岩手県西和賀町出身の片倉健十郎(本名田中克利)さんの作品を紹介します。
CD『北上川』に収録された歌「北上川」と朗読「北上川風土記」から構成されています。
とうとうと流れる北上川の流れに、みちのくの歴史を重ねて書かれた素晴らしい文章です。(事務局:和賀記)
北上川風土記(片倉健十郎作)
北上川は、岩手県全土をほぼ南北に縦断し、宮城県石巻市で太平洋にそそぐ大河です。
岩手県は四国四県に匹敵する広大な面積を擁していますが、その大半は奥羽山脈や北上山地などの山岳地帯から成り立っており、平地は県中央の北上川流域に限られています。
このような地形のために、北上川には、東西の山岳地を水源とする数多くの河川が流れ込んで、下流に向かうほど大河の様相を呈していくのです。
この流域は、古くから肥沃の大地として恩恵をもたらせ、山岳地帯からは金が産出されたことに加えて、優秀な馬・駿馬が農耕用、軍用として盛んに飼育されたことなどから、中央の政治体制とは、一線を画する独立性の強い政治・経済・文化を築いて来ました。
奈良時代から平安時代初期にかけては、原住民の統領だった阿弖流為を中心として、京の都より派遣された、征夷大将軍・坂上田村麻呂らと激しい戦いを繰り広げました。
長い戦いの中で、互いに相手の人格に触れ、信頼関係が芽生えました。
そこで、双方の密約が交わされ、互いの領土を侵略しないことを申し合わせた上で、阿弖流為は田村麻呂と共に京の都に入りました。
ところが、田村麻呂の熱心な説得にもかかわらず、朝廷の貴族たちの反対にあい、あえなく、阿弖流為らは殺害されてしまい、だまし討ち同然の結果に終わってしまったのでした。
今日、青森県最大のまつりとなっている、ねぶた祭りにおいて、阿弖流為と坂上田村麻呂は双方ともに、英雄として讃えられています。
戦場において阿弖流為軍が奏でた笛太鼓にちなんだ調べがねぶた祭りではえもいわれぬ情緒を醸し出し、みちのくに生きる人々の心を酔わせるのです。
次の時代は、安倍貞任を統領とする平安時代中期です。
この時代もまた、京都、朝廷との戦いが続き、双方とも代替わりをはさんで、15年以上もの長い戦いとなりました。その中に有名な逸話として貞任と源義家:通称八幡太郎義家との衣川の戦いがあります。貞任を追い詰めた義家が、和歌の下の句を馬上より詠み上げます。
「衣の館はほころびにけり・・・」すると追い詰められた貞任が馬上より振り向いて、上の句を返します。「年を経し糸の乱れの苦しさに」見事な返し歌でした。
義家は、貞任のあまりの教養の高さに驚き、追い打ちをかけるのをやめました。この武士の情けが、今も語り草となって伝わっています。
貞任はその後、厨川:現在の盛岡市に逃れましたが、結局はとらえられ、義家の父頼義に殺害されました。
この戦いで勝利した八幡太郎義家は後に鎌倉幕府を開く源氏の祖となりました。
この歌「北上川」で触れている最後の時代は、藤原清衡の時代です。
清衡は平安時代後期の武将でこの三、四代後は鎌倉時代にかかります。即ち、朝廷を支える重臣が公家から武家へと変わろうという、変革の時代でした。
清衡は、それまでの長い長い戦いの連続であった時代に思いをはせ、戦いのない世界を平泉の地に建設しようと立ち上がりました。
中尊寺、毛越寺、金色堂などの建設を手始めに、京の街並みをしのぐ、まさに、この世の浄土とも言わしめる都市を実現させたのです。が、この代に平家を壇ノ浦に滅ぼした、源義経をかくまうことが、藤原氏滅亡の原因となりました。とはいえ、中央政権に対抗する歴史はここで終わりではなく、戦国時代を勝ち残った豊臣秀吉が、奥州の覇者伊達政宗を恭順させることに成功した天正18年(1590年)まで続くのであります。
まさに東北は、わが国日本が国体を有する以前から2000年近く独立国であったのです。
人間社会の栄枯盛衰の歴史とはかけ離れて、大自然は不滅であり、北上川はその歴史をつぶさに見てきたはずであります。
しかし、川は何も語ることはありません。ただひたすらに、悠久の流れを変えることなく北上川は歳月の流れそのままにみちのくの大地を流れ続けているのであります。(完)