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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

広田純「『統計学の諸問題に関する科学会議』の検討-その2 決議を中心に-」有澤広巳編『統計学の対象と方法-ソヴェト統計学論争の紹介と検討-』日本評論新社, 1956年

2016-10-17 21:21:41 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
広田純「『統計学の諸問題に関する科学会議』の検討-その2 決議を中心に-」有澤広巳編『統計学の対象と方法-ソヴェト統計学論争の紹介と検討-』日本評論新社, 1956年

 筆者は本稿で, 山田耕之介論文「『統計学の諸問題に関する科学会議』の検討-その1 議事録を中心に-」(有澤広巳編『統計学の対象と方法-ソヴェト統計学論争の紹介と検討-』)を受け, ソヴェト統計学論争の「決議」を資料に, その意義と問題点を洗い出している。

 決議には次のような統計学の規定があった。筆者はまず, この規定が問題である, とする。質と量の区別にもとづいて科学の対象を規定できない, 対象の量的側面だけを扱う実体科学は存在しない。それでは, 学問としての統計学の対象は何であるのか。

 普遍科学方法論説, すなわち数理派に属する研究者は, その範囲に自然現象と社会現象を含める。その根拠は, 具体的な現実では, 社会現象と自然現象とが相互作用していること, そのどちらも大量的現象, 大量的過程が存在し, そこに大数法則が適用できることにもとめる。しかし, 筆者はこの説明に, 疑問を投げかける。社会現象と自然現象との相互作用の存在は, 両者を区別する必要性を否定するものではない, 大量的現象, 大量的過程がすべて大数法則の作用する現象, 過程とは限らないからである。さらにもっと重要な問題点は, 統計ないし統計調査の対象あるいは統計による研究の対象との問題が, あたかも科学としての統計学の対象の問題と全く同じ問題であるかのように混同していることである。両者は, 全く別個の問題である。

 筆者は次に統計ないし統計学が科学的認識にとってどういう意義をもっているか, と問うている。ここでは, 統計学が社会認識の独自の科学的方法をもつこと, その意味での認識論的意義をもつこと, 統計の批判的利用の見地から, それぞれの統計がなにを対象として, どのような機関によって作成され, どんな方法で調査されたのか, またその調査結果はいかにまとめられたのか, すなわち統計資料そのものの吟味の必要性が強調されている。つまり統計の認識論的意義を云々するには, 歴史的・社会的な材料としての統計そのものの特質が明らかにされなければならない。

 統計学の方法は, どのように議論されるべきなのだろうか。この問題について, 筆者は統計方法の理論的基礎に大数法則をもとめる見解を批判し, 同時に普遍科学方法論説あるいは社会科学方法論説の立場からでは, 歴史的に作成され, また今後とも作成されるであろう各種の特殊な統計方法をあますところなく説明することはできないとして, これらの立場を退ける。「統計方法は科学としての統計学の方法ではなく, むしろ科学的に研究されるべき統計学の内容, あるいはその対象の一部ということ」になる(p.108)。

 最後に, 筆者は数理統計学の利用について, 会議でどのような議論があったかに言及している。会議では, 一方で数理的, 形式主義的偏向が厳しく批判されたが, かなりの統計家が大数法則の過小評価, サンプリング理論の無視にたいして抗議する見解があったようである。オストロヴィチャノフも次のように述べていた, 「統計学は場合によっては, 確率論をふくめて数理統計学の方法を首尾よく利用する。数理統計学は, 社会経済関係の研究領域においては, 応用範囲が限定されている。すなわち, 技術的計算法, 抽出法, 大数法則, 確率論といったものだけである」と。筆者はこの紹介をしながら, なぜ技術的計算法, 抽出法, 大数法則, 確率論といった項目がとりあげられたのか, またそれらを統計学が利用するというのはどういう意味なのかが, このオストロヴィチャノフの文言からはよくわからないと書いている(p.110)。サンプリングの理論の評価を含め, 数理統計学の位置づけがすっきりしないまま, 討論の過程でくすぶっていたわけである。

 文中, 単一の国民経済計算制度と大量的統計観察の方法の研究, および統計資料の分析方法の究明を統計学の課題とした中央統計局のチェルメンスキーの見解に親近性を表明している箇所が印象に残った(p.93)。

