社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

6 ソ連統計学論争

2016-12-10 21:55:50 | 社会統計学の伝統とその継承
6 ソ連統計学論争

ソ連では戦後,数度,統計学の学問的性格をめぐって論争が繰り広げられた。日本の社会統計学者は、逸早く、その内容と動向を紹介した。基本的文献は、統計研究会訳編『ソヴエトの統計理論(Ⅰ,Ⅱ)』(1952,53年) ,有澤広巳編『統計学の対象と方法-ソヴェト統計学論争の紹介と検討-』(1956年) である。
 
 重要なのは,1954年に開催された「統計学の諸問題に関する科学会議」(ソ連科学アカデミー,中央統計局,高等教育省共同主催)である。この会議は同年3月16日から26日までの11日間にわたって開かれた。全ソからの760人におよぶ研究者(統計学,経済学,数学者,哲学,医学などの諸分野),統計実務家が参加した。報告は文書によるもの20件を含め80件に及んだ。

 この会議に先駆け,2度の統計学論争が『計画経済』『経済学の諸問題』『統計通報』の誌上で繰り広げられた。第1期は1948-9年で,発端となったのは『計画経済』(1948年3月号)に掲載された無署名論文「統計の分野における理論活動を高めよ」である。この論文が契機となって,3つの学術会議が開催された(1949年5月の科学アカデミー経済学研究所で開催された「統計の分野における理論活動の不足とその改善策」,同年8月の農業科学アカデミーでのネムチーノフとルイセンコとの論争 ,同年10月に科学アカデミー経済学研究所で開かれた「経済学の分野における科学=研究活動の欠陥と任務」に関する拡大学術会議)。一連の討論で,統計学を普遍的科学であるとする立場とその形式主義的・数学的偏向に批判的な立場との間で見解の相違が明確になり,討論のなかで統計学の社会的実践活動からの立ち遅れが指摘された。コズロフの論文「統計学におけるブルジョア的客観主義と形式主義に反対して」(『経済学の諸問題』1949年4月)は,この当時のソ連統計学界の主流を代表する見解で,そこではロシアの伝統的統計学の擁護,統計学における形式主義的・数学的偏向に対する批判,社会統計学の「数学化」に対する批判,形式主義的な統計的分析の誤謬が批判された。

 第2期は1950­-54年で,中央統計局の機関誌『統計通報』に掲載された諸論文による議論の応酬である。議論の対象は,統計学の対象と方法をめぐる諸問題であった。その内容は,中央統計局の機関誌「統計通報」創刊号(1950年)掲載の「中央統計局における統計学の理論的基礎に関する討論会の摘要」から知ることができる 。討論では,統計学を普遍的科学であるとする立場からの主張も少なくなかったが,多くの論者は統計学が社会科学であり,普遍的科学とはいえないとするВ.ソーボリ(В.Соболъ)の見解に集約される立場をとった。統計学の対象と方法をどのように定義づけるかが主要な論点であったが,関連して統計学と数学,数理統計学,経済学,他の社会諸科学との関係,大数法則の理解と位置づけ,確率論の評価,統計学の教科書の構成,など多岐にわたった。

 「統計学の諸問題に関する科学会議」は,以上の議論を受けて開催された。会議での議論をとおして,統計学の学問的性格は大きく3つの学説に収斂したとされる。普遍科学方法論説(В.С.ネムチーノフなど),社会科学方法論説(H.K.ドルジーニンなど),実質科学説(T.カズロフ, И.マールイ, B.A.ソーボリなど)である。後者が統計学を実質科学であると定義するのに対し,前二者は統計学を方法科学であるとする立場である。

 これらのうち普遍科学方法論説は,統計学が自然現象,社会現象を問わず対象の量的側面を研究する方法を開発し,豊富化する科学であるとする学説である。社会科学方法論説は,統計学が社会現象の量的側面を究明する方法をその研究対象とする科学であるとする説である。実質科学説は,統計学が社会現象の数量的規則,法則を解明することを任務とする科学であるとする立場である。統計学がどのような学問であるか,科学としての統計学をいかに定義するかについては,従来,数えきれないほどの諸説があるが,それらを大括りするとこの3つの説のどれかに属するという観念が定着したのは,ソ連統計学論争以降ではなかろうか。

 この会議の特徴はまた,科学としての統計学の定義に諸説あることをふまえつつ,あるべき統計学の発展の方向性を実質科学説の立場(コズロフ的見地)から次のように示したことである。それらはオストロヴィチャノフによる会議の下記の総括として知られる。

統計学は, 独立の社会科学である。統計学は, 社会的大量現象の量的側面を, その質的側面と不可分の関係において研究し, 時間と場所の具体的条件のもとで, 社会発展の法則性が量的にどのようにあらわれているかを研究する。統計学は, 社会的生産の量的側面を, 生産力と生産関係の統一において研究し, 社会の文化生活や政治生活の現象を研究する。さらに統計学は, 自然的要因や技術的要因の影響と社会生活の自然的条件におよぼす社会的生産の発展とが, 社会生活の量的な変化におよぼす影響を研究する。統計学の理論的基礎は, 史的唯物論とマルクス・レーニン主義経済学である。これらの科学の原理と法則をよりどころにして, 統計学は, 社会の具体的な大量現象の量的な変化を明るみにだし, その法則性を明らかにする。

 会議では,以上の結論とともに数理的,形式主義的偏向が厳しく批判され,普遍科学方法論説は否定された。論点は,普遍科学方法論説にたつ論客が統計学の対象として社会現象の数量的把握と解析を自然現象のそれらとを同一視する方法論(トゥールとしての統計的方法が社会現象にも自然現象にも等しく適用可能とする考え方)に依拠することに対する批判であり,統計学が社会現象を観察し,数量的に分析する独自の課題を担うことへの無理解に対する批判である。普遍科学方法論説はまた,大数法則が社会現象にも自然現象にも同じように作用するとの理解に立脚していたが,この説が大数法則を導出する数理的手法に過大な期待をかけたことにも批判の矛先が向けられた。

 しかし,その対極でかなりの統計家が大数法則の過小評価,サンプリング理論を無視する討論の空気に抗議したのも事実である」。オストロヴィチャノフ自身も次のように述べた,「統計学は場合によっては,確率論をふくめて数理統計学の方法を首尾よく利用する。数理統計学は,社会経済関係の研究領域においては,応用範囲が限定されている。すなわち,技術的計算法,抽出法,大数法則,確率論といったものだけである」と 。サンプリングの理論の評価を含め,数理統計学の位置づけが明確でないことへの不満を背景に,数理的手法の評価をめぐる諸見解がくすぶっていた。

 現在の時点から振り返ると,討論の主流となった論者の議論の仕方には,マルクス,レーニンの古典からの引用によって自説を権威づける傾向があり,批判の仕方が哲学的命題にもとづいて大上段からなされ,政治色が前面に出ている部分がある。数理派を批判する側にも,理論的裏付けの弱さは否定できなかった。このため,議論が統計学という科学の性格づけの深化,その認識論的位置づけの深化につながらない傾向があった。しかし他方でおさえておかなければならないのは,この論争が始まるまでのソ連の統計界は欧米の数理統計学一色であり,統計学の教科書も数理統計学の内容で占められ,統計学は現実の経済運営からかけ離れた存在であったことである。非現実的で抽象的手法から一歩もでない数理統計学が跋扈している状況をみて,「統計学死滅論」も唱えられたほどである。数理統計学への批判の論調は,そうした統計学の存立基盤にかかわる危機的状況の反映という側面がある 。

 概略,以上の統計学論争の内容とその結論は,日本の統計学界に少なからぬ影響を及ぼした。とくに,蜷川統計学をバックバーンとする日本の社会統計学は,一連の論争に参加した論者の見解を即座に訳出し,議論の中身を検討し,自らの理論と方法の発展の素材とした。以下に掲げる内海庫一郎「ソヴェト統計理論の現段階」(1952年) ,山田耕之介「『統計学の諸問題に関する科学会議』の検討-その1 議事録を中心に-」(1956年) ,広田純「『統計学の諸問題に関する科学会議』の検討-その2 決議を中心に-」 は,代表的な論文である。統計学論争に関しては他に,山田耕之介「標本調査とソヴェト統計論争-最近の統計学書紹介-」(1952年) ,内海庫一郎「統計学の対象と方法に関するソヴェト学界の論争について」(1953年) ,広田純「統計論争によせて」(1955年) ,山田耕之介「ソヴェト経済学における最近の数理形式主義について」(1960年) がある。また,是永純弘「統計的合法則性についての一考察-H.K.ドゥルジーニンの見解について-」(1662年) は論争に参加した重鎮ドルジーニンの見解を統計的合法則性の理解における難点に絞って検討したものである。さらに,濱砂敬郎「現代ソビエト数理統計方法論の一形態-H.K.ドゥルジーニンの統計的方法論について-」(1978年)は論争後,数理統計学に傾斜したドルジーニンの理論展開を伝えている。是永論文、濱砂論文は、論争後のドゥルジーニンの見解の変遷を追ったものである。

 日本の社会統計学者によるソ連統計学論争の受け止め方は,「統計学の諸問題に関する科学会議」の実質科学説的結論に対して懐疑的であり,大橋隆憲など多くの社会統計学者は社会科学方法論説を支持した。疑問視されたのは実質科学説が経済学の内容と統計学のそれとの関係が曖昧である他,社会現象を質的側面と量的側面とにわけ前者を研究の対象とするのが経済学,後者の分析を担うのが統計学とする形式的な主張に終始した点である。

 ソ連統計学論争の内容を紹介しながら,それが日本の社会統計学にどのように受け入れられたかを簡潔明瞭に解説した論稿に伊藤「統計学の学問的性格」がある 。伊藤はこの中で戦後の社会統計学の成果として,推計学の過大評価の批判, ソ連の統計学論争の紹介・検討, 政府統計の批判があったと述べ, とくにソ連統計学論争が与えた影響の大きさを指摘している。伊藤によれば論争を経て,統計学の学問的性格に関わる到達点が推計学批判を含めた普遍科学方法論説批判にあること, ソ連統計学論争の帰結であった「統計学=実質科学説」に批判的姿勢が示されたこと, 社会科学方法論説の立場から構築された自立的社会科学としての統計学が受け入れられたことをあげている。

 伊藤によれば普遍科学方法論説は, 数理統計学をもって統計学の全内容とする立場であるが, これは日本では, 確率標本にもとづいて母集団を推論する数理的方法を骨子とした推計学, それを経済学へ適用した計量経済学に顕著であった。しかし, 数理的手法は諸科学の多くの分野で, 当該科学の分析手法の補助にとどまる。質的多様性, 変化性を特徴とする社会現象の研究では, 数理的手法の有効性は, 狭い。社会科学に即した統計学を否定し過小評価する見解, 統計学を数理統計学で代替する見解が, 批判の対象になるのは自明である。日本の社会統計学は, この限りで, 数理統計学を一貫して批判し, ソ連の統計学論争における普遍科学方法論説批判を支持した。

 ソ連統計学論争の結論として収束した実質科学説の主張は, 統計学の対象が社会的大量現象の量的側面の検討, 社会発展の量的法則性の解明であるとする。この見解に対し, 日本の社会統計学は, 質と量との区別にもとづいて科学の対象を規定できない, 対象の量的側面だけを扱う独立の実質科学はない, また統計学と経済学との区別が曖昧であるとして, これを批判した。

 以上の普遍科学方法論説批判, 実質科学説批判は, その対極で社会科学方法論説の基盤を強め, 後者はその帰結として社会統計学の主流となった。もっとも, 伊藤は主流をなしたこの社会科学方法論説が1970年代半ばには反省を迫られるにいたったとの認識を示した。

