蜷川虎三・有田正三・高内俊一・伊藤晃「蜷川虎三経済談義・私の経済論」『経済』1979年1月
『経済』誌による新春の企画。蜷川統計学を確立し,戦後28年間(1950-78年)にわたり京都府知事を務めた蜷川虎三と蜷川ゼミナール(京都大学経済学部)に所属した有田正三(滋賀大学),そして経済政策論,日本経済論で教鞭をとっていた高内俊一(立命館大学)による鼎談である。司会は京都府立総合資料館の伊藤晃が担当している。
話題はこの鼎談が行われた時期の政治経済状況について,また蜷川に中小企業庁初代長官(1948-50年)の経歴があり,知事の実績があったこととの関係で経済政策がどういうものでなければならないかについて,そして最後に蜷川統計学の神髄について,である。
最後の,蜷川統計学について自身が語っているところの要約から始めたい。有田が口火を切って,この頃社会統計学内部に台頭していた統計学の課題を統計業務の発展法則性と階級的役割の歴史的変遷の解明にもとめる見解(大屋理論?)に関してどう考えるかを,蜷川に質問している。有田自身はこの見解に一定の積極的評価を示すとしながらも,基本的に反対と次のように述べている。「行政の手段として,統計が資本主義の発展とともに方法的構造と形態を法則的に展開してきたことはたしかである。しかし同時に,統計が一種の社会認識であることもたしかである。行政の手段とすることによってその認識内容にいろいろなゆがみが生じることもあきらかであり,これを明らかにすることも重要である。しかし統計は社会的現実の数量的認識であり,このようなものとしては社会的認識の手段となりうる。経験科学としての社会科学は経験的材料を欠くことができない。ここに統計を社会科学に結びつけ,社会科学の研究手段として位置づけ,それをめぐる方法論的問題の解決を統計学の課題とすることが,社会的現実の本質にふさわしい。こういう理由によって社会科学の研究方法論として統計学を考えていくべき(である)」と。蜷川はこれに対して,「むしろそうではなく,社会科学のいわゆる研究方法としてまず使われる。それを行政面で活用するということ」と応えている。両者の間には,くい違いがある。有田はそれを,蜷川が統計の方法を,統計調査の方法と統計解析の方法から構成し,これをもって社会科学の研究方法としていること,さらに蜷川が統計の方法が社会科学の方法になるためには記述にとどまらないで,解析にまで進まなければならないと理解していることにもとめているようである。議論のやりとりが短くややわかりにくい。
蜷川はこの後,自らの仕事のポイントが,統計とは何か,集団とは何かから始まったこと,そこから次第に集団の測り方と測ったものの使い方がわかってきたと述懐している(集団の理論)。集団は,仮説ではない。集団であるか否かは,客観的に存在する社会から決まってくる。この集団を解析する数理的方法が十分進んでいない。どういう仕方でこれらを統合するか,が解決されなければならない。「推計学」の推奨者が行っていることは,ただの数学である。母集団とサンプルの間は確率論で結んだけれど,その確率論が母集団と社会集団を結ぶかというと,その根拠はない。彼らの弱点はここにある。関連して数理統計学に関して,社会科学の研究に役に立たない,数理統計学者は数学にとりくんでいるから楽しいが,それを社会科学の方にもってきたら少しも面白みがないと感じているはず,と指摘している。
蜷川はさらに,(政策)目的と(政策)手段とのあいだには調査がある,その調査に統計の方法が必要になる,と現実的な意見を示している。
以上の統計学の話に先立って,蜷川はインフレ経済容認で進められてきた日本経済の行きつく先が,恐慌であり,経済の軍事化(戦争経済)であると述べている。当時表面化していた「有事立法」はその徴候であると診断。「戦争待望論」は,財界の本音とズバリと言い当てている。また中小企業は形式的に規模だけでみるのではなく,大資本の圧力に呻吟している企業を中小企業というように本質的な見方をしなければだめだ,と表明している。中小企業庁長官の頃は役人にそのことを繰り返し教育したらしい。中小企業対策(経済政策)には定跡があって,第一に行政目的をしっかりたてること,第二に中小企業の実体をよく調査することである。どのように中小企業を守るかは,行政目的と調査が教えてくれる。また中小企業を守るには,政府に期待していてもだめで,自分たちで組織をつくって守ることを実践してきたという。団結こそ政策遂行の道というわけである。
他に「福祉」に関して,それを独立に考えるのではなく,弱いものが暮らせる条件をつくっていくというようにしなければならない,と言う。蜷川はそれを,勤労者ならば勤労者の背中に,中小企業者ならば中小企業者の背中にぴったり福祉をくっつけなければならない,と語っている。
政策の優先順位に関しては,それを云々する前に,組織づくりを進めたという。優先順位は,暮らしの組織が基準になる。そして自治体の基礎は,市町村であると言い続けてきたと回顧している。市町村長は,地域,住民のなかにある当面の課題,長期的課題を総合して政策をたてることが大事である。政策は現実的で,合理的なものでなければならない。