山田耕之介「『統計学の諸問題に関する科学会議』の検討-その1 議事録を中心に-」有澤広巳編『統計学の対象と方法-ソヴェト統計学論争の紹介と検討-』日本評論新社, 1956年

2016-10-17 21:19:32 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山田耕之介「『統計学の諸問題に関する科学会議』の検討-その1 議事録を中心に-」有澤広巳編『統計学の対象と方法-ソヴェト統計学論争の紹介と検討-』日本評論新社, 1956年

 旧ソ連で1950年前半に展開された統計学の学問的性格をめぐる統計学論争を, その議事録にそくして要約, 検討した論文。

「統計学の諸問題に関する科学会議」は論争を総括し, 統計学の対象と方法を明確に定義するため, 1954年3月16日から26日までの11日間にわたって開催された。総勢760人の研究者, 実務家が参加した。報告は文書で意見をよせたものを含め80人で, その要旨は, 本書の末尾に一括して掲載されている。

 科学アカデミーのオストロヴィチャノフは, 多くの意見をかなり強引ながら, 3つの見解にまとめた。統計学を普遍科学方法論とする説(統計学は, 社会や自然の現象を研究する科学である), 社会科学方法論とする説(統計学は, 方法論的な社会科学であって, あれこれの社会現象を特徴づけている数字の資料をあつめる基礎になっている原理と, その資料を加工する方法についての学問である), 実質科学とする説(統計学は, おもに社会的生産関係, すなわち経済を研究する社会科学である)がそれらである。筆者はこの区分がたぶんに便宜的で, とくに社会科学方法論説と実質科学説の境は曖昧であると述べている。

 普遍科学方法論説を支持した論者には, ピサレフ, ヤストレムスキー, ルコムスキー, シウシェリン, メンデリソン, ケドロフ, ネムチーノフ, ウルラニス, マガリルなどである。社会科学方法論説をとった論者はドルジーニン, テネンバウム, ファルブシュタインなどである。実質科学説に属した論者は, コズロフ, マールイ, ソーボリなどである。

 討論の結果, この会議が最終的に採択した統計学の定義は, 次のような内容で, それは上記の諸見解のうち, 実質科学説的な性格のコズロフ的見地に依拠したものであった。すなわち, 統計学は, 独立の社会科学である。統計学は, 社会的大量現象の量的側面を, その質的側面と不可分の関係において研究し, 時間と場所の具体的条件のもとで, 社会発展の法則性が量的にどのようにあらわれているかを研究する。統計学は, 社会的生産の量的側面を, 生産力と生産関係の統一において研究し, 社会の文化生活や政治生活の現象を研究する。さらに統計学は, 自然的要因や技術的要因の影響と社会生活の自然的条件におよぼす社会的生産の発展とが, 社会生活の量的な変化におよぼす影響を研究する。統計学の理論的基礎は, 史的唯物論とマルクス・レーニン主義経済学である。これらの科学の原理と法則をよりどころにして, 統計学は, 社会の具体的な大量現象の量的な変化を明るみにだし, その法則性を明らかにする。

 決議が採択されたと言っても, 会議の性格を考えれば, およその結論は最初から予定されていた。筆者の紹介を読むと, 第三の実質科学的立場からの第一の立場, 第二の立場への批判があいついだようである。
主要論点は,統計学の対象と方法をどのように定義づけるかであった。関連して統計学と数学, 数理統計学, 経済学, 他の社会諸科学との関係, 大数法則の理解と位置づけ, 確率論の評価, 統計学の教科書の構成, など多岐にわたった。

 筆者はこの議事録・決議を翻訳した当事者であるので, 限られたスペースで, この会議の様子, 問題点を手際よく整理している。結論として, 既述のように, オストロヴィチャノフの整理がやや強引であること, その彼が示した統計学の定義が実質科学的立場からなされ, 普遍科学方法論説を否定したが, その否定によって数理経済学の影響が完全に消え去ったわけでなかったこと, オストロヴィチャノフによる第二の社会科学方法論説への批判の根拠が脆弱であること, などが指摘されている。また筆者は, 統計学の対象と方法を論ずるには, 統計と統計科学との区別を明確にすべきであるとの, プロシコの見解に共感を寄せている。

