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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

山口秋義「統計報告制度の試み(1919-21年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

2016-10-17 21:52:27 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山口秋義「統計報告制度の試み(1919-21年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

 旧ソ連の時代から,この国の統計制度の特徴は,報告制度にあった。筆者は本稿で,報告制度が何を目指していたのか,初期にどのような状況にあったのかを明らかにしている。筆者が書く結論は次のようである。

(1)報告制度は,全国の工業企業を対象とした調査を毎月行うことを目的とした。しかし,工場管理部から提出された調査票の集計作業の量は,県統計局の力量を上回っていたために,集計作業が進まず,1921年にはその継続を断念した。定期報告にもとづく統計作成は,失敗した。

(2)多くの統計家は統計問題評議会が統計組織における最高権力機関であるべきと考えていたが,この評議会の実際上の活動は形骸化し,それに代わって中央統計局参与会に統計組織の権力が集中し,後の統計組織の政治への従属の端緒となった。

(3)集中型統計組織の機能は,工業現況統計の作成経路が調査統計としての国家統計組織の情報収集経路から,最高国民経済会議各総管理局に業務統計として収集されていた情報を中央統計局が入手する経路へと転換したことにみられるように,この時期,定着しなかった。

 筆者は,以上の結論を歴史的資料にあたって,明らかにしている。工業現況統計部部長ドゥボヴィコフ報告によれば,中央統計局が工業現況統計に関する資料を得る経路は2とおりある。一つは,最高国民経済会議の諸最高指導機関と諸総管理局から,業務記録として収集された情報を得る経路であり,もう一つは県統計局が各工業企業から聞き取り調査によって得た情報を集計し,中央統計局に提出する経路である。ドゥボヴィコフはこのうち,前者は実際上困難なので,一定の不安はあったが後者の経路が有効とした。ドゥボヴィコフ報告に対しては種々議論があったようであり,とくに中央統計局と最高国民経済会議の諸最高指導機関と諸総管理局との関係をめぐって議論が交わされた。

 中央統計局付属第一回全露統計協議会(1918年10月)の決議を受け,中央統計局参与会が継続審議にあたった。1918年11月21日に開催された参与会では,法令草案「国家工業現況統計について」がドゥボヴィコフによって提示され,議論の末(中央統計局,最高国民経済会議,労働人民委員部の関係,工業現況統計作成に関わる組織編制など),承認された。さらに同法案は,人民委員会会議でレーニンの署名のもとに,公布の運びとなった。同法令は,中央統計局による調査統計としての国家統計活動に関する諸規則を示したものである(調査単位,調査周期,情報伝達経路,調査票[A,Б])。

 中央統計局工業現況統計部は,この法令のもとに活動を開始した。しかし,そこには多くの困難が待ち受けていた。工業企業の工場管理部から県統計局への報告提出が不完全であっただけでなく,県統計局の人員不足により集計作業が遅滞した。当初,毎月の報告にもとづいて統計作成が予定されていたが不可能であることがわかり,半年ごとの集計へと転換された。調査票の回収が不足し,調査未実施の県が続出した。これを受けて,1921年には工業現況統計の情報収集経路が大きく変更された。すなわち,中央統計局工業現況統計部は,県当局からの毎月の報告を入手することを断念し,最高国民経済会議の諸総管理局から業務実用現況統計として取集された情報を毎月入手する方式に変更した。

 筆者はこの後,中央統計局の各機関が,中央と地方とでどのように編成されたかを追跡している。これ以降の叙述は議論の展開が必ずしも明晰でなく,論旨をたどりにくいが,言わんとしていることを拾うと次のようなことになるだろうか。
第一回全露統計協議会(1918年10月)では,県統計局内に10の課を設置することがきめられた。これに先立つ1918年9月15日付人民会議布告「地方統計機関組織に関する規則」では,県における統計調整機関としての県統計問題評議会,県統計家大会,県統計協議会の設置が決定された。また,中央統計局付属統計問題評議会は,1918年7月25日付人民委員会布告「国家統計について(法令)」第10条,1918年9月26日付「中央統計局付属統計問題評議会に関する法令」にしたがって設置された。
統計問題評議会は当初,統計機関の最高意思決定機関であり,政治から独立すべきとされたが,その後の人民委員会会議における法案の検討過程で統計問題評議会の政治からの独立は否定され,人民委員会布告「国家統計について(法令)」で統計問題評議会は人民委員会会議に付属となった。

