アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

多文化教育を考える旅-1章

2015-01-06 | 日本の旅

半年ぶりにその小学校に行き、校長先生と再会した。

実は今月末から約1ヶ月間、廊下の片隅で写真展を開かせてもらえることになったのです。

それで今日はその打ち合わせに。

 

学校で部外者の写真を展示するというのは、恐らくタダゴトではない。

先生は展示に教育的効果があると強烈に判断する必要があるし、その他の地域団体との兼ね合いもある。また何より保護者の目というのもあると思う。

そういうのを一切合切クリアしてくださったことに、ただただ頭が下がる思いであります。

 

多文化社会と多文化教育について、今日、校長先生と私は実に4時間半も語り合った。写真展示に関する相談事項を差し引いても3時間以上。

先生は、まず格差構造の二重化に対する懸念を話された。

たとえばこんなエピソードから。

ある中小企業が外国人実習生を受け入れたところ、最初は社員も地域の人たちも優しくウェルカムした。ところが次第に日本人は親玉気分になり、外国人実習生を奴隷のように扱うようになった。それは格差社会の下層にある中小企業が、更に下層をつくり出す構造そのものだった。

…というお話。

 

「それが進めば、地域は荒んでいく」と先生はおっしゃった。

「だけどこども達は放っておいても仲良くなります。国際化や多文化共生は、そうしたこどもたちが大人になる頃には自然に実現されるとは思いませんか?」と私。

それは私が去年からずっと自問自答していることだった。

国内における外国人支援は、本当に必要なのかどうか。

 

先生の答えはこうだった。

「そうなるかもしれないけど、そうはならない可能性もあるんじゃないかな」

たとえば学校内で、日本人の子と外国人の子が喧嘩をしたり差別的な発言をしてトラブルになることがある。そんな時、教師はどう対処したらよいか。

適当にあしらったり放ったりすれば、トラブルはそのうち水に流されて忘れられる代わりに再び同じトラブルが発生する可能性が残る。逆に先生がしっかりその子たちに向き合い、それは偏見なのだと指導すれば、こどもたちは相手の文化を尊重することの大切さにきっと気づく。その時は分からなくても、大きくなってからきっと。

そうした「気づき」を与えるのは必要だと思う、と先生。

 

なるほど…と私は合点した。

偏見や差別心は、何かトラブルが発生した時に「待ってました」と言わんばかりに牙を剥くヤクザみたいなものなのかもしれない。そのトラブルは外的要因だったり、ストレスなどの内的要因だったりするのだろうけれど、とにかく穏便でない状況下でヤクザはムクムクと起き上がり、ゴジラのごとく肥大化して火を吐きながら暴れ狂う。

そういう厄介な悪芽を、誰もが持っているような気がする。

 

だからこそ教育によって、もしくは啓蒙によって、一方的に火を吐かれた者の苦しみを分かってもらうことが必要なんだ。それもトラブルが小さいうちに。また社会に蔓延する前に。

 

私は自分の中に眠っている差別心を想った。

昔、誰だったか有名な芸能人が「差別は本能だ」という旨のコラムを雑誌に書いているのを見て、そうか、と思ったことがある。以来、自分はもともと差別的な人間であることを認めたら、気持ちがスッと楽になった。

差別とは、自分とは違う他者に対する防衛本能なのだ。…と言われれば、確かにそんなような気がしてくる。だって自分ではダメだと分かっていても、自然発生的に湧いてしまう感情や抵抗感はどうしようもないもの。

 

校長先生はおっしゃった。

「多文化教育っていうのは2つあると思うんです。一つは単純に国際理解の促進で、いろんな文化を知るということ。だけどそんな表面的なものだけだったら、教育とはいえない。もう一つ大事なのはね、人権の視点を持てるかということです。それはひと昔前に同和教育が行われ、その流れの中で在日朝鮮人を理解するための教育が行われた、その延長線上になければいけないと思う。目の前にいるその人の、背景やそこに至った経緯を知るということ。また知ろうとする実践。外国籍のこどもや親の行動を理解しようとした時、そのことをよく思うんです」

 