山田耕之介「標本調査とソヴェト統計論争-最近の統計学書紹介-」『金融経済』14号, 1952年

2016-10-17 21:18:32 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山田耕之介「標本調査とソヴェト統計論争-最近の統計学書紹介-」『金融経済』14号, 1952年

 この論稿が発表された時期, 日本の統計学は現在とはまた違った意味で, にぎわっていた。種々の国民生活と結びついた政府統計, 例えば物価・生計統計, 教育文化統計などが定着し, また標本調査が徐々に採用され, 学界では推計学をめぐる論争がひとしきり行われた。またソ連の統計学界で計学論争が展開され, それがただちにわが国に紹介され, 日本の社会統計学に決定的な影響を与えた。これらの状況を反映して, 一連の統計学書が数多く出版された。本稿はそれらのなかから, 統計研究会編『標本調査ガイドブック』, 同研究会訳『ソヴェトの統計理論』の書評を兼ねつつ, 現在進行形でこれらの議論のなかにあった統計学の本質的問題を喚起したものである。

筆者がこの2冊をとりあげたのは, 前者が日本における標本調査の当時の水準の全貌を示すものだからであり, 後者が当時あまりよくわからなかった社会主義国の統計がどのようなものかを伝え, かつこの頃, 隆盛をほこっていた統計学や推計学の社会的役割の解明に寄与するとの理解があったからである。論旨は当時の統計学の流行を受け止め(推計学, 標本調査, 政府統計の定着), そこにまとわりついている虚飾をソ連統計学論争の成果の援用によって取り除くことにあった, とみてよいであろう。

筆者はまず統計調査が経済理論から遊離してはならない,と主張している。経済理論から遊離した調査として, 筆者は「労働力調査」における「完全失業者」の概念をしている。「完全失業者」の定義(その内容は, 長くなるので, ここでは触れない)が, 経済理論と結びついていないことは「労働力調査」に関心をもつものであれば, 今では誰もが知っていることであるが, それらの定義はいまも変わらず使われ続けている。

次に強調されているのは, グループ分けの意義である。グループ分けは, 社会経済現象およびその過程を反映した膨大な統計資料がそれ自体では渾然一体としたデータの塊にすぎないので, そこにデータの発展形態を映し出す指標で特徴的な集団, 亜集団に分けることである。政府統計ではこのグループ分けが不十分として, 筆者は例として, 「毎月勤労統計調査」をあげている。この統計における給与額は通常の労働者のものの給与のほかに, 重役や一般理事者のそれも含まれている。ソ連統計学論争では, オストロヴィチャノフのネムチーノフ批判(ネムチーノフが農産物分類を統計的=生物学的方法による指標で行ったことへの批判)が, この種のグループ分け問題とかかわっていたようである。

 筆者は最後に数学的方法の利用について言及している。統計調査や分析に, どの研究法を適応するかは研究対象の特性に依存する。研究対象に数学的命題に適した条件が存在するならば, その利用は十分にありうる。ソ連統計学論争でも, コズロフはそう述べているとして筆者はそれを引用している, 「社会経済統計の『数学化』の企ては, 統計から数学的操作を全然追い出す試みと同様に不合理である」と。統計研究の形式主義的―数学的偏向の背後には, 観念論的偏向が存在し, これらの偏向は社会経済過程および現象の科学的分析に誤った帰結をもたらす。政府統計の家計調査などの標本調査にそのような傾向があることを筆者は懸念を表明している。

 本稿で筆者が指摘した統計事情は, それが書かれた1950年頃とほとんど変わっていない。継続して問題点を指摘する論者もいなくなっている。既成事実の積み重ねは, 研究者の批判的姿勢を断念させてしまったかのようである。

内海庫一郎「統計学の対象と方法に関するソヴェト学界の論争について」『経済評論』1953年

2016-10-17 21:17:05 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
内海庫一郎「統計学の対象と方法に関するソヴェト学界の論争について」『経済評論』1953年