 中央統計局付属統計問題評議会の初期の活動をみると,この組織の統計調査機関に対する影響力は弱く,統計調整機関としても役割を果たしえなかった。これに対し,中央統計参与会は定期的に会議がもたれ,例えば人民委員会会議報告「国家工業現況統計について(法令)」の草案が参与会の議論だけを経て作成されたことからもわかるように,統計組織において実質的な意思決定機関として機能した。

 筆者は統計問題評議会の形骸化と参与会への権力の集中とによって,後の統計機関の政治への従属の端緒がつけられた,とみている。

山口秋義「中央統計局の成立(1918年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

2016-10-17 21:51:14 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山口秋義「中央統計局の成立(1918年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

 旧ソ連の中央統計局が成立したのは,革命直後の1918年7月である。世界で最初の「集中型」統計組織であった。この統計機関は,設立直後から次々と大きな仕事を行った。全露工業センサス(1918年),農業センサス(1919,1920年),工業センサス(1919,1920,1923年),人口センサス(1926年),「1924/24年国民経済バランス」(1926年),等々。この論文は,革命の混乱期のなかで,中央統計局が設立されるまでの経緯を詳しく考証したもの。

 筆者は中央統計局設立に際して影響を与えた,当時のヨーロッパでの政府統計組織の位置づけをめぐる論議に着目している。一つは第一回万国統計会議(ブリュッセル,1853年),もう一つはその第二回会議(パリ,1855年)である。前者では,ケトレーが当時自ら議長を務めていたベルギー中央委員会に匹敵する機関を各国でも設置するように提案した。ベルギー中央委員会は,国内の各行政機関がそれぞれ作成していた統計の重複を調整し,作成が空白になっていた統計を埋めて統計の全体としての体系性を確保する調整機関であった。第二回会議でも,この課題が再検討された。こうした論議を経て,各国で統計の調整機関がたちあがる。スウェーデン(1858年),イタリア(1862年),ロシア(1863年)がそれらである。その後,第六回会議(フローレンス,1867年)では,各国で成立した統計委員会をより大きな権限をもつ組織へ改組する提案がなされた。国家機構の中で統計機関に独立した位置を与えるというのがこの提案の趣旨であった。

 1917年2月革命後に成立した臨時政府内務省中央統計委員会は,その後の統計制度改革論議を経て,10月革命後の中央統計局設置へとつながった。筆者はこの間の事情を詳しくフォローしている。筆者を案内人に経過をたどることにする。

 10月革命後の12月,全露中央執行委員会,農業人民委員部調査部との共催で「全露統計家会議」が開催された。中心的役割を果たしたのがトゥーラ県ゼムストヴォ統計局長であったポポフであった(後の中央統計局長)。会議では臨時政府下で実施された農業・土地センサスの集計作業など当面の業務に関する議論が主で,統計組織の在り方をめぐる議論は少なかった。後者のテーマが日程にのぼったのは,1918年6月の第一回全露統計家大会においてである。ここでは「国家統計について」の草案が論議の対象となった。ポポフが開会宣言を行い,「国家統計組織」というテーマで基調報告を行った。付属資料として「中央国家統計組織に関する法令草案」「地方統計機関組織に関する法令草案」が提出された。ポポフはここでフローレンス大会の決議を受けて,新たな国家統計組織として中央集権的集中型統計機構の必要性を主張した。この提案は大筋で大会参加者によって承認され,若干の修正を受けた案が人民委員会議へ提出された。

 人民委員会議に提出され案はさらに議論にかけられ,法案検討委員会の設置の下で,審議された。案はここで大きな修正を受ける。切掛けは,人民委員会議長レーニンの見解であった。結論だけ示すと,中央統計組織の国家機構における位置づけで,それまで全露統計家会議以来,フローレンス会議の趣旨を受けて,国家統計組織は完全な政治的独立機関として構想されてきたが,レーニンはこの点に異論を示し,中央統計組織が人民委員会会議に従属すべきであると主張した。人民委員会議ではレーニン見解をいれる形で,統計関連法(「国家統計について(法令)」「地方統計機関に関する規則」「中央統計局付属統計問題評議会に関する法令」)がまとめられた。これらによって中央統計局と県統計問題評議会が設置された。中央主権的集中型統計機構が形づくられた。「国家統計について(法令)」では,中央統計局長が人民委員会議に従属することが明確に示され,総合調整機関である統計問題評議会は,中央統計局の付属機関として位置づけられた。

