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『阿弖流為・母禮之碑』の解説

2023-06-17 05:16:29 | 日記

6月17日、京都岩手県人会40周年記念総会に先立ち、『阿弖流為・母禮之碑』の解説の機会を頂きましたので、予定稿を掲載します。

この「阿弖流為・母禮之碑」をお守りしております「関西アテルイ・モレの会」の和賀です。

皆様ご存じの通り、アテルイ・モレは8世紀末に朝廷軍の陸奥の蝦夷攻略に対抗して3度大きな戦いをし、最後は征夷大将軍坂上田村麻呂公に降伏し、できたばかりの平安京に連れてこられ、枚方の地で斬首された蝦夷の首領です。このことは続日本紀・日本記略に記載されています。

戦後皇国史観からの解放を受けて古代史が見直され、遺跡の発掘と相まって、歴史研究者の間で「阿弖流為・母禮」の名が話題となります。その先駆者の中に秋田大学の新野直吉学長がおられます。作家の澤田ふじ子が1981年に「陸奥甲冑記」を書き吉川英治文学新人賞を得ますが、これを読んで触発されたのがこの碑建立の立役者である高橋敏男氏です。氏は水沢商業、福島大から伊藤忠に入り、常務として繊維部門トップの座にあり海外市場の開拓に尽力されました。退職後の1985年、氏は黒石寺の藤波隆夫住職と共に「アテルイの首塚」の伝承が枚方の片埜神社の近くにありと突きとめ、アテルイの顕彰活動を開始します。

1990年枚方市に「アテルイの由来書掲示板」設置を陳情しますが、史実の根拠なしと却下されます。その翌月の8月京都市会議員の穀田恵二氏と藤本さだ子氏と共に、清水寺の福岡精道勧学長に面談、大西真興執事長の内諾を得たのが10月。わずか3か月の即決でした。翌年清水寺森清範貫主は平安遷都1200年にあたる1994年に「アテルイの顕彰碑」建設を正式に決定します。関西では「関西胆江同郷会」、水沢市では「アテルイを顕彰する会」を立ち上げ、名刹清水寺にふさわしい顕彰碑を建てるべく募金活動を開始し、目標額は当初1千万円、その後Ⅰ千2百万円に増額され、完遂します。

碑の場所は坂上田村麻呂公夫妻像の安置されている田村堂に相対して、本堂の真下の南苑に。このため清水寺は南苑の南側の崖を補強する大工事を行います。碑の石材は当初水沢の石を見込んでいましたが、森考忍法務部長の下見で亀裂ありと分かり、盛岡の石を選定します。1994年5月石黒石材店の手により模型を作り基礎工事を行い、10月石碑搬入、11月6日『阿弖流為・母禮之碑』の除幕式を迎えます。参加者は水沢の市議団を含め250名。奥の院で「北天踊り」「ああ、アテルイ」「アテルイ太鼓」を奉納しました。当日は雨天でしたが、関係者は『アテルイの涙雨か』と、手を取り合って喜び合いました。

翌1995年から約10年間は顕彰碑建立にあたった関西アテルイ顕彰会の初代高橋敏男氏、2代安倍満穂氏、3代小瀬川操一氏ら有志により法要が行われますが、この間に主だった方々は鬼籍に入られ、2005年、4代松坂定徳氏の時に、関西岩手県人会、京都岩手県人会、後に設立した関西奥州会を加えて、関西の岩手県人会三団体の会員を母体として「関西アテルイ・モレの会」を設立して現在に至り、来年は30周年の記念法要を迎えます。

京都大学の上田正昭先生は「この碑は鎮魂の碑である」と喝破されました。私達は先人の慰霊と顕彰の想いを受け継ぎ、次の代に繋げるべく、努めてまいります。

皆様におかれましても、ご支援、ご協力のほど、よろしくお願い致します。(合掌)

 

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