筆者は旧ソ連で1950年前後に展開されたソヴェト学界の論争について,多くの論稿を表し,この論争を批判的に吸収した代表的統計学者である。執筆された論稿の主なものをあげただけでも次のとおりである。「ソヴェト統計学論争」「オストロヴィチャノフ報告とわれわれの評価」(『科学方法論の一般規定からみた社会科学方法論の基本的諸問題』1962年),「ソヴェト統計理論の現段階」(経済統計研究会訳『ソヴェトの統計理論』Ⅱ補論,1952年),「ソ連統計の動向」(『統計』1956年8月号),「ソヴェト統計学論争」(大阪市立大学経済研究所編『経済学辞典』岩波書店,1965年),そして本稿である。それぞれの論稿の内容は,書かれた時期,掲載場所によって,微妙に異なる。本稿は1952年の『経済学の諸問題』誌上で,統計学の対象と方法に関する論文がかなり自由に発表され,論争の内容が詳細にわかるにいたった時点で書かれたものである。

 最初に終戦直後におけるソ連の統計学の発展が要約されている。ここでは,コズロフ論文および無署名論文が『計画経済』誌上で,ソ連における統計学の立ち遅れとその原因が「形式主義的―数学的偏向」にあるとして,ネムチーノフ『農業統計とその一般理論的基礎』,クレイニンの統計学教科書を直接の対象に批判を加えたことが紹介されている。続いてネムチーノフ=ルイセンコ論争と48年の討論,1950年2月に中央統計局の実務家たちによって開催された「統計学の理論的基礎に関する会議」と1954年3月に科学アカデミー,中央統計局,最高教育省の共同主催による「統計学の諸問題に関する科学会議」における論争を要約している。

筆者はとくにチェルメンスキーの次の論点整理を評価している。「統計理論の主要問題は(1)統計科学の基礎はなんであるか,(2)統計学の対象は何であるか,(3)統計学の方法は何であるかの3つである。・・・統計学は社会科学であり,党派性をもつ科学であり,階級科学である。このことは統計学の科学的基礎が大数法則ではありえないことを意味するものであり,その基礎は弁証法的,史的唯物論とマルクス経済学である。多数の統計教科書の著者たちは,確率論を統計学の基礎とみる点で誤っている。確率論は数学であって,統計学ではない。」「統計学は社会科学であるから市民的統計学者が主張し,若干のソヴェト統計学者もそう考えているように,自然および社会の大量現象がその研究対象であるとするのは誤りである。統計学が経済学と異なる点は,経済学が社会現象の理論的分析を行うものであり,統計学は種々の国々の社会および経済現象の個々の事実や類型の研究を含めて経済諸関係の特定の具体的分析を任務とする点にある。統計的方法の基礎は社会および経済現象の具体的分析,統計的観察に先行する分析である。この分析はグループ分けの基礎でもあり,特定の問題の統計的研究のエッセンスである」。52年論争の主要論点はここに示されているが,新たな論争では数理派批判のあとにどのような統計学の教科書を作成するか,また48年論争の打撃から立ち直った修正数理派の巻き返しにどうこたえるか
がポイントとなった。

 52年論争の紹介で,筆者はコズロフ的見解,チェルメンスキー的見解,ドルジーニン的見解を個々にとりあげて詳説している。ただし,筆者はそれらのどれらにも賛意を示していない。

コズロフは統計学が方法論的科学と主張し,原則として歴史的に具体的な社会現象および過程の水準(規模)と数字的相互関係に関するもの,これらの水準と数字的相互関係の変化にあらわれる社会発展の合法則性の解明を「独特な研究対象」とする。統計学の理論的基礎は,マルクス・レーニン主義の学説で,その方法は唯物弁証法である。ネムチーノフはコズロフを「統計通報」派とみなすが,「統計通報」派は彼をその実体科学の内容の点でも,方法論の点でも受け入れない。

 「統計通報」派の代表的論客であるチェルメンスキーの見解はコズロフのそれに近いが,筆者はむしろ両者の相違に着目している。チェルメンスキーはコズロフを2点で批判する。第一はコズロフが「単一国民経済計算制度」の「統計的組織の諸問題」の究明をおろそかにしていること,第二は統計学の対象を社会現象の数量的変化の面に限定し,質的変化の数字的表現を無視していることである。

ドルジーニンは,かつて数理派に属していたが,この当時は数理統計学の全面的否定論者である。ドルジーニンにあっては,統計学は社会科学であり,その基礎は史的唯物論とマルクス経済学であり,これらに立脚して数理統計学批判の立場を非妥協的に貫こうとしている。