 人民委員会議でのレーニンの提案が大きな意味をもったことはわかるが,レーン自身はフローレンス会議の決議をどのように評価していたのだろうか。またこの論文ではレーニンが突然(唐突に),それまでの議論の経過を軌道修正させる提案をしたように書かれているが,レーニン提案の根拠はそもそもどこにあったのか,当時の政治・社会状況との関連で知りたいところであるが,そのあたりの事情は書かれていない。

山口秋義「中央統計局の成立(1918年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

2016-10-17 21:51:14 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山口秋義「中央統計局の成立(1918年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

 旧ソ連の中央統計局が成立したのは,革命直後の1918年7月である。世界で最初の「集中型」統計組織であった。この統計機関は,設立直後から次々と大きな仕事を行った。全露工業センサス(1918年),農業センサス(1919,1920年),工業センサス(1919,1920,1923年),人口センサス(1926年),「1924/24年国民経済バランス」(1926年),等々。この論文は,革命の混乱期のなかで,中央統計局が設立されるまでの経緯を詳しく考証したもの。

 筆者は中央統計局設立に際して影響を与えた,当時のヨーロッパでの政府統計組織の位置づけをめぐる論議に着目している。一つは第一回万国統計会議(ブリュッセル,1853年),もう一つはその第二回会議(パリ,1855年)である。前者では,ケトレーが当時自ら議長を務めていたベルギー中央委員会に匹敵する機関を各国でも設置するように提案した。ベルギー中央委員会は,国内の各行政機関がそれぞれ作成していた統計の重複を調整し,作成が空白になっていた統計を埋めて統計の全体としての体系性を確保する調整機関であった。第二回会議でも,この課題が再検討された。こうした論議を経て,各国で統計の調整機関がたちあがる。スウェーデン(1858年),イタリア(1862年),ロシア(1863年)がそれらである。その後,第六回会議(フローレンス,1867年)では,各国で成立した統計委員会をより大きな権限をもつ組織へ改組する提案がなされた。国家機構の中で統計機関に独立した位置を与えるというのがこの提案の趣旨であった。

 1917年2月革命後に成立した臨時政府内務省中央統計委員会は,その後の統計制度改革論議を経て,10月革命後の中央統計局設置へとつながった。筆者はこの間の事情を詳しくフォローしている。筆者を案内人に経過をたどることにする。

 10月革命後の12月,全露中央執行委員会,農業人民委員部調査部との共催で「全露統計家会議」が開催された。中心的役割を果たしたのがトゥーラ県ゼムストヴォ統計局長であったポポフであった(後の中央統計局長)。会議では臨時政府下で実施された農業・土地センサスの集計作業など当面の業務に関する議論が主で,統計組織の在り方をめぐる議論は少なかった。後者のテーマが日程にのぼったのは,1918年6月の第一回全露統計家大会においてである。ここでは「国家統計について」の草案が論議の対象となった。ポポフが開会宣言を行い,「国家統計組織」というテーマで基調報告を行った。付属資料として「中央国家統計組織に関する法令草案」「地方統計機関組織に関する法令草案」が提出された。ポポフはここでフローレンス大会の決議を受けて,新たな国家統計組織として中央集権的集中型統計機構の必要性を主張した。この提案は大筋で大会参加者によって承認され,若干の修正を受けた案が人民委員会議へ提出された。

 人民委員会議に提出され案はさらに議論にかけられ,法案検討委員会の設置の下で,審議された。案はここで大きな修正を受ける。切掛けは,人民委員会議長レーニンの見解であった。結論だけ示すと,中央統計組織の国家機構における位置づけで,それまで全露統計家会議以来,フローレンス会議の趣旨を受けて,国家統計組織は完全な政治的独立機関として構想されてきたが,レーニンはこの点に異論を示し,中央統計組織が人民委員会会議に従属すべきであると主張した。人民委員会議ではレーニン見解をいれる形で,統計関連法(「国家統計について(法令)」「地方統計機関に関する規則」「中央統計局付属統計問題評議会に関する法令」)がまとめられた。これらによって中央統計局と県統計問題評議会が設置された。中央主権的集中型統計機構が形づくられた。「国家統計について(法令)」では,中央統計局長が人民委員会議に従属することが明確に示され,総合調整機関である統計問題評議会は,中央統計局の付属機関として位置づけられた。