なんかもう…あぁ…って感じで心がフニャフニャになってしまった。

先生の言葉の端々には、私が去年から取材している教誨師(刑務所で罪人に宗教教育をしているお坊さんのこと)と全く同じ価値観が見え隠れしていたし、また私がこれまで様々に関心を寄せては心に散在させていたあらゆる問題意識にも見事に通じていたから。

 

そしてそれは言葉にすれば「人権」という表現なのだということにも、私は深く合点した。

 

帰り道、空を見上げれば大きな満月が浮かんでいた。

自分は完璧に導かれているということを、感謝せずにはいられない夜。

 

今日も工場日和-3

2015-01-06 | 2015年たわごと

今年も始まりました。

今月はかなり連日行く予定です。

 

しかし。

午後から思いも寄らぬ事態になり、私のイライラ虫は大増殖・大氾濫を起こした。

同じチーム(工場ではラインと呼ぶ。複数人が同一線上に並んで流し作業をするから)のフィリピン人女子2人が、ペチャクチャペチャクチャとお喋りしながら作業をし始め、数十分で収まるかと思いきや何時間もずっと同じ調子で喋り続けたのだ。

 

そのうちの一人は、工場の社長の愛人業も兼務していることを私は知っていた。

その子は半社員のような立場で、以前別のラインで一緒になった時は、能面のような顔で私を含む派遣社員の指導に当たっていた。昔から彼女を知るブラジル人の友人によると、彼女はいつもそんな調子で気取っているという。

さすが愛人。この工場の裏番長みたいな存在なんだ、きっと。

 

その彼女が派遣社員のフィリピン人と、年相応な(恐らくどちらも20代半ばと思われる)はしゃぎ方をしているのに私は少し驚いた。そして、最初はそんな様子を微笑ましく思っていた。

 

フィリピンにいるフィリピン人の親友と、以前こんな会話をしたことがある。

友人「日本人経営の会社って、みんな黙々と仕事するのよね」

私「そりゃそうよ、仕事だもの」

友人「フィリピン人はすぐ喋る」

私「そうよね。なんで?」

友人「私たちからすれば、何も喋らないでひたすらパソコンに向かってしかめっ面してる日本人の方が奇妙なのよ」

私「そうなの?」

友人「仕事だって、楽しい方がいいじゃない」

私「そりゃそうだけど、集中できないじゃん」

友人「私たちには能力があるのよ。一度に二つのことをやる」

私「あぁ…つまり日本人は脳が単純ってことね(笑)」

 

それ以来、私は「仕事や勉強する時はお喋りをしない」という常識を捨てた。

 

…はずだった。

 

なのに今日、そうして寛容になったと思っていた私のココロに再び亀裂が入り、途中からイライラが止まらなくなってしまったのだ。

うるさい…なんだこのフィリピン人は…喋るなよ…ここは夜のスナックじゃねぇんだヨ…うるさい…あぁうるさい…いちいち笑うな…何言ってっか意味も分かんねぇし…くそー!!!!

 

ということで、イライラの頂点に立った私の脳みそはすっかり我を忘れていた。

 

私は自覚した。

やばい。このままではフィリピン人そのものを嫌いになってしまう。いや、すでに嫌いになりかけている。

フィリピン本国には両指では足りないくらいたくさんの友人がいるというのに。

これまで何度も何度も足を運び、取材もして、日本の次によく理解している国だったはずなのに。

その結果として特にフィリピン人の国民性が大好きだ!と確かに胸を張って言っていたのに。

タガログ語のチャーミングな響きも大好きだったというのに。

 

つまり私は蔑んでいた。

彼女たちを。そして「フィリピン人」全体を。

 

私としたことがそんなのあり得ない…と思えば思うほど、その感情はへどろのように私の胸にこびりついて離れなかった。

 

「これだからフィリピン人は嫌なんだ…」

 

もう全く自分ではコントロール不能な、醜魂のかたまりが存在していた。

もう、友人の顔を一所懸命思い出そうとしても、楽しかったフィリピンの情景を頭に描こうとしても、2人の耳障りな笑い声が全てをかき消して無駄に終わった。

 

