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坂上田村麻呂と 岩手 の 蝦夷

2023-11-18 14:00:43 | 日記

関西アテルイ・モレの会 会員の皆様

盛岡市在住の会員:阿部初美さんから、紫波町で蝦夷の写真展を開催した折お世話になった盛岡市教育委員会の今野公顕氏の小論文「坂上田村麻呂と岩手の蝦夷」をアテルイ・モレに関心のある方に紹介して欲しいと依頼がありましたので、ここに一部を掲載致します。転載したので書式が不完全であること、一部フリガナを削除したことをご容赦願います。また写真等挿入資料を除いております。完全な資料をご要望の方は当会のHPよりご連絡頂ければ、資料をお送り致します。(事務局:和賀記)

坂上田村麻呂  岩手  蝦夷

~田村麻呂の阿弖流(あてる)為(い)助命の真意は 、 平和な社会をつくることだった~

●蝦夷の社会 と 天皇を中心とした国家

約 1200 年前の奈良時代末から平安時代の初頭、今の北東北・岩手県域は、奈良や京都に都をおいた天皇を中心とした国家の統治範囲外だった。

都の人々は、国の範囲外に住む東北の人々を「蝦夷(えみし)」と呼んだ。今もある関西と東北の違い以上に、言葉や生活習慣、文化に大きな違いがあったのだろう。

蝦夷の社会は、広範囲な国は無く、地域ごとにリーダーに率いられる「部族社会」だった。

政府と友好的なムラ、反抗するムラ、蝦夷同士で敵対しあうムラなど、さまざまだったと考えられる。それぞれが必要な鉄製品などを、都の貴族らとの交易によって手に入れていた。

政府は天皇の国の範囲を広げるため、東北地方に軍事と行政の拠点となる「城柵(じょうさく)」という他地域にはない特殊な役所を築き、そこに蝦夷たちを招待し、酒宴で歓待し、儀式を行い、仲間にしていった。また、関東などから移民を送り込んだり、反抗する蝦夷を関東以西へ移動させたり、政府側の民と蝦夷を同化させる政策もとっていた。

  • 坂上田村麻呂 と 阿弖流為

岩手県の胆沢地方にいた蝦夷「阿弖流(」は、政府に反抗した今の奥州市付近の蝦夷のリーダーだった。

延暦8(789)年、奥州市付近の蝦夷達は、紀(きの) 古佐(こさ)美(み)が率いた数千の政府軍を、北上川沿いの「巣伏(すぶせ)の戦い」で打ち破った。

延暦 21(802)年、(かん)(む)天皇の命を受けた「坂上田村麻呂」は、城柵「胆沢(いさわ)(じょう)」(奥州市水沢)を造営した。それを見た阿弖流為、母礼(もれ)らは手勢 500 人あまりを率いて投降。田村麻呂は都へ、捕虜として阿弖流為と母礼を連れ、先勝を報告した。

当時、捕まった敵の首領が処刑されることは、普通のことだ。

しかし、田村麻呂は、後の治世のためにも阿弖流為を生かし、帰すことを進言した。これに対し重臣達は、「虎を養って、後にわざわいを残すようなものだ」と聞き入れず、阿弖流為らは天皇の軍に弓を引いた賊の首領として処刑された。

  • 志波村の蝦夷 と 坂上田村麻呂~阿弖流為助命の真意は 、 平和な社会をつくることだった 。
  • その翌年、延暦 22(803)年に、桓武天皇から東北経営を任された坂上田村麻呂は、東北最大規模の城柵「志波(しわ)(じょう)」(盛岡市下太田他)を造営した。地域統治とより北の反抗する蝦夷への軍事作戦とその蝦夷を仲間に引き入れるための拠点となる壮大な役所を作った。

この頃、今の岩手県紫波町から盛岡市下太田付近の志波(しわ)(斯波(しわ))ムラ「胆沢公阿奴志己(いさわのきみあぬしき(こ))」に率いられていた。阿奴志己ら志波ムラの蝦夷は、阿弖流為らが政cc府軍と戦った頃、政府側に使いを送り政府側についていた。志波村は政府との戦いを回避していた。

それもあってか、坂上田村麻呂は、志波城造営前後に志波ムラへ関東からの移民を送り込むことはしなかったようだ。それまでの蝦夷の文化と勢力を、そのまま生かしたのだ。

阿奴志己のような従来の地域のリーダーの統率力を生かし、文化をそのまま維持することで、蝦夷と政府の共存する道を模索したことが考えられる。

蝦夷のムラはそのまま存続し、独自の古墳を作り続ける文化を保持していたことが、発掘調査成果からも指摘されている。

ここに、坂上田村麻呂が、阿弖流為の助命を進言した考えがみえる。坂上田村麻呂は、蝦夷たちがこの地で暮らす未来を考えたのだろう。

  • 坂上田村麻呂の伝承
  • ○全国各地に残る坂上田村麻呂伝承

坂上田村麻呂の伝承は、ゆかりの深い岩手県、宮城県、福島県を中心に多く残っている。彼が通過したと考えられる茨城県、長野県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県のほか、あまり関与しなかった山形県、秋田県、青森県や、西日本の岡山県などにもみられるようだ。