 人民委員会議でのレーニンの提案が大きな意味をもったことはわかるが,レーン自身はフローレンス会議の決議をどのように評価していたのだろうか。またこの論文ではレーニンが突然(唐突に),それまでの議論の経過を軌道修正させる提案をしたように書かれているが,レーニン提案の根拠はそもそもどこにあったのか,当時の政治・社会状況との関連で知りたいところであるが,そのあたりの事情は書かれていない。

中江幸雄「ロシア版SNAと資金循環表」『経済体制論のフロンティア-新制度主義からみたシステム改革とロシア分析-』晃洋書房,2001年

2016-10-17 21:49:51 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
中江幸雄「ロシア版SNAと資金循環表」『経済体制論のフロンティア-新制度主義からみたシステム改革とロシア分析-』晃洋書房,2001年

 本稿は旧ソ連解体(筆者は解散と書いている)後,移行期にあったロシアのマクロ的経済統計SNA作成の経緯,この国の当時の経済水準を把握するためのこの統計の概要とその勘定および試験的資金循環表の解説を意図している。
1991年末以降,ロシアではそれまでのソ連国家統計委員会がCIS統計委員会に名称変更され,さらに国家統計員会(ゴスコムスタト)が実質的に統計改善の課題を引き継いだ。ゴスコムスタトは90年代前半に西側の統計基準に準拠するように統計制度・体系を改善するが,なかでも重要だったのは国民経済計算体系のMPSからSNAへの移行であった。

 ロシアが独自のSNAを初めて公表したのは,1995年である。これは93年に国連が各国に新SNA基準による経済計算体系の作成を勧告したのを受けて作成されたもので,その計算結果はIMF,OECD,世界銀行でも認められた。それ以降しばらく,ロシアは毎年,前年の経済循環表を追加発表した。筆者は98年に公にされた『ロシア国民勘定統計集』(RSNA)によって,ロシア国民勘定体系の特徴点を浮き彫りにする。

 RSNAは国連93SNAに準拠したとはいえ,多くの点で異なる部分があった。筆者はそれらを列記している。(1)GDPの生産の範囲では,生産活動には非市場経由(無償または低価格での)の商品・サービスが含まれる。家計の生産活動は,それが販売されたかどうかにかかわらず,全ての生産物の生産を含む。ただし,自家消費のために家計によりなされたサービスは生産の範囲に入らないが,持ち家の居住による帰属家賃は含まれる。家庭菜園などの自家消費部分は生産の範囲に入れられたが,SNAではそれは推計されない。この点が大きく異なる点である。(2)市場経済移行諸国は市場で評価されない生産活動部分の割合が大きい。このインフォーマルな生産は3タイプある。第一は合法的だが課税回避のための隠された,あるいは過小評価された生産活動,第二は非登録のインフォーマルな関係にもとづく個人的生産活動,第三は麻薬や武器の密輸といった非合法活動である。RSNAは第一と第二のインフォーマルな活動をGDPでカウントするが,第三のものは推計から除外している。SNAはこの部分をGDPにカウントする。

 筆者はこのほか。制度部門分類,評価原則でのSNAとの相違を明らかにしている。相違が出てくるのは,ロシアの国民勘定統計における推計上の未熟さ統計情報の不足による。

 ロシア版SNAの特徴を筆者は,3点にまとめている。第一は固定資本減耗が明示されなかったことである。そうなった理由は,固定資本の時価評価が全てにわたり評価されていなかったからなのか,減価償却率の計算値が統一されていなかったからではないか,と推測されている。第二に「雇用労働者の隠された賃金」の推計が部門・活動種類・領土の区分なしに経済全体でなされていることである。第三に,一般政府支出が個人的商品・サービスへの支出(教育・保険・文化などの対個人政府支出とそれらの無償サービスを提供する企業・団体の支出)と集団的サービスへ(防衛支出,非市場的な科学への経費など不特定多数へのサービス支出)とが区分されている。

 筆者は1998年にゴスコムスタト経済分析局のスタッフがRSNA(1998)のデータをもとに試験的に作成した「1995年国民勘定統合表」の簡略表示を利用し,1995年のロシアの経済循環を説明している。内容は,国民セクターによって生産された総付加価値の配分,非居住者への賃金支払いのためのロシアからの資金の純流出,「財産所得」の非金融操作による「非金融法人企業・NKO」セクターからの資金流出,直接税による一般性政府の歳入,社会保険による予算外ファンドの所得,家計の実際的消費,固定資本減耗の考慮のもとでの「非金融法人企業・NKO」の純貯蓄,家計の純貯蓄,「非金融法人企業・NKO」セクターの固定資本減耗などである。

 最後に筆者は,ゴスコムスタト経済分析局作成の1995年ロシア資金循環表(試験的計算)を使って,次の結論をひきだしている。第一に,1995年に現金・当座・計算勘定,預金の増大による「金融機関」セクターへの資金流入は,GDPの7.42%であった。金融機関はこの資金を国債購入や企業への信用供与に利用した。第二に信用により限定された資金流入は,他の経済セクターに対する非金融セクターの延滞債務の増大を刺激した。第三に,資金フロー構造の分析は,セクター間での所得再分配に最も重要な役割を演じたのが一般政府だったことを教えている。第四に,純流出入の概念を活用して資金配分メカニズムを分析すると,1995年に形成された資金配分システムは資金不足の融資源として他の経済セクターに対する非金融セクターの延滞債務の増大を刺激している。「延滞債務」の項目がこの事情を示している。

 なお,この分析に先立ち,筆者はロシア版資金循環表作成の経緯,特徴と問題点,また93SNAにおける資本フロー勘定の2つのタイプに言及している。

中江幸雄「ソ連経済統計をみる眼」『日ソ経済調査資料』第679号,1988年12月号

2016-10-17 21:48:28 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
中江幸雄「ソ連経済統計をみる眼」『日ソ経済調査資料』第679号,1988年12月号

 本稿が執筆されたのは,ソ連崩壊の直前のペレストロイカの最中。かつてソ連の統計の信頼性はいろいろな意味で疑問視されていたが,実状は不明であった。公表されていた統計に疑問をよせる研究者が多かった。公表されない統計もあった。ソ連国内の研究者も,なかなかこの問題にアプローチできなかったが,ペレストロイカのなかで,公然と自国の統計の信頼性に疑義を示し,分析のメスをいれる研究者が出てきた。本稿のなかでも紹介されているセリューニン=ハーニンの共同論文である。ソ連国内でさえ,そのような事情であったから,まして他国の研究者がその実態の解明に取り組むことなど至難であった。

 筆者はそうした状況のなかで,出来る限りの工夫をして,ソ連統計をいかに読んだら良いかを指南している。アプローチの方法は,蜷川統計学伝統の信頼性,正確性批判の視点であり,統計誤差の研究で有名なモルゲンシュテルンの『経済観測の科学』で示された視点であり,あるいはハンガリーのアルバイの研究であり,さまざまな方途が駆使されている。

 筆者はまず「調査統計」に関して,モルゲンシュテルンによる統計誤差の測定可能性の論点が蜷川の信頼性,正確性の視点と同類であるとして,彼が指摘する誤差の諸要因の指摘を整理している。
第一の誤差発生の原因は,情報秘匿とウソである。誤った報告の源泉には次のような理由がある。①統計調査の設計上の問題,すなわち観測者が複雑な現象の全てを調査できないので,一部分で済まそうとすることからくる偏り,②調査主体が情報を隠したり,事実を歪曲すること,すなわち調査主体の訓練・責任の不充分なために生じる偏り,③被調査者が故意にウソをついたりすることから生じる偏り(これは社会体制の欠陥ないし階級対立にもとづくものである)。上記のセリューニン=ハーニンの共同論文は,ソ連で③の偏りを生む制度的欠陥を具体的に指摘した。各企業,組織は上級官庁の目をごまかすために,虚偽の報告をしる傾向にあった。

