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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

松川七郎「ウィリアム・ペティとその周辺」『「ボーウッド文書」の周辺-松川七郎を偲んで』1992年

2016-10-17 20:16:43 | 4-3.統計学史(英米派)
松川七郎「ウィリアム・ペティとその周辺」『「ボーウッド文書」の周辺-松川七郎を偲んで』1992年

 W. ペティ, グラントなどイギリス古典派経済学の研究者である松川七郎は, 1967年に『ウィリアム・ペティ-その政治算術=解剖の生成に関する一研究』(岩波書店)を上梓したが, その前後からペティの子孫であるランズダウン侯爵家に伝わるペティの手稿, 関連文書に関心を寄せるようになった。それは松川が1963年に渡欧したおりに実見したものである。

ペティは生前, 膨大な量の原稿を残した。それらの多くは1921年のアイルランド独立戦争の戦火で焼失したが, それでも依然として, かなりのものがランズダウン侯爵家に所蔵されていた。侯爵のエステイト(広大な土地のなかにある館)は, 南西イングランドのウィルトシャのカーンという小都会のボーウッドにある。ペティの遺稿が「ボーウッド文書」と呼ばれるのは, こうした事情による。(ランズダウン侯爵は, ペティの遺稿の一部を『未完論文集』『書簡集』として刊行)

 本稿は松川が, その手稿に直接あたり, その一部を筆写した経緯とその成果をまとめたものである。それによると, ブリティッシュ・カウンシルをつうじてランズダウン侯爵の許可を得, ペティの手稿に初めて接したのは1963年4月とある。この時は3時間ほどの閲覧で, 全部で21巻(または箱)に収められた手稿をざっと眺めただけだった, ようである。その後, 松川は69年(約1か月), 75年, 79年の3回にわたって渡英し, 調査を継続した。69年には, 毎日エステイトに通って転写に努めた(写真撮影厳禁)。多くの手稿を自由に閲覧できたので, カタログを作成(B5版ルーズリーフ計105頁で「ボーウッド文書」の保存状況, 記されたタイトル・本文などの転写, 文書の内容のメモに松川のコメント)した他, 1940年から85年までのイングランドにおける統治上の変化を簡潔に述べた手稿, オランダの社会経済上の特徴について述べた手稿などを転写した。1975年に渡英したさいには, 「ボーウッド文書」はカタログ作成中で開示できないと, 閲覧の許可を得られなかったが, 諦めることなく(その経緯が詳しく書かれている)閲覧の許可を得て,1670年ごろに執筆されたと目される「政治算術などについての対話」を転写した。

 本稿には, 転写のさいの苦労がこまかく記述されている。当時の文章の文法, 用語法, 語彙についての知識が必要であるし, また極度の近視だったペティ自身が書いたもののなかには日本人には手に負えない語や句, 書き直し, 加筆の行列, 句読の欠如や不統一, 明白な誤りや脱漏, スペルの誤り, 空白, 重複した記載が多数。どうしても不明な点は, 現地で専門家にみてもらったりしたようだが, それでもお手上げの部分はのこったようである。このあたりの叙述は臨場感がある。筆者はこの「対話」を1976年に, 簡単な序論的コメントを付して, 一橋大学の英文雑誌“Hitotsubashi Journal of Economics”の1977年2月号に公表した。

 この論稿には, 上記の自身による「ボーウッド文書」転写体験記に先立って, ペティの人となりと業績のスケッチがある。そこで, 筆者は科学者としてのペティと致富者としてのペティの両面に光をあてている。本稿の主題に関連しては, とくに後者, すなわちペティが少年時代から蓄財にたけ, 後にアイルランドでの没収地の測量や分配の難事業に携わって莫大な報酬を得たという人物像が興味を惹く。この膨大な土地資産が子々孫々に受けつがれ, 上記のランズダウン侯爵家の巨大なエステイトはペティの末裔の資産である。

本稿はもともと中央大学の『中央評論』第29巻第1号に掲載されたものだったが, 追悼集に転載された。学生向けに書かれ, 「この一文が学生諸君にとって, 学問的創造の問題を社会科学の黎明期にさかのぼって考えなおしたり, 学問研究の下ごしらえといってもいろいろあるものだということを考えたりするための機縁の一つにもなるなら, 私としては望外の幸せである」とある(p.30)。

追悼集『「ボーウッド文書」の周辺-松川七郎を偲んで』は, 遺族によって編まれ, 松川七郎による本稿の他に, 「ボーウッド文書」転写の一部(写真), 大内兵衛「松川七郎教授の『ウィリアム・ペティ』」(『日本学士院紀要』第24巻2号からの転載), 著作目録などが載っている。

近昭夫「科学史研究者による統計学史研究について」『統計学』(経済統計学会)第58号,1990年3月

2016-10-17 20:15:26 | 4-3.統計学史(英米派)
近昭夫「科学史研究者による統計学史研究について」『統計学』(経済統計学会)第58号,1990年3月

 著者は1988年7月から89年5月まで,アメリカのヴァージニア大学歴史学部に滞在した。そこでT.ポーターから,科学史研究の立場からアメリカを中心にした統計学史を研究しているグループの存在を教えられた,という。本稿はポーターの示唆を受け,筆者自身の調査も加え,そのグループの研究動向と特徴を紹介したものである。

1.メルツの著書について
 このグループの研究は,J.M.メルツ(John Theodore Merz)の著書 A History of European Thoughts in the Nineteenth Century, Vol.1-4, London.1904-12 がある。この書の科学史的思想の発展を論じたVol.2の第Ⅻ章は「自然に関する統計的視点」と題され,近代産業の発展とともに計算が社会的に重要な意味をもち,そのような社会的背景のもとに大数に関する科学(統計学)が成立した事情が説かれている。そこでは,ヨーン,ブロックなどの著書によりながら,ドイツ大学統計学派,イギリス政治算術学派への言及があり,ケトレーと彼に先行するフランス確率論,誤差論研究が,そしてケトレーの平均人をめぐる意思自由論争の概説がなされている。
 メルツは科学思想の発展のなかに統計学の生成,発展をとらえ,それが後の科学研究にどのような影響を与えたかをみようとした。メルツによれば,H.T.バックル(Henry Thomas Buckle)はケトレーの考えを取り入れ,自身の著 History of Civilization in England, Vol.1.1857 の基本的視点とした。くわえて,ケトレーの考え方が自然現象を統計的に観察する研究を促し,マクスウェルの熱力学を生み出したこと,ダーウィン,スペンサー以来の近代科学の発展がゴールトンの統計学を生み出し,ピアソンがそれを発展させた,と伝えている。

2.ジリスピー,ヒルツ,コーワン-1960年代-
 1960年代入るとC.C.ジリスピー(Charles C. Gillispie ),V.L.ヒルツ(Victor L. Hilts),R.L.S.コーワン(Ruth L. Schwartz Cowan )がメルