小説とは、『文学の一形式。散文体の文学で、18世紀以後、近代市民社会の生活・道徳・思想を背景に完成した。作者が自由な方法とスタイルで、不特定多数の読者を対象に人間や社会を描く様式。』だそうだ。
これは坪内逍遥が「小説神髄」で「novel」を訳したものだとか。
こんなことを改めて調べてみたりしたのは、何だかとても「小説を読んでいる気分」がしたからだった。
いつか王子駅で
著者:堀江 敏幸
発行:新潮社
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『いつか王子駅で』では何かはっきりとした物語が始まるわけでもなく、終わるわけでもない。
路面電車の走る町の生活が描かれるだけだ。
語り手となる「私」は時給で働く講師で、翻訳などの仕事もしているが、毎日決まった時間に出かけなければならないような勤め人ではない。
収入も不安定。それと引き換えのようにしてすべてのではないが時間を自由にしている。
蔵書の日焼けを避けるために日当たりの良くない部屋を選んで住み、銭湯に通い、居酒屋で飲む。
他人を避けるでもなく、ごく常識的に会話し、自然、馴染みの顔もできる。
昇り竜を背中に刺した印鑑職人の正吉さんは、居酒屋で一緒に珈琲を飲む仲であるし、部屋の大家さん家族はご飯によんでくれる。
その家の一人娘、咲ちゃんの家庭教師をこれも不定期で引き受けているからだ。
咲ちゃんは陸上に夢中な中学生。英語と国語が苦手なのだ。
起伏のある筋があるわけではないのに、全編を通して不思議な速度を感じる。
電車での移動、足での移動、自転車での移動。
そして、思考の流れと文章の流れ。
現実の風景を丹念に追っていたかと思うと、視線は、作中で「私」が読む小説の中に入り込んでいたりする。
競走馬の疾走。短距離走者、咲ちゃんの力いっぱいのスピード。
それがごく自然に途切れることなく積み重なっていく。
もちろん、疾走感という速さや勢いではない。
解説には作品中にも出てくる路面電車の速度とあったが、具体的に想像ができなかった。
その時々で速度も当然変わるのだけれど、平均すると、私が感じていたのはそれよりもゆったりとした速度のような気がする。
「私」の視線が丹念で、きちんと対象をみつめているからかもしれない。
文章もそれに呼応するように長く、最初は戸惑ったくらいだったが、そのうち、どこに着地するかわからないようなその文章が心地よくなった。
著者は『熊の敷石』を書いた方。
風景、事物が著者の視線によって描写されることで、情感が生まれてくるのを感じられて、好きな作品だった。
この『いつか王子駅で』にも同じ雰囲気がある。
作品の中にはいくつかの文学作品が登場するが、そのひとつに『スーホの白い馬』があった。
馬頭琴の由来となった馬の物語だが、懐かしくて、その画まで思い出せるような気がした。
その中できしさんのレビューを紹介されていてね。
私も二つのレビューを併せて拝見させていただき,この本を読みたい本のリストにいれました。
いつ読んでもいいなあ。きしさんのレビュー。
やっぱり私はきしさんファン♪
薄荷さんのレビューへのリンクも貼っていきますね。
薄荷さんのレビュー、拝見してまいりました。なんだかとっても読むのが楽しみになるようなレビューで、とてもすてきでした!
かもめさんから、ぜひ薄荷さんによろしくお伝えくださいませね。こんなふうに思いだしていただけただけでとてもとても嬉しいです。ほんとにありがとうございます。