『経済』誌による新春の企画。蜷川統計学を確立し,戦後28年間(1950-78年)にわたり京都府知事を務めた蜷川虎三と蜷川ゼミナール(京都大学経済学部)に所属した有田正三(滋賀大学),そして経済政策論,日本経済論で教鞭をとっていた高内俊一(立命館大学)による鼎談である。司会は京都府立総合資料館の伊藤晃が担当している。
話題はこの鼎談が行われた時期の政治経済状況について,また蜷川に中小企業庁初代長官(1948-50年)の経歴があり,知事の実績があったこととの関係で経済政策がどういうものでなければならないかについて,そして最後に蜷川統計学の神髄について,である。
最後の,蜷川統計学について自身が語っているところの要約から始めたい。有田が口火を切って,この頃社会統計学内部に台頭していた統計学の課題を統計業務の発展法則性と階級的役割の歴史的変遷の解明にもとめる見解(大屋理論?)に関してどう考えるかを,蜷川に質問している。有田自身はこの見解に一定の積極的評価を示すとしながらも,基本的に反対と次のように述べている。「行政の手段として,統計が資本主義の発展とともに方法的構造と形態を法則的に展開してきたことはたしかである。しかし同時に,統計が一種の社会認識であることもたしかである。行政の手段とすることによってその認識内容にいろいろなゆがみが生じることもあきらかであり,これを明らかにすることも重要である。しかし統計は社会的現実の数量的認識であり,このようなものとしては社会的認識の手段となりうる。経験科学としての社会科学は経験的材料を欠くことができない。ここに統計を社会科学に結びつけ,社会科学の研究手段として位置づけ,それをめぐる方法論的問題の解決を統計学の課題とすることが,社会的現実の本質にふさわしい。こういう理由によって社会科学の研究方法論として統計学を考えていくべき(である)」と。蜷川はこれに対して,「むしろそうではなく,社会科学のいわゆる研究方法としてまず使われる。それを行政面で活用するということ」と応えている。両者の間には,くい違いがある。有田はそれを,蜷川が統計の方法を,統計調査の方法と統計解析の方法から構成し,これをもって社会科学の研究方法としていること,さらに蜷川が統計の方法が社会科学の方法になるためには記述にとどまらないで,解析にまで進まなければならないと理解していることにもとめているようである。議論のやりとりが短くややわかりにくい。
蜷川はこの後,自らの仕事のポイントが,統計とは何か,集団とは何かから始まったこと,そこから次第に集団の測り方と測ったものの使い方がわかってきたと述懐している(集団の理論)。集団は,仮説ではない。集団であるか否かは,客観的に存在する社会から決まってくる。この集団を解析する数理的方法が十分進んでいない。どういう仕方でこれらを統合するか,が解決されなければならない。「推計学」の推奨者が行っていることは,ただの数学である。母集団とサンプルの間は確率論で結んだけれど,その確率論が母集団と社会集団を結ぶかというと,その根拠はない。彼らの弱点はここにある。関連して数理統計学に関して,社会科学の研究に役に立たない,数理統計学者は数学にとりくんでいるから楽しいが,それを社会科学の方にもってきたら少しも面白みがないと感じているはず,と指摘している。
蜷川はさらに,(政策)目的と(政策)手段とのあいだには調査がある,その調査に統計の方法が必要になる,と現実的な意見を示している。
以上の統計学の話に先立って,蜷川はインフレ経済容認で進められてきた日本経済の行きつく先が,恐慌であり,経済の軍事化(戦争経済)であると述べている。当時表面化していた「有事立法」はその徴候であると診断。「戦争待望論」は,財界の本音とズバリと言い当てている。また中小企業は形式的に規模だけでみるのではなく,大資本の圧力に呻吟している企業を中小企業というように本質的な見方をしなければだめだ,と表明している。中小企業庁長官の頃は役人にそのことを繰り返し教育したらしい。中小企業対策(経済政策)には定跡があって,第一に行政目的をしっかりたてること,第二に中小企業の実体をよく調査することである。どのように中小企業を守るかは,行政目的と調査が教えてくれる。また中小企業を守るには,政府に期待していてもだめで,自分たちで組織をつくって守ることを実践してきたという。団結こそ政策遂行の道というわけである。
他に「福祉」に関して,それを独立に考えるのではなく,弱いものが暮らせる条件をつくっていくというようにしなければならない,と言う。蜷川はそれを,勤労者ならば勤労者の背中に,中小企業者ならば中小企業者の背中にぴったり福祉をくっつけなければならない,と語っている。
政策の優先順位に関しては,それを云々する前に,組織づくりを進めたという。優先順位は,暮らしの組織が基準になる。そして自治体の基礎は,市町村であると言い続けてきたと回顧している。市町村長は,地域,住民のなかにある当面の課題,長期的課題を総合して政策をたてることが大事である。政策は現実的で,合理的なものでなければならない。
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