そのうち別のフィリピン人男子が作業上の小さなミスをし、私の反対側にいたブラジル人の女性も部品を落としてあたふたし始めた。

もうダメだ…と私は思い、2人に向かって一言いった。

 

「ちょっと、うるさい(怒)」

 

彼女たちは、なんだこの女…という眼差しで私の顔を見、少し大人しくなって作業を続けた。

一方の私は、なんて言葉足らずな怒り方…と早速自己反省の嵐で、本当はこう言いたかったのに、とか、次にまた同じシチュエーションになったらこう言ってやるゾ、とか頭をぐるぐるさせた後、ふと、そうだ…ブラジル人の友人Dだったら何て注意していただろう…と考えた。

いつも陽気なDは、人を笑わせたりリラックスさせるプロだから。

 

そして思い至ったこと。

…私は、きっともうすぐ生理に違いない。

(だからイライラするのは仕方なかったんだ)

 

そうやってうずくまるように震えていた自尊心をなだめ、内在する差別心との根本的な闘いには蓋をすることにした。

そのことについては、また日を改めて書くことにします。

 

とりあえず今日のフィリピン人女子2人が、次に会った時はケロリとしていたらいいなぁ。

 


ロシアのこれから。

2015-01-04 | ロシアの旅

ようやくエッセイを書き始めた。

まずはロシアから。

 

それで、旅中の日記を読み返していて、そうか、と改めて思うこと多々あり。

そのうちのひとつ、ハバロフスクのゲストハウスで知り合った教会新聞の記者さんに聞いた内容が面白いなぁと(今ごろですが)思って、コピペすることにしました。

2013年10月のヒアリングです。

 

 

●ボランティアについて

洪水(2013年7月~アムール川で発生)の時は、政府が地方政府に物資支援を行った。飛行機などで、必要な食糧や子供用のミルクを無料配布。
マンパワーでは、3人のプロの人道支援家?(元赤十字の人など)が中心になって地元や周辺からのボランティアをコーディネイトした。もともと地域の人同士で助け合う文化があったため、問題なく皆が協力して作業できた。

市民活動の必要性が認識されてきたのは、7~8年前から。
特にモスクワで火災事故?があった時、政府をアテにしないで自分達でなんとかしないといけないという意識が広がった。

●市民活動について

国が崩壊して、まだ20年ちょっと。新しい世代が新しい感覚をもって育ってきているが、一方で国づくりはまだ始まったばかり。情報鎖国状態がいきなり解放されて、今はオープンになっている。でも外国から見たら分かりにくいイメージがまだあるかもね。これからは価値観の違いで争いが起きるかもしれない。

市民サイドから政府にボトムアップで政策を要求したり、社会を変えていく動きが始まっている。

僕らにとっては、強いリーダーがいて、国が安定していればOK。

ロシアは途上国。早く先進国に追いつきたいと思っている。経済レベルの面で追いつきたい。(だけど先進国も問題だらけだと聞いたらガッカリだな)

たとえば、以前は障害者や問題のある人達は郊外に人知れず暮らしていた。政府はそういう人達を支援するメリットが少ないため置き去りにしてきた。それを、市民(教会?)がキャンペーンを起こし、仕事の行き帰りに皆が車椅子を使用して街の不便さを実感し、政府に訴え、障害者が街に出てこられるよう支援を求めた。
今後は、そうした認識を一般に広げるための教育活動もしていかなきゃいけない。

●他民族との共生について

ソビエト時代に、農民(労働者)は皆同じという考え方が浸透した。開拓時代は別として、共存の歴史は100年以上ある。たくさん民族がいるから、共存しないとやっていけない。中国人に対しては、モスクワにはほとんどいないから分からない。この辺(ハバロフスク)ではいろいろ感情があるのかもしれないけれど。

モスクワでは、イスラム過激派や戦争をしている相手に対して嫌悪感が強い。ロシア南部でテロが毎月のようにあった。戦争も2回した。今は少し安定しているけれど。

アメリカに対しては、年寄りは多分、よい感情をもっていない。冷戦の時は敵国だったからね。

 
 