世界遺産に登録されている京都の清水寺は、彼が天皇の命を受け再興したと伝わり、「清水寺縁起絵巻」(国重要文化財・室町時代・東京国立博物館 蔵)には、坂上田村麻呂の活躍の様子が描かれている。

彼の造営した志波(しわ)城跡(じょうあと)(国史跡、盛岡市上鹿妻・下太田)近隣の大宮神社(本宮字大宮)や飯岡千手観音(上飯岡)には、彼の由来が伝わる。胆沢(いさわ)城跡(じょうあと)(国史跡、奥州市水沢佐倉河)隣接の鎮守府八幡宮には、彼が奉納したとされる宝剣と鏑矢(かぶらや)がある。そのほか、滝沢市、八幡平市、紫波町、矢巾町などにも見られる。平泉町の達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)(国史跡)もそのひとつだ。

いずれの伝説も、田村麻呂は天皇の命令を受け、地域を荒らす賊を征討するためにその土地に訪れ、神仏に祈って勝利し、地域の住民らは大いに喜び、田村麻呂は持参した神や仏をその地に祀って帰った、というものがほとんどである。

 ○伝承の背景

死後にまとめられた記録『田邑(たむら)麻呂(まろ)伝記(でんき)』や『薨伝(ぎょうでん)』は、彼の遺徳をたたえる物であるため、真実のみを述べているわけではない。容貌も「赤面、黄鬚(『薨伝』)」、「彼の真心は顔に表れ、桃の花のように紅い(『田邑麻呂伝記』)」など、いわゆる中国古典に見える福顔、良い人相、体型などを表している部分もあると考えられる。

様々な記録と伝説などをベースに、中世から戦国期以降に物語『御伽草子』や能の戯曲『田村』などが 創作 され、ベストセラーとして全国に広がった。寺社の由来はこの影響を受けていることがうかがえる。もし各地の寺社由来や伝承のすべてが真実であれば、各地にタカマルという賊がいて、田村麻呂はそれらを成敗するために、多数の神官を引き連れ、多数の形の異なる観音像を持参して来たことになる。にわかにすべてを信じることはできない。しかし、この各地の伝承の「背景」を推察すれば、様々なことが見えてくる。

第一に「ヒーローだった」ということだ。特に室町時代頃には、ほかの有名な武人の逸話や名前と合体し、スーパーヒーローの代名詞として扱われた。これらは正しい伝記ではなく「創作娯楽作品」だ。しかし、これをもとに全国各地に伝承が定着し、人々の心のよりどころとして息づいてきたものといえる。これを「事実ではない」と切り捨てることは簡単だ。しかし「田村麻呂が訪れた土地に残る言い伝えと、古い娯楽がミックスした伝承がこの地にある」という事実に光を当てることで、隠れた地域の歴史を再認識し、関心を持つきっかけにすることはできるだろう。

また、寺社の由来では、江戸時代の記録には無いものが幕末以降に書き加えられたと考えられるものもある。これは歴史を知っていた人が、その寺社の由緒をよりよいものとしようと書き加えたのだろう。大正時代の東京大学講堂には、菅原道真(学問の神・天神様)と坂上田村麻呂の大きな肖像画が掲げられており、「文武両道」を象徴したという。

第二に、「なぜ東北で英雄になったか」だ。これには二つの視点がある。

ひとつは、田村麻呂が訪れた記録が残る地域に、多くの伝説が残っていることだ。もともと田村麻呂が来た伝承があったため、地域に根付きやすかったのではないだろうか。源頼義・義家、安倍氏、藤原氏、源義経、源頼朝などが、神社をおいた、陣をひいた、馬をつないだ、旗を立てたなどの伝承や地名由来などと同じ事象と考えられる。

ふたつ目は、地域の有力豪族と戦うために軍を率いてやってきたのにもかかわらず、伝承では賊を倒したヒーローになっている、ということだ。

昭和半ば以降の歴史小説などの創作にみえるように、田村麻呂は、蝦夷の土地に侵略してきた政府の手先とも言える。しかし、少なくても古代以降から戦前まではヒーローだった。田村麻呂の前にも後にも、都などから派遣され活躍した人はいたが、彼らの伝承は田村麻呂ほど多くはない。併せて蝦夷のリーダーの良い伝承も、ほとんど見られない。

 以上から、坂上田村麻呂伝承が東北に多く残る理由として、田村麻呂が 1200 年前にとった政策が、東北の人々にとって、良かったものだったと考えられるのではないだろうか。いい人だった、いい治世の仕組みを作ったなどの記憶が伝承されていたため、ヒーロー伝説が違和感なく受け入れられ、定着した可能性があるのではないだろうか。

実際に、諸記録や遺跡発掘調査成果から、アテルイの助命嘆願、志波城造営前後における志波郡内の蝦夷集落の様子、土器や葬送などの地域文化の変化がみられないこと、須恵器や鉄製品などの新しい技術が導入されたことなど、彼は蝦夷の力を温存し、その力を生かして統治することを目指したのだろうと考えられる。

このように、身近な伝承にも、平安時代の歴史の息吹を感じることができる。

あなたの家の近所には、このような伝承はのこっていないだろうか。 (完)

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