アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

多様性についての思考・頭グルグル

2015-01-01 | 2015年たわごと

まずはサハリンのおばあちゃんについて書こうと思い、過去の旅日記を探していたら、2013年秋のちょうどその頃に書いたらしい私的日記を発見した。

1年ちょっと前の私は、懸命に自己分析を試み、何を志すのかを模索していた。

そして浮かんでは消えたアイデアのうちのひとつが、そこに記されていた。

 

------------(記録を兼ねて以下抜粋します)------------

 

そもそも自己分析というのは何歳くらいで一通りできるものなのか。人それぞれとはいえ、10代から分析できている人は極稀なはず。20代では?若手でやり手のビジネスマンはできてる部類なのかもね。回りにいる年下の友達を思い浮かべてみると、たとえば東大院卒のKだって、やはり20代らしい右往左往感をにじませている。じゃあ30代は?一般的に、世間的な信用が自ずと得られる年代だと言われる。わたしみたいなアウトローでも、それなりに、数々の失敗を含む一応の社会経験は積めていることだし。外見は変わってなくても、声のトーンや目元や表情の作り方なんかは20代の時とは変わってきているんだろうと…信じたい。

それで、ようやく自己分析できてきたかな、と改めて思うことは、自分という人間は、ジャーナル(報道)的な表現に偏ることを潜在意識的に拒否しているんだろうということ。恐らくわたしは「ニュース」に興味がないし、ニュース的な方法で表現するのは好きではない。つまらないと思っている。

ではアート的なのか?というとそちらにも偏り切れず、文学も苦手だし、映画もハマれないし、鑑賞するのは良くても作り手として本当の価値はほとんど分かっていない。

だから結局、自分はその間のグレーゾーンなんだと割り切るしか道はなく、また、そのグレーゾーンを開拓していくべきなんだと自分に言い聞かせるしかない。仕方なく、という面と、それこそ我が道、という面が今はまだ微妙に表裏一体な感じ。

 

だけど、具体的にやりたいことを考えると、放浪時に妄想したことがまた蘇ってくる。

先住民族のアートをブランド化すること。

土産物ではなく、高級工芸というのでもなく、ひとつは、現在のデザイナーやイラストレイターの世界に、もっと先住民族の人がいてもいいんじゃないかということ。彼らが彼らのアイデンティティを現代的な仕事の中で活かし、DNAに染み付いた民族的センスを発揮していければ、文化も進化するし民族の誇りも大切にできる。仕事をつくるというのは土産物を増やすことではなく、今の社会でフツーに求められているものや人やポジションに入り込んでいくことなんじゃないか。

そういうことを促進することはできないだろうか、と思うのです。

 

これだけグローバル化が進み、世界が均一になる方向でモノゴトが進むと、50年後や100年後には今よりもっと文化の多様性が薄れてくる。弱者は強者に勝てないし、マイノリティはマジョリティにかき消される時代。先住民族だって、弱い民族は消えていき、アピール力の強い民族だけが残っていく。

だけどそれを動物園的に、珍しいもの見たさを売りにしたような観光でアピールするのは痛々しい。そうであってはいけないと思う。

どうしたらいいのか。文化の多様性は、どうやったらうまく残せるのか。「グローバル化時代の先住民族」…そういったことをテーマに、何かできないか?と思う。

アジアの旅エッセイをまとめたら、そっちをガッツリやろうか。

またカネがかかるけど、仕方ないな。スナックでも探して働くか。

 

だけどそれらに対する好奇心は、結婚や子づくりを求める本能よりも強いんじゃないかと思う。特に今は、そっちなしに自分の人生は満足いかないような気がしてしまう。

 

いずれにせよ、大きなテーマだから時間がかかる。だったら焦らず旅を続けながら、ぼちぼちやろう。ツアーもつくりながら、ぼちぼちやろう。

社会は自動的につくられていくものではなく、自分達の手で、常に変えていくものなんだと知ってしまったんだもの。

ロスジェネの30代は、失ったものが大きい代わり、何かを変えていけるポテンシャルは逆に高いはずなんだ。それ以前の世代とそれ以降の世代の接着剤として。日本と世界の接着剤としても。

わたしたちが活躍しなければ、発信しなければ、見落とされてしまう価値観や世界観があるんじゃないか。

…なーんてね。夜な夜なパソコンを打っていると熱くなってしまってダメだね。そろそろ寝よう。

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モヤモヤした時に記すこの手の日記は、落葉のようにパソコンの中に舞い落ちて、時間の経過と共に土壌と化していく。その土をたまにいじってみると、思いのほかフカフカになっていたり、カチコチになっていたりして面白い。