 筆者は続いて,ホルンジー,ピサレフ,ネムチーノフ,ラビノビッチの「修正数理統計学」派の論客の見解を検討している。彼らは統計学の対象を自然現象と社会現象に共通の大量現象(非決定論的現象)と考える。大量現象を研究する統計学は,その特殊な操作と方法を援けとして,対象の合法則性を解明する(実体科学説)。ネムチーノフはかつて統計学の基礎に大数法則をおいていたが,48年論争の後に自己批判した。しかし,ここでは,大数法則がグループ分け以後の段階で有効であると述べた。方法の問題に関しては,統計学の方法は特殊な課題の解決に適用された唯物弁証法であるとされ,具体的にはグループ分けと大量(数)観察であった。ネムチーノフはこの点に関して,「概して統計は補助手段としての数学的方法を広汎に利用しないですますことはできない。しかし統計科学にはそれだけに固有の独特な一つの方法がある。統計的方法は大量観察,数値計算,範疇計算,一般化指標などの研究操作の組み合わせである」「統計的方法における指導的研究操作は範疇計算の操作である」と述べた。

 筆者は「むすび」で次のように書く,「ソ同盟の統計学が,その最も数学的な翼をふくめて,確率論基調の数理統計学から離脱したこと。そのことは1952年論争の積極的意義の一つである。しかし,その離脱過程はいまだ過渡期の状態にあり,数理派的思考基地はいぜんとして強固である場合がおおく,他方において非数理的な翼の側は社会統計学派的諸見解の裡を彷徨しつつあるようにみえる。彼らのこの系統の統計学にたいする学史的知識は十分でなく,また,それらと自己をいかに区別すべきかをしらないもののようである。これらがこの論争の消極的意義の一つである。また,彼らの「作業仮説」たる弁証法的,史的唯物論の方法は,近頃諸多の学域において多くの具体的有効性を発揮しつつあるときくが,われわれの論争では範疇計算=グループ分けの導入以外にはいまのところ見るべき成果をあげているとも思えぬ。その有効性の発揮は,この論争の将来の問題であろう」。(p.100)

内海庫一郎「ソヴェト統計理論の現段階」統計研究会訳編『ソヴェトの統計理論』農林統計協会, 1952年

2016-10-17 21:15:41 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
内海庫一郎「ソヴェト統計理論の現段階」統計研究会訳編『ソヴェトの統計理論』農林統計協会, 1952年

 旧ソ連の統計学論争は二期に分かれて展開され, 第一期は, 1948-9年の論争で, 切掛けは, 『計画経済』1948年第3号に掲載された無署名論文「統計の分野における理論活動を高めよ」であった。この論文が契機となって, 3つの学術会議が開催された(49年5月の科学アカデミー経済学研究所で開催された「統計の分野における理論活動の不足とその改善策」をテーマとする拡大学術会議, 8月の農業科学アカデミーでのネムチーノフとルイセンコの論争が行われた会議, 10月に科学アカデミー経済学研究所で開かれた「経済学の分野における科学=研究活動の欠陥と任務」に関する拡大学術会議)。第二期の論争は1950年から53年にかけ, 統計学の教科書作成に向けて, 統計学の対象と課題にしぼった議論が繰り広げられ, 1954年3月に開催された「統計学の諸問題に関する科学会議」(ソ連科学アカデミー, 中央統計局, 高等教育省主催)で締めくくられた。本稿は, 上記のうち第一期の論争を紹介したものである。1952年に出版された統計研究会訳編『ソヴェトの統計理論』に補論として掲載されたが, 執筆されたのは恐らくその前年で, 当時はソ連の統計事情が不分明だった中, いわば手探りで, この論稿が作成された。以下は, その要約である。

 ソ連統計学論争については, それに先立つ, とくに戦前の統計界の事情を知っておく必要がある。ひとことで言えば, ソ連では論争にいたるまで英米の数理統計学が支配的であった。ボヤルスキー, ヤストレムスキー, ロマノフスキーを代表とする統計学者がその担い手であり, 多くの教科書は数理統計学のスタイルで構成されていた。筆者は, そうした事情を著作, 論文の一覧によって示している。論争はこうした事情が, 計画経済の運営に支障をきたし, 実践活動への貢献がないという問題提起で始まった。