ということで、最後の写真はハバロフスクの市場で買ったロシアンサボテン君。
 
今も我が家ですくすく育っているなり。
 
 
ロシアの若い世代の意識はきっとどんどん変わっている。
社会主義体制での民主化というのは、もしかしたらアリなんじゃないかと彼の話を聞いて思ったのを思い出す。
 
ロシアは確かに「分かりにくい」イメージだけど、私個人的はかなり、もしかしたら1位2位を争うほど住みたい国にランクインしている。
 
それくらい、ラブリーな雰囲気なのです。
 
 
また行きたいなぁ~。
 
言葉は難しいけど。(それはどこの国でも一緒…)
 
国の強さを競うのではなく、ロシアならではの、ロシアにしかない幸せの形を追求してほしいなぁとつくづく思います。
 
 

脳をBREAKするということ

2015-01-03 | 2015年たわごと

お寺からの帰り、知立団地に住んでいる日系ブラジル人の友達Mに電話をした。

知立駅は本宿から名古屋のちょうど真ん中辺りにある。

彼女とは去年の正月にサーフィンに連れていってもらったっきり、「遊ぼう、遊ぼう」と言いながら1度もまともに遊べなかった。そして彼女こそが、私にブラジル系派遣会社を紹介してくれたソウルメイトの一人だった。

 

電話越しに彼女は、「今サーフィンの帰りで、岡崎に着くまであと1時間くらいかかると思う」と言う。

だったら、鼻水もひっきりなしに出て風邪気味だから帰ろうかな、と思ったのだけれど、運転していた旦那のDが電話を代わり、私に明るく言うのだった。

「大丈夫!近くにコンビニがあったら、レシートに書いてある電話番号でナビできるから。40分くらいで着くと思う!」

私は思わず「オーケー」と言って、コンビニを探した。

 

まもなく彼女たちは到着し、真新しいにワゴンに乗せられて一緒に知立団地に向かった。

そこは日系ブラジル人労働者が多く住んでいる愛知県内でも屈指の公団住宅で、私にとっては二度目の訪問だった。

 

彼らは、真冬のサーフィン帰りだなんてことは微塵も感じられないほど普段通り。

サーファーって、そういうもんなんやろか。

少々くつろいだ後、彼女はブラジル料理をつくり、彼は黒ビールを飲んで、私は仕事の話や今年の予定など我ながらつまらない話をベラベラしゃべって、食べ、笑い、猫と遊んで、そのまま泊まっていくことになった。

そして翌朝5時過ぎに起き、大阪のユニバーサルスタジオに行くという彼らと一緒に家を出、私は帰って原稿を書きましょ、と思っていた。

 

けれど、朝起きたら雪。

念のためネットで調べてみると、名古屋から近畿に抜ける高速ジャンクションで大幅な通行止めになっている。

どう考えても無理、ということになって、再びウダウダし始めた。

Mがブラジルでは定番だという冷凍フランスパンを取り出してサンドイッチをつくり、朝日を浴びて輝く粉雪を撮影し、一緒に大阪に行くはずだった別の友達が横になり、その寝顔を絵に描いて笑い合い、朝食を食べ、再び猫と遊び…。

いつもの私だったら、その時点でなんとか家に帰ろうとしていた。

既に、この休み中に書こうと思っていた原稿は手つかずのまま、部屋の掃除はしたけれど未だ机の上はブラックホールのまま、来月の取材の予定は何も決められていないし、図書館で借りた10冊の本もひとつも読まないまま返還日を過ぎている。やらなきゃいけないことばかりがどんどん山積みになって、頭の中がパンクしそうになっていた。

 

だけど、雪だから車が動かせない。

タイヤがノーマルだから。

それにこんな朝早くから彼らに「駅まで送ってって」とは頼みづらいし、なんとなく、私もアクセクしちゃいけないような気がしていた。

 

それでウダウダが延長戦に入った頃、インターネットを見ていたDがふと言った。

「北朝鮮の映画、見る? アメリカのやつ」

「え!アメリカで中止になったやつ?見れるの?」

「ポルトガル語の字幕だけど。英語だからわかるよね」

「多分わかんないけど、見る!」

 

