は村ぐるみで移住させる「分村移民」を打ち出した。応じれば移民はもちろん、残った村にも生活道路などへの補助金や低利貸し付けをする。37年に村長に就いた佐々木は翌38年、下伊那郡町村会の満州視察団に参加する。24日間の視察の結果、団の報告書は「困難は伴うが、これを人に勧め得る確信を得た」と結ぶ。佐々木村長は違った。旧満州の農民を追い出し日本人が入植したような形跡も見られ、何となく不安を感じた。それに日本人が地元の人々に威張りすぎてはいるように思えた。 帰国した佐々木は分村移民を推進しなかった。周りの村は駆り立てられた。補助金を得るため村外にも勧誘に回り、移民の獲得競争が起きた。
 満州に侵略した日本は32年、傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国した。移民は農地開拓にとどまらず、治安の維持やソ連への防備など政治・軍事上の役割を担わされていた。
 約27万人の移民のうち、長野県は青少年義勇軍を含め3万3千人と全国最多。飯田下伊那は8350人の農業移民を送り出した。
 信州、特に飯田下伊那が多かった背景に、官民一体の「動員の構造」ががっちり仕組まれていたことがある。県は専門部署の拓務課を置いて町村役場を指導。移住者数の実績を競わせた。
 教員ら約600人が摘発された1933年の二・四事件(長野県赤化教員事件)を境に、教育界は満州に移民を送り出す動員装置に化していった。
 
 こうした中で信州郷軍同志会は存在感を高めた。理論的指導者、中原は各地の講演で満州移民を推進した。同志会には陸軍中央がバックにいた。神戸大学名誉教授の須崎慎一さん(佐久市在住)が中原の手帳を調べた結果、陸軍中央から高額の現金が機密費として中原らに提供されていることが分かった。分村移民を拒む佐々木は中原からどう喝に近い言葉を投げかけられた。別の研究者が得た証言だ。
 佐々木は翼賛壮年団から圧力を受けたと後年、明らかにした。
 「壮年団に『各村が全て分村しているのに、なぜ分村せんのか』と詰め寄られたが、拒否した。もしあの時に分村しておったなら大勢の犠牲者を出し、自分も生きておれなかったのではないか」
 戦後、伊那自由大学の聴講生の座談会で語った発言だ。
 
 自由大学は上田の農村青年が京都帝大出身の哲学者、土田杏村(きょうそん)の指導を受け大正時代の21年に開講。伊那や松本に広がった。佐々木は夜中に自宅を出発、夜通し歩いて自由大学を受講し、20代後半の知識欲旺盛な時代に進歩的、リベラルな見方を学んだ。
  役場吏員の出征の宴席で「おまえ絶対に死ぬなよ、生きて帰ってこいよ」と言うと、書記に「村長、失言ではないか」とたしなめられた逸話もある。分村拒否をめぐっては迷いに迷い、「自分で行きたくないところに村の人をやるのはどうか」と妻に相談した。妻は「そう思うならやめたほうがいい」と答えた。まっとうな考えが決断を後押しした。
 
 補助金絡みの巧妙に仕組まれた国策は現在の原発誘致にもつながる。補助金欲しさ、研究費欲しさに非人道的な国策に協力する民や科学者、研究者は後を絶たない。戦争体験は風化し、日本の侵略戦争を正当化する言動も息を吹き返す。自虐史観から脱却して、美しい日本、強い日本を目指し、家族を底辺とする皇国日本に戻り、何をしようと言うのだろうか?
稲田朋美 「日本弱体化を企図する占領政策によって、戦後日本人の道徳心はすっかり荒廃させられてしまいました。戦後多くの日本人は、親を敬わず、先祖を尊ばず、英霊を偲ばず、ご皇室を尊敬せず、国を思わず、すっかり道徳を忘れて、目先の自己利益ばかり追いかけてきたように思います。民主党政権を誕生させてしまったのは、そのような日本人の心(道徳の荒廃)の象徴的な現れであると思います。政治家も、官僚も、財界人も、庶民も、家族や国家という共同体を大切にせず、目先の利益を追い求め、個人の快楽にふけることに価値があるという唯物論にすっかり毒されてきたものだと思います。」
道徳論だけなら、単なる右傾化したお嬢様の言動で許されるが、BS朝日の番組収録で、先の大戦後に東条英機元首相らが裁かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)について「指導者の個人的な責任は事後法だ。(裁判は)法律的に問題がある」との認識を示した。歴史認識をめぐる安倍晋三首相の言動が中国や韓国から「歴史修正主義」と批判されていることには「歴史修正主義というのは、あったことをなかったと自己正当化することだ。本当にあったことをあったこととして認めるのは決して歴史修正主義ではない」と述べた。
 
ドイツ国民やイタリア国民は、ヒトラーやムソリーニをはじめ、ファシズム戦時体制の責任を自ら追及した。戦勝国の裁判にゆだねて、それでよし、とはしなかった。 それが、ドイツ・イタリアと、日本との決定的な違いだ。
日本の現政権は東京裁判を否定し、処刑された戦犯を国のために犠牲になったとして復権を望む。何をやっても責任を認めない、取らない日本の指導者のあり方は今も脈々と受け継がれている。せめて敗戦国ぐらいは戦争犯罪を訴追する責任を果たしてもらいたいものだ。
東京裁判は、戦争の決着をつける軍事裁判であり、勝った方が負けた方を裁くのは当たり前だ。平時の刑事裁判と、軍事裁判を混同して、事後法云々すること自体、見当違いである。戦争責任は敗戦国が一方的に取らされるのである。ドイツだけが悪いのではないし、日本だけが悪いのではない。ドイツは第一次大戦後、反旗を翻した。その反旗はヒトラ-を生み出し、第二次世界大戦にしかならなかった。
 
日本国民には多数の国民を死に追いやった、自国の戦争責任者たちを訴追するしか方法はない。日本の戦争責任者たちは、潔く、戦勝国の裁定に従って、責任を取ったと思っている。それを蒸し返し、神として祭祀しようとする魂胆は何か?自虐史観だと言って、戦争を正当化し、戦犯を敬う。歴史に学ぼうとせず、侵略を否定する稚拙さは情けなく、歴史は繰り返されそうである。

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