 筆者は論争の主要論点を, 論文「統計の分野における理論活動を高めよ」にそくして, 列挙しているが, それらは要するにソ連統計学の立ち遅れの確認, その原因究明の必要性(形式主義的=数学的偏向), マルクス・レーニンの古典に学ぶことの推奨, 旧ロシア統計および統計学の再評価であった。

 論点を紹介した後, 筆者はこの国の「形式主義的=数学的偏向」の変遷をたどり, ソ連統計学界の迷走ぶりを回顧している。すなわち, 論争開始前, 英米数理統計学の傾向をもっていたこの国の統計学界には当初「統計死滅論」が登場した。この説は簡単に言えば, 英米数理統計学はもはや「社会主義国」の計画経済のもとでは不要で, 経済計算さえあればよいというものである。しかし, 反動はすぐに訪れ, ボヤルスキーの教科書にみられたような英米数理統計学一色の古典的数理統計学が崇拝された時期があった。そして, 論争直前の時期にハリーニンの統計学説にたちかえり, 取り入れるべきとしながら, イギリスの数理統計学による最新の成果に依拠しなければならないとする主張が前面に出てきた。その代表的業績は, ネムチーノフ『農業統計とその一般理論的基礎』であった。この時期の数理派の特徴は, 一方では統計の経済学からの遊離や統計学の実践からの遊離を戒め, 他方では大数法則を含む近代数理統計学の強力な武器を使うべきであるというもので, これらを統計学の一般理論のなかに固守しようとした点にある。

筆者は論争にいたる前の統計学界の事情をかなり細かくトレースした後, 論争の経過の紹介に入る。紹介は5月会議, ルイセンコによるネムチーノフ批判, 10月会議という順でなされている。5月会議の主要論点は, (1)解決を要する統計学の課題, (2)統計学の立ち遅れの原因究明, (3)数学の役割の問題, (4)ブルジョア統計学批判の問題であった。この段階では, 数理派とこれに反対する論者による主張は平行線であった。論争の第二段階では, いわゆるルイセンコ論争へのネムチーノフの登場により, 経済統計の分野とは一線を画した生物学の分野で行われた。ネムチーノフはここで実質科学に対する統計学の優位の主張を展開したが, ルイセンコはこれを偶然論哲学として反駁した。10月会議は「経済学の分野における科学研究活動の欠陥と任務」というテーマで議論され, オストロヴィチャノフが統計学の課題について再び問題提起し, ネムチーノフが自らの数理的偏向を自己批判した。しかし, オストロヴィチャノフの結語では, ネムチーノフの自己批判はなお不徹底であるとされた。

 最後に筆者は, 1949年の『経済学の諸問題』4号に掲載されたコズロフの「統計学におけるブルジョア客観主義と形式主義に反対して」と題する論文をパラフレーズしている。この論文では長期にわたり断片的に論じられてきた論争の中心問題, すなわち形式主義的=数学的偏向に対する批判が, 論理的かつ体系的にまとめられている。論文の特徴は統計学におけるコスモポリティズム批判の課題を押し出していること, 形式主義的=数学的偏向の傾向を数理派の代表的論者の著書からの豊富な引用でうらづけ, それらにマルクス, レーニンの古典の文言を対峙させていることである。

 筆者はこの論争を評価し, 次のように述べている。この論争で解決に近づいたのは, 「形式主義的=数学的偏向」の批判だけである。それすらも誤りを指摘しただけで, それに対抗する建設的理論の構築は無かった。また, ソ連の計画経済と統計との関係, ソ連の経済統計と統計理論の関係についてこの論争から得られたものは, はなはだ貧弱であった。しかし, この論争を国際的な統計学の環境と比較すると, 数理統計学一辺倒の英米派統計学からの一歩前進であると言える。それだけのことであればドイツ社会統計学のフラスケムパーなどが既に「数論理と事物論理の並行主義」という形で提起している。最後に, 確率論, 数理的方法の問題点の指摘は, この国でもすでにデボーリンなどによって完成された形で定式化されていたことを知るべきで, この点に鑑みると上記の指摘は目新しいものではなく, その限りではこの論争が到達した結論は以前から確立されていた思想が統計学という領域に適用されたとみることができる, との指摘がなされている。