そうか。「多様性」ということを自分は希求しているんだな、ということも改めて認識できたりする。

 

日本でも、海外でも、全く意味なく虐げられたり、居場所を失って彷徨っている人たちがたくさんいる。

それは貧乏だから辛いのではなく、親がいなかったり学校に行けないから辛いのでもない。

自分の存在意義を見出せなくなってしまう、その状況が何にも増して苦しいんだと、今の私は思い至っている。

 

だから「多様性」なの。

どんなに小さな声も、どんなに偏った意見も、排除しちゃいけない。違うと思ったら、話し合いをしなきゃいけない。たとえ合意できなくても、その人の存在や、その人がそこに至った経緯は認めなきゃいけないと思う。たとえ歴史修正主義者であっても。もしくは多様性を認めないヘイトスピーチをするような人たちであっても。

喧嘩の先に暴力があり、暴力の先に戦争があるとしたら、その根っこの根っこには、自分に中に眠る“相手を認めようとしない心”の存在があると思うから。

虐げている人も、虐げられている人も、心が平穏でないという点では一致しているように思うから。

 

あぁまた頭がグルグルになってきた。

今日は元旦だっていうのに。

 

ちょいと、厄払いに行ってきます。

小雪舞う中、きれいスッキリ、今年もまっさらな心でスタートしなきゃ。

 


2014年ふりかえり

2015-01-01 | 2015年たわごと


(台湾・タロコ族のKuhongさんと。※ 残念ながら人生のパートナーではありません)

 

あけましておめでとうございます。

時が過ぎるのは本当に早くて、ゾッとするくらいです。

来年も盛りだくさんなのですが、この調子で時が経ったらまたアッという間に終わってしまいそうで怖い…。

と思って、自分を落ち着かせるためにとりあえず去年を振り返りました。

 

ということで、アッという間に終わったと思ったけれど、それなりにいろいろがんばったんだなぁ。

特に去年は、福島の取材とソーシャルツアーをがんばったみたい。(なんだか遠い記憶になってしまって他人事と化しているけど)

原稿はあまり書けず、その代わり、「スタート」した取材が3つも生まれた。

教誨師と、アジアのばあちゃんと、外国人労働関連。

教誨師の取材(生と死について)はロングランで数年かけてやるつもり、ですが、アジアのばあちゃん取材は来年仕上げないといけない。…ほんとにできるやろか。

 

外国人労働の現場については、多文化共生と強くリンクするのでこちらも是非やりたいところ。

でもその表現方法として、「リポ」というのはあまり面白くないような気がしている。身近なところに外国人がさほどいない人にとっては、結局他人事になってしまうから。

それで、インターネット放送とか写真展とか、もっと立体的な発信方法を考えたっていうわけです。

そちらも来年、どうなるか…。

 

ちなみに先週、インターネット番組のテスト収録用ミーティングをやりまして、それはかなりイイ感じで進みました。また改めて経過報告アップしまーす。

 

さて、夜が明けたら元旦だ。

明日からアジアのばあちゃんエッセイ、執筆始めます。

 

2015年は勝負年。

どうぞ引き続きお見守りくださいますよう、宜しくお願いいたします。

そして世界中の人たちが、争いなく、尊厳をもって生きられる世の中に一歩でも近づきますように。

 


愛しの済州島

2014-12-31 | 韓国の旅

寄稿したフリーペーパーが発行されたので、こちらにも掲載しますー。
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「済州島は韓国で一番美しいよ」と絶賛する声に押され、ソウルから2泊3日の旅に出た。

金浦空港から約1時間、チェジュ航空で安い便を狙えば片道3千円以内で行けてしまう。

ひと昔前は「元流刑地」として韓国本土で差別的な見方もあったそうだが、今では国内外から多くの人がスローライフを求めて「韓国のハワイ」にやってくる。

 

 

アジア女子トーク

私がその地に降り立った日は、あいにくの雨だった。1泊1500円のドミトリー(安宿の相部屋)に泊まり、雨だから観光に出るのをやめたという中国人女性と話に花を咲かせた。彼女は数年前に米国に移住したらしく、英語が堪能だった。「中国を出てビックリしたわよ。私たちがいかに井の中の蛙だったか!」なんてことを笑いながら言う。つられて私も「日本だって似たようなもんよ。全く時代遅れの差別国家なんだから!」などと偉そうに言って、アジアの男はああだこうだと女子トークにもつれこむ。