 他に留意すべきは大橋隆憲がドルジーニンの見解(この時点での),すなわち社会科学方法論説を支持しながらも,その統計学が対象規定に難点があるとみたことである。大橋の要約によると,ドルジーニン説は次のようである 。(1)統計学は社会科学である。(2)統計学の基礎は史的唯物論と経済学にある。(ここまでは実質科学説と同じである)。両者の違いは,対象の質と量との関係の見方である。ドルジーニンは,理論的・経済学的一般化と具体的統計資料研究の有機的結合=統一を主張する。質と量とを区分することはできない。また,他の科学によって確定された法則の「描写」=記述だけを目的とする独立の科学の存在は認められない。統計学は独立の科学ではなく,方法科学であるというのがドルジーニンの主張である。

 大橋はこのドルジーニンの見解を紹介した後,それに対する批判,そしてドルジーニンの反批判を詳細に検討している。ドルジーニン見解を批判する者の論点は,(1)統計学=社会科学方法論説が普遍科学方法論説の変形にすぎない,(2) 統計学=社会科学方法論説は具体的な社会経済的内容を抹消している,(3) 統計学=社会科学方法論説は統計方法を唯物弁証法に置きかえている。これらに対し,ドルジーニンは逐一反批判をし,大橋はそれを丁寧に解説するとともに,反論している 。

 大橋はさらに,B.Д.チェルメンスキーによるドルジーニン見解批判に,社会科学方法論説に対する指摘に耳を傾ける。すなわち,チェルメンスキーによれば,ドルジーニン説には統計資料の位置付けを過小評価がある。統計結果である統計資料が統計学の中核に据えられるべきである。統計学は,統計資料によって社会現象を研究する学問である。チェルメンスキーは,次のように統計学の特質を列挙している。事実分析への関与,現象の標識の決定と研究,経済的諸現象の型への表現付与などである。大橋はチェルメンスキーのこれらの指摘を評価し,統計学=社会科学方法論説が受け入れなければならない問題提起と指摘している。しかし,だからと言って,方法の成立基盤=適用対象(社会集団)を重視することは,統計学を実質社会科学に昇格させねばならないことを意味しない,と急いで付けくわえているのであるが。

 この統計学論争とは別であるが、わたしは『ロシア統計論史序説―社会統計学・数理統計学・人口調査[女性就業分析]―』(2015年) で,1974-77年に中央統計局の機関誌『統計通報』誌上で行われた統計学に関する討論,またペレストロイカの最中に同誌上で繰り広がられた応用統計学をめぐる統計研究者間の見解の応酬を紹介,検討した。

 1970年代の論争は規模こそ小さかったものの,統計学の学問的性格,体系構成などをめぐる議論がなされた。当然,1950年代の論争とその結論に対するさまざまな言及があった。70年代のこの論争を紹介した日本の文献は他にない。

 この著作ではメレステの議論に端を発した,統計学の対象,体系構成など,この科学の学問的性格についての論議をとりあげ,また数理統計学を統計学体系にどのように位置づけるかに関わる論議を紹介した。

 「討論」の内容は,統計学の体系構成,その対象であり,社会認識の方法としてのその役割であった。「討論」参加者の多くは,統計学の対象が社会的認識の集団であることを承認している。しかし,ここで承認される統計学は,厳密には統計学体系である。政策当事者,研究者は,この統計学体系(あるいは統計の指標体系)を活用して,社会現象と過程を,ひいてはそれ自体,歴史的存在である社会集団を認識するのである。統計学体系に一般統計理論を,あるいは数理統計学をどのように位置づけるのか,両者を社会統計学といかに関連付けるのか,見解はここで分かれる。

 一般統計理論を社会統計学と同じ次元でとらえる論者もいれば,それを体系の核と考え,社会統計学と数理統計学をその核から分岐する分野ととらえる論者もいる。数理統計学は数学の一分野であるとして,そもそも統計学体系に存在場所を認めない論者もいる。こうした見解を主張する論者には,当然ながら,一般統計理論の内容と構成が問われることになる。

 重要なのは,こうした討論が国民経済運営のための統計業務の飛躍的機械化のなかで行われたことである。「討論」そのものが経済生活と統計実践から生じたことまでも否定することはできず,このことは十分に了解されなければならない。

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