『The Interview』というその映画は、金正恩暗殺のストーリーが北朝鮮の激震に触れ、テロ予告にまで発展して全米の映画館で次々と上映中止となった、あのお騒がせ映画。

それが無料映画視聴サイトで見れるっていうんだもの、すご…。

 

で、案の定、英語もポルトガル語の字幕もチンプンカンプンではあったけれど、大事なところは彼らが日本語で解説してくれたり、私が確認したりして、ストーリーの流れはだいたい理解できた。

その感想。

「こりゃ北朝鮮、怒るわなぁ~」

「でも面白いね…」

「アメリカらしいよね」

 

それは実に全くのアメリカ流コメディで、一言でいえば「バカ」だった。

そもそも金正恩がアメリカのテレビ番組を「好きだから」という理由で呼び寄せるかい!とか、いろいろ突っ込みどころは満載なのだけど、そんなことは本質ではないのでどうでもいいんですよ、ということがにじみ出ている。

恐らく本質は、CIA的な姑息な毒薬暗殺は容易に失敗し、またそうした策略は個人の心情の変化によって阻止(または失敗)されるということ。そして大義や使命感よりも強いのは「裏切られた」という感情であるということ。さらに、誰を倒す最も有効な方法は、単に抹殺することではなく、恥部をさらけ出して人々に知らしめることだという(これが最もアメリカらしい)信念のようなもの。

ぃや−。

私的には、率直に面白かったです。

政治的には「絶対ナシ」だと思うけど、そのリスクを犯してまでやっちゃう、しかも堂々と世界にアピールしてしまうところもまたアメリカらしいというか。

その手法が好きか嫌いかと問われればどちらとも言えないけれど、少なくとも至る所でププっと笑ってしまうのはバカを徹底しているからだけではなく、北朝鮮の指導者を風刺はしても人々を蔑んではいないという安心感ゆえだと思う。

そこはちゃんと人権尊重、なんだよね。

 

 

で、その後にDが出してきたのは、2人の中国人男子のYouTube面白映像だった。

こちら。

http://www.youtube.com/watch?v=x1LZVmn3p3o

 

 

もう、なんていうか、バカの極みなんですよw。

これ2005年にアップされて、結構有名らしい。

 

最初は中国人が英語の歌を口パクしてるというだけで(たぶん映画を見た後だから余計に)シュールな気がして笑けたんだけど、見ているうちになんだか誇らしい気分になってきた。

なんというか、アジアにもちゃんとバカがいる!っていう誇らしさ。

 

それは日本の落語や漫才も然りで、むしろそちらの方が(口パク中国人男子より)ずっと質の高い笑いには違いないけれど、ここでは日本か中国かという話ではないのです。

世界中どこにでも「ちゃんとバカは健在している」という事実。

それはなぜか、今の私をフッと楽な気持ちにさせてくれた。

 

全うなことを全うに思考するのも大切かもしれないけど、結局(もしくはそもそも)人間は何でもありの存在なんだということを忘れちゃいけないなぁと思って。

その幅の広さを、事実として受け止める器を持ち合わせてなきゃなぁと思ってね。

 

根っこがクソ真面目な私には、定期的にそのことを思い出させてくれる友人が必須だということも、正月早々思い知らされたのでした。

 


厄年と厄払い

2015-01-02 | 日本の旅

去年知り合った曹洞宗のお坊さんに「そぶみ観音がいいよ」と言われ、岡崎に向かった。

名鉄線・本宿駅から歩いて15分ほどの山間にある、渭信寺(いしんじ)。

加賀の前田利家の守り本尊だった御神体を、金沢大乗寺の住職が隠居する時に岡崎に持ってきたのが始まりだという。


そもそも厄払いというのは神社でやってもらうものだと思っていたけれど、お寺でもいいだって。

…へぇ、そうなんですか、と私は軽く答え、「じゃ、行ってきます」ということで初厄払いに出かけたというわけ。

 

 