ちなみに中国人観光客は、済州島の観光だけならノービザで30日間滞在できる。その影響で観光客数がすごい勢いで延び、良くも悪くも、中国資本がどんどん入っているらしい。

安宿には韓国の国内旅行者も数多い。夜はビール無料の交流タイムが人気みたいで、タダ飲み目当ての若者たちで大いに盛り上がる。学生、フリーター、主婦、転職中の人、中には安上がりのハネムーンカップルまでいる。私はその中で、日本のアニメが大好きだという女の子と仲良くなった。フリーランスで英語教師をしているという。会社勤めとフリーランスはどっちが幸せか?といった現実的な話から、日本のサブカルチャーまで話題が尽きることはない。

最近はろくなニュースを聞かない冷え冷えした日韓関係だけど、ここ済州島には、たとえば「日本人と同じ部屋」というだけで喜んでくれる人と出会える、あたたかさがある。島の別名「三多島」は、風と石と女が多いという意味。きっとその風は、旅人がもたらす新鮮で多様な温もりも意味するのかも。


(集落を散策途中で見つけた民家)

 

沖縄みたい? 石垣の伝統美

肝心の島観光は、空港でもらえる地図からスタート。広げてみると、「信じようが信じまいが博物館」「変な物の博物館」「無病長寿テーマパーク」「お化け公園」…。各施設にこんな大胆なネーミングができる島って、一体どんな文化が息づいているのか。妙な好奇心が沸き上がる。

しかし島は意外に大きく、2泊では到底足りそうにない。そこで今回は近場で無難な「済州海女博物館」を選び、市バスに乗った。

北部中心街から一周道路を時計回りに走ると、間もなく不思議な田園風景が見えてくる。段々畑が平地に広がっているような…と思ったら、丹念につくられた石垣が、畑と畑の間を縫うようにくねくねと延びていた。その合間には青や緑やピンクの低い屋根。バスを降りて集落を歩いてみると、それは瓦風に仕立てたトタン屋根の伝統家屋だった。

どことなく沖縄の民家に似ているのは、屋根の棟が石造りだからか、ごつごつした石塀のせいか。石がどれも黒いのは、世界遺産・漢拏山の噴火によるらしい。中世までは酖羅(たんら)という独立王国だったというから、琉球とも独自の外交があったのかもしれない。


(これから建てる家も伝統家屋。外壁はコンクリと石で二重にしてる…?

 

強く切ない“女の島” 

海女漁も日本との共通文化だ。しかも他には世界に例がないというから驚く。博物館には、その道具や祭りなどが日本語解説付きで展示されている他、1932年に起きた海女抗日運動、さらには1948年の四・三事件についても説明があった。四・三事件は、南北統一と独立国家樹立を訴えるデモが発端となり、米国を背景にした韓国軍によって6万人ともいわれる島民が虐殺された悲劇のこと。島からは多くの人が日本に逃れて、在日韓国人となった。

ちなみに済州島に女性が多いといわれるのは、男たちが遠洋漁業で多く命を失ったからだという。女手ひとつで家族を養うため、海女たちは過酷な労働に耐え、強く切ない民俗文化を築いていったそうだ。

 

 

島を一周、済州オルレ

今、平和が戻った島では「済州オルレ」と呼ばれるトレッキングが盛んだ。3~7時間で歩くコースが26ほどあり、各所には、島で有名な小型馬をモチーフにした標識が立っている。馬は高麗時代に攻めてきた元によって持ち込まれたらしいが、馬肉を食べる文化は韓国内で唯一無二というから、そんなところも日本と共通しているのは実に面白い。

オルレは全て網羅すると島を一周できる仕組みで、もちろん、城山日出峰などの自然美もバッチリ堪能できる。のだけれど、ここは済州島。あわてずゆったり散策するのが良さそう。沿道に点在しているお洒落なカフェでくつろぐもよし、手づくりの貝殻アクセサリーなど地元産雑貨を求めて歩くもよし。五感をフル活用して自然と文化を楽しむのが済州流といえそうだ。

嬉しいのは、3年前にこのトレッキングスタイルが九州に輸入され、「九州オルレ」として人気を呼んでいること。済州島発の平和街道が、もっともっと日本全土に浸透したらいいなぁと願わずにはいられない。


(閑散とした海岸沿いにもお洒落なカフェが。手づくりアクセは、女子なら「かわいぃ~」と飛びつくはず…)

 