 第二の誤差の源泉は,質問票にある設問の仕方による誤差,調査過程上に生じる誤差(調査漏れ,重複),定義・分類上の不備からくる誤差,計算間違い,転記ミス,印刷上の誤植,などである。第三の誤差の源泉は,時系列に関して時の要因からくる誤差,つまり両時点の分類,定義づけの差違に由来する偏りである。

 モルゲンシュテルンは,上記の偏りの源泉が存在することをふまえ,次のような結論を与えているという。「有効数字5桁以上の物理的測定はあまりないことを考慮するならば,経済的な問題の大多数で考察すべき一次資料の正確性は,おそらく最大限3桁ないし4桁であろう」と。

 筆者はつぎに「業務統計」に触れている。従来,社会主義国では一般に,統一的な義務報告制度が確立され,分類・集計の基準の統一,監査制度,統計教育などにより,統計の質は保証されているといわれていた。しかし,セリューニン=ハーニン論文は,少なくない企業・組織の報告にでたらめ,歪曲,ウソが含まれていることを暴露した。ブレジネフ体制18年間に生まれた汚職・腐敗の蔓延で,報告制度は信用を失墜した。

 モルゲンシュテルンは,経済統計はもともと不正確なものであるので,どうしてそうなるのかを示すのは,なすべき仕事の一面であるが,他方で科学的研究にたえうる程度までの誤差の数量的評価に到達するのがもうひとつの仕事であると,言っている。筆者はそれにならって,ソ連の国民所得統計(NMP)の誤差の源泉とその測定法を検討している。マクロ統計は総合加工統計であり,そこにおける誤差の発見,推定は難しい。しかし,概念的検討は可能であるとして,物的生産物方式(MPS)による国民所得の中身(補足範囲)の問題点を考察している。第一に,自由市場での取引に固有の諸概念の推計にはおよそ10%前後の誤差はつきものと言われている。第二に,アングラ経済での取引による収益は,通常,NMPから除外されているが,それでは経済全体の所得水準を把握したことにならない。第三にNMP指標はその範囲を物的生産部門に限定しているが,経済パフォーマンスを示す指標としてはGNP指標の採用は重要である(ソ連では1988年からGNP指標を計算し始めた)。

 モルゲンシュテルンは国民所得統計に入りこむ主要な誤差を類型的に示している。①個々の産業やその他の経済活動の基礎資料に入りこむ誤差,②利用可能な統計をその集計量の概念的枠組みにはめ込もうとする努力することからくる誤差,③推計値のわからない産業や年次の空隙を埋めようとすることから生じる誤差,である。ハンガリーのアルバイはそれらに加えて,④諸々のプロセスのタイムラグからくる測定上の誤差,⑤企業利害の影響による誤差をあげている。
 残念ながら,ソ連ではこうした統計の中身(誤差),とくに国民所得統計の誤差の研究は皆無であった。しかし,筆者はソ連の国民所得統計も上記の各種の誤差を免れていない,と指摘している。なお,筆者は関連して,国民所得統計の誤差の測定方法として,①S.クズネッツが実験した「専門家の判断による誤差の直接的推定」,②国民所得バランスで生産側と支出側とで独立に推計を試み,「統計の不突合」の調整項目を検討する方法,③速報値・暫定数字と最終確定値との間の改定幅の大きさで精度をはかる方法を紹介している。

 またハンガリーのアルバイによる1970年代初頭における国民勘定の正確性の程度を測定した経験について紹介している。アルバイが行なったのは,①国民勘定の枠組みにおいて仕上げられたデータの異なる側面からの突合せと②国民勘定の諸目的のために利用されたデータソースと様々な対応するデータの収集による情報との突合せである。アルバイはそこから成長率の信頼性が良好と判断をしている。筆者によれば,ソ連にはアルバイが70年代に行った研究に類したものさえ見当たらないらしく,わずかにエデリガウスの著作にある各種統計指標の誤差率の一覧表から興味深いものを抜き出して掲げ,本稿を閉じている。

 この論稿は,筆者が1988年9月に行った日ソ経済研究会での報告「ソ連統計のペレストロイカ」で不十分だった諸点を含め,それを埋め合わせるために補足的に書かれたものである。前半の「ソ連経済のマクロ指標の乖離について」で,その研究会での質問者に答えるべく細かな議論を行っているが,この部分の要約は省略した。