おいらん草の思い出と家族旅行
炎天下、我が家の庭に、おいらん草が咲いている。
別名、草夾竹桃とも言う。多年草で丈は1メートルほどだ。
おいらん草とはよく言ったもので、紅紫色の手毬のように咲く姿は、妖艶な花魁を
彷彿とさせる。しかし、おいらん草は悲しい花だ。
35年前の夏、愛車、スバル360の軽自動車で家族4人、富士五湖巡りの旅に出た。
娘13歳、息子9歳だった。
八王子インターから中央高速道に乗る。軽自動車なので、すいすいというわけには
いかない。常に左側車線だ。それでも、1時間ほどで山中湖に到着。
山中湖、河口湖は人出が多く、車を止める場所もない。早々に退散して西湖へ。
宿泊先は西湖のほとりにある民宿だった。
小さな民宿で、お客は私たち家族だけ。
西湖も人っ子一人見当たらない。
水面を渡る風は爽やかで、子供たちは嬉々として水遊びに興じた。
宿の食事は質素だった。宿の夫婦は愛想がない。素朴と言えば聞こえがいいが。
文句たらたらの私と子供たちに、「民宿ってこんなもんさ」と、夫。
いつも、夫のペースで事が運ばれるのだ。
翌日は精進湖から本栖湖へ。
本栖湖は透明度の高い湖だ。冷たい水の中、子供たちは震えながら泳いでいた。
その後は身延山詣り。夫の計画する旅はいつも強行軍だ。
勾配がきつく長い階段を汗びっしょりになって登ると、そこは別世界。
天上に、静かな佇まいの久遠寺があった。晩年の日蓮の隠棲にふさわしい場所だ。
下部温泉で一泊。何故か、ここの宿のことは全く覚えていない。
いい記憶も悪い記憶もないと言うことか。
翌日は山梨市を経て、塩山、大菩薩峠をこえて奥多摩を抜けて帰途につく予定。
360CCの軽自動車、それも4人乗りでの山越えはきつかった。
あえぎあえぎ登る我が家の車を自転車の若者が振り返りながら追い越していった。
息子の悔しがることしきり。夫は苦笑い。私と娘はお腹を抱えて笑った。
やっとの思いで大菩薩を抜けたときは、心底ほっとした。もうすぐ奥多摩だ。
車を止めて休憩した。
そこは丹波川の上流で、塩山と丹波村の境辺りだった。
丁度、車を止めた場所はおいらん淵と言って遊女たちの供養塔が立っていた。
戦国時代、この辺りに武田信玄の隠し金山があった。その金山の閉山にあたり、
秘密を守るために遊女たちを深い谷の上に架けられた舞台の上に集め、酒盛りの
最中、綱を切り桟敷ごと谷底に落として沈めたそうだ。
蒼く深い水底に、遊女たちの哀しみと恨みがこもっているような気がした。
私は供養塔に飴を供えて合掌した。
すると、不思議なことに、今まで薄暗かった辺りに日が射したのである。
私は鳥肌がたった。
庭のおいらん草が咲くたびに、おいらん淵の供養塔と悲しい物語を思い出す。
写真のアップ大変でしたね。
お陰で私も行った気分になりました。
親方の愛車での旅行はいつも大変でしたのよ。
姑が同行するようになりスバルの軽の出番がなくなりましたけれど。
おいらん淵があることさえも知らなかったのですが
それにしても、悲しい物語ですね~
なんだか、私も鳥肌が立って来そうです^^;
今朝、訪問させて頂きました。
お身体は大丈夫でいらっしゃいますか。
むち打ち症は後から出て参りますので、お気を付け下さい。
おいらん草は子供のころ、畑のあちこちに咲いてました。
もちろん、その頃は花魁という言葉は知りません。
ただ、懐かしくてなんとなく庭に植えました。
拙い文章をご覧くだってありがとうございます。
当分、エッセーもどきで参ろうかと思います。
昔話になると存じますが。
年を取ると昔のことばかり思い出すそうですね。
然りです。
昔は良かったと懐古ばかりです。
クロ様の前世は城主でいらしたのですね。
そんな雰囲気がおありです。
暑さ負けなさいませんように。
家族旅行は何時までも記憶にのこるでしょうね
私の仕事が年中無休だったので
経験が無いので解りませんが
きょうは暑くなりそうです
花魁のこの悲しい物語は初めて知りましたが、あの時代は悲惨な物語が沢山あったのでしょうね。
NHKのテレビドラマ「軍師官兵衛」を毎週観ていますが、いつも思うことは、「あの時代に生まれなくて良かった」という思いです。
でも、以前あまり信用できない占い師(生年月日と名前から前世(過去世)の姿を言い当てる)に、「あなたの前世は小さな城の城主だった」と言われたことがあります。城主というのはリップサービスでしょうが、ひょっとして大将のお供をして戦場を駆け回っていたのかも知れません。
きょうも暑くなりそうです。御自愛下さい。