そして私は早くも次回を夢想する。ドミトリーで韓国人の子がくれた「こっちは(値段が)高い方」の温州みかんが、ものすごく美味しくて忘れられないの。思わず「んまいっ!」と叫んだその味を求めて、次は市場巡りとみかん食べ比べは必須と決めている。 

海と山と人が織りなす魅惑の健康アイランドに、あなたも是非おいでください。成田からの直行便なら3時間弱。その際は東京時間を捨てて、まったり島の風に吹かれることをお忘れなく。


ふくしま01

2014-12-29 | 日本の旅

はじめて警戒区域の中に入った。

双葉郡、葛尾村。

かつて1500人ほどいた村民全てが車で1時間近くかかる三春町に避難しているため、今は誰も住んでいない。

 

正確にいうと「警戒区域」は既に解除されているのでもはや無く、「帰還困難区域」「移住制限区域」「避難指示解除準備区域」の大きく3つに分けられている。

漢字ばかりでややこしいので、それぞれA(帰還~)、B(移住~)、C(避難~)とすると、葛尾村は北東の一部地域がAとBで。その他75%ほどはCに指定されているらしい。

Cは年間20ミリシーベルト未満ということになっていて、除染が終われば順次帰ることが計画されている。大熊町、双葉町、浪江町はほとんどがAで、政府が不動産の買い上げを検討。飯館村や富岡町に多いBは、数年以内に20ミリシーベルトを下回ると考えられるので一時帰宅なら可能、らしい。

 

半年ほど前、東京の友人が「警戒区域の中、行けるなら行ってみたいよなぁ」と言った時、私は「行かない」と即答した。

率直に怖いと思ったし、行ったところでどうなの?という気がしていた。

だから今回も「うちさ行ってみっか?」と言われた時、「いいんですかぁ?」と誤摩化しながらも内心ではドキリとしていた。

 

でも、私が警戒していたその区域は、案外あっさりと道路の延長に現れ、何のへんてつもない普通の田舎町に続いていた。

検問があって白いビニールの服と帽子と長靴を装着させられるのかと思ったら、そんなの全然ない。

検問やバリケードがあるのはAの「帰還困難区域」で、そこまでに至らない村の中心部には、「特別警戒隊」と書かれたプレハブがあるだけだった。

 

案内してくれたMさんは元村議員で、本業は種牛の肥育だったという。立派な瓦屋根の家に、牛舎が2個3個と並ぶ 大きな敷地が小高い丘の上にあった。

 

村に入ってから線量計の値は0.2前後をさまよっていた。

Mさんに聞くと事故当初は2.0ほどあったというから、除染によって10分の1まで下がったことになる。

正直、除染なんて意味ないと思っていた私は、「ほぅ!」とビックリ。場所とやり方によってはかなりの効果が上がるらしい、と同行していたFさんが教えてくれた。

 

とはいえ、この辺りは、検問所はなくても自由な立ち入りは朝9時から夕方4時までと決められている。

驚くべきは、むしろ0.2という値は福島市内や郡山市内でもザラにあるということなんじゃないか?…と私は思った。

立ち入りを日中のみに制限するほどの線量下で、福島市や郡山市では何十万という人たちが日常生活を送っているんだから。(しかも市内のホットスポットと呼ばれるエリアでは、0.5~1.0の値が測定されるのももはや「日常」)

それって、どっちが危ないわけ…?

 

ところで葛尾村では、牛や馬の種付け業が盛んだったらしい。

繁殖用の牛や馬を育てて人工的にセックス(牛の場合は人工受精)をさせ、強くて丈夫なこどもを産ませて売る仕事。

村に行った日の前日、Mさんはその手腕を面白おかしく解説してくれ、酒を呑みながらひとしきり笑った。その後に原発事故後のことも話題となり、3月12日の爆発のニュースをどのように聞いたか、全村避難をどのようにしたか、4月中旬に一時帰宅した時の牛の様子、5月中旬に村中から270頭の牛を避難させた話など、まるでドラマを見ているかのようにパッパッと映像が思い描かれるほど生々しい話を聞かせてもらった。

ちなみに、避難させた牛を検査した結果は、牛舎飼いは汚染なし、牧場で放し飼いになっていた牛は全て白血病で殺処分になったそうだ。

 

 

葛尾村の人たちの帰還計画は、来年だったのが再来年に延期になったという。

線量は既に問題ないけれど、至る所に置き去りにされている除染土の撤去が進まないからだ。

Mさんは会話の中で、除染土のことを「魔物」と呼んでいた。

 

 

一度は警戒区域にまでなった土地に、戻るのが本当にいいのかどうか…と思っていたけれど、葛尾村に行って、Mさんの自宅に行って、そりゃ捨てきれんわなぁ…と率直に思うようになった。