元旦の昼間は人でごった返すというそのお寺には、若いカップルの姿もちらほら見られた。しかも夕方、しかも寒風とともに粉雪舞い散るこんな日に、正月祈願でお寺に来る習慣がある人々がたくさんいるなんて。

日本の年末年始を説明する時は「大晦日にはお寺で鐘つき、元旦は神社でお参り。寺と神社は似て非なるのよ」なんて知ったかぶって言っていたけれど、根本的に考えを改めなくてはいけないらしい。

 

本堂には正月飾りやお守り類が並べられていて、人々はその前をそろりそろりと歩きながら物色しているようだった。

私は内心ビクビクしていたせいか、そちらにはほとんど目もやらないで係の人を探して聞いた。

「あの、東京のKさんに紹介されて来たんですが、厄払い、していただけるんですか?」

若奥様らしいその女性は「あぁ、はい、いいですよ」と快く答えて私をカウンターに案内し、「とりあえずこれを書いてください」と祈祷届けのような紙を差し出した。

私はそれに名前や住所や年齢を書き、その後、テーブルの上にあった厄年表を覗き込んだ。

「あれ、私、もしかして厄年じゃない…ですか?」

女性は私の年齢を確認してから、「そう…ですねぇ」と少し戸惑った風に言葉を返し、「でも、厄除けというのはいつやられてもいいんですよ」とにっこり笑った。

 

おかしいなぁー。どこやらの神社で30代は2回くるって大きく書いてあったと思ったのに。

 

それで帰りの電車でググってみたら、やっぱり「女性の厄年は人生で4度ある」らしく、3度目の本厄が数え年で37歳(今年でいえば1979年生まれ)の人、と書いてある。

あれー、神社と寺では違うのか?

 

そこで他のサイトも見てみると、こんなことが書かれてあった。
(http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128583)

「なぜ年齢かといえば、科学的な根拠はありません

厄年を何歳とするかは神社仏閣などによって異なり、一概に厄年は何歳とは断言できません

すべての神社仏閣で共通して厄年とされる年齢というものはありません

 

しかも元日に歳をとるとするか、立春(旧暦の正月)に歳をとるとするかも、神社仏閣によって違うのだという。だから「信じている神社仏閣があるならそこでいわれている厄年がその人の厄年であり、その信じている神社仏閣へ厄払いに行くのが本来の姿でしょう」ということで、結局は自分次第、みたいなオチなのだ。

がーん。

 

まぁしかし…。曹洞宗のお寺でご祈祷していただいたのは初めての経験で、それはとても興味深いものだった。

お経がぎっしり書かれてあるジャバラ構造の教本を、バラバラバラバラバラ…とまるでアコーディオンを奏でるように左右に揺らし、その後、まるでインド人がチャイを入れるかのように、1mほどの高低でザーーーーーーーーーーーッと上から下にジャバラを流すのだ。

ま~ぁそれはそれは見事な手さばきで、思わず見とれてしまうくらい。そしてトントントントンという乾いた音の太鼓が響き、途中で祈祷者の住所と名前と性別が読み上げられて(それもまた独特のイントネーションなので、自分の番になると恥ずかしさの余り吹き出しそうになりましたが…)、最後に一人ずつ前に出て頭に何やらを押当ててもらう、という流れだった。

加えて私だけ「厄除け」のために再度前に呼ばれ、オレンジと黄金色の袈裟に三角形の帽子をかぶった老僧に、厳粛なお祓いをしていただいた。

 

いやぁ。。。これだけしていただけば厄も吹っ飛んだでしょう。

と意気揚々となり、お礼を申し上げて帰路につこうとした時。ご住職がふと心配そうに声をかけてくださった。

「何か、疲れてますか?」

私「…そうですね、疲れてるかもしれません」

「いえ、なんとなく"気”が疲れてるような気がして。エネルギーが弱っているというか…」

私「そうですかぁ」

「何か楽しいことをして、リラックスされた方がいいですよ。すみません、ちょっと余計なことを申し上げましたが…」

私「そうですね。どうもありがとうございます」

 

ということで、すっかり暗くなった田舎道を、やっぱりそうかぁ~と思いながらトボトボ歩いて駅に向かった。

 

(つづく)