 

いわき市の仲買人さんがおっしゃっていたことも、同時に頭をかすめた。

「最初は廃業しようという考えもあったんです。でも検査するうちに、これは大丈夫そうだぞと。親やおじいさんの代からずっとこの海のものを食べてきて、これだけの魚、無くしたくない。」

 

相馬で出会った若いママの言葉も思い出した。

「地元が嫌で県外に出て結婚したけど、今は故郷にいたくてしょうがないんよ。こういうのは、失いかけて初めて気づくのかも。」

 

だからといって帰還賛成!というわけではないけれど、なんとか帰って元の生活を取り戻そうとする人たちの気持ちや、帰還後の人口が減ってしまうことを心配する人たちの気持ちを、ないがしろにはできないなと思うようになったことは事実。

だってそこには以前と変わらない景色があって、手元の線量計も「大丈夫」と言ってるんだもの。

すっかりゴーストタウンと化しているのだろう「帰還困難区域」とは違う、心の揺らぎの苦しさを、私は車窓からぼんやり田畑を眺めながら想った。

 

私だったらどうしてるだろう…。

もしこれが30年後の自分に降り掛かってきた災難だとしたら。

 


ふくしま00

2014-12-29 | 日本の旅

福島のことを語るのは、とても難しい。

そもそも数回行ったくらいで何かを語ろうなんてこと自体、おこがましいのだけれど。

 

でも福島の原発に関するニュースが取沙汰される度に、福島全体のイメージはまたひとつ、またひとつと黒みを増し、それ以外に住む人たちとの間にどんどん深い溝ができていく。

だから、1度でも福島を取材した者の責任として、彼の地に行き続けることはマストだと思うし、また行き続けることしか今の私にはできない、と思って今回もとある活動に参加させてもらった。

 

その人は毎月大阪から福島に通い、トラックいっぱいの野菜を複数の仮設住宅に配っている。

震災の年から始めたので、もうすぐ50回に届きそうな勢い。

多くのボランティア団体が資金難を理由に撤退して以降も、その人は「これはボランティア活動ではなく自分がやりたいからやっているだけ」と言い張り、自腹を切って続けている。

私はそれにちゃっかり便乗し、大阪から向かう途中の名古屋で拾ってもらうというわけ。(もちろん交通費カンパはしますけど)

 

それで、これを機に福島のことをまとめたいと思うのだけど、そう思えば思うほど「まとめる」という作業が果てしなく感じられて、頭がボーッとしてしまう。

どうしよう…。今夜もギブアップ…かしら。

 

先日アップした「福島の水産の今」の動画に対し、いろいろなコメントが寄せられていた。

・海産物ならストロンチウム計測しないと意味はない。

・思いは理解しうるものの…検査の盤弱性(内蔵を外して測るなど)の上にある基準クリアの声では、感情論の安心の前に、信頼を得るには至れないのが本音。後は国民の自己責任と言われるのでしょう。

・福島の人達の姿や声だけを拾っても、この問題の答えは出てこないと思いますよ。

・福島産の食材を避ける人が悪意に基づいているかのような物言いには腹が立ちます。検査結果は事実。それをどう捉えどう行動するかは各自の自由のはず。

・福島だけではなく、青森から静岡ぐらいまでの食べ物は危険なので、「食べて農水産業者を応援」する必要は全くありません。

などなど。

 

誰かに、何かを、伝えるということ自体がそもそも難しいんだ。

福島に対して少しでも不安や疑問がある人は、全員が現地に行って直接福島の人たちと話をしたらいいと思う。けど、そんなことは不可能だし、福島の人たちだって、そんなことされたら疲れてしまう。またもしそのうち1割の人が実際に福島に行ったとしても、その先で出会う人が必ずしも腹を割って話してくれるとは限らないし、そもそも福島にもいろんな意見をもった人がいるから、出会った人の見解が福島全体を象徴しているなんてことはあり得ない。

だーかーら。

何か目的をもって福島を訪れた人が、もしくはたまたま訪れた先で何かを強く感じ得た人が、あの手この手で「福島の今」を発信するしかないんだ。
どんなに拙くても、どんなに難しくても。

 

ということで、明日以降、少しずつ、丁寧に、小出しに書いていくことにします。

そして海外の友達も福島のことを知りたがっているので、小出しの後には英訳が待っているのだ。

 

来年も、命をかけて誠実に生きようっと。。。

とりあえず、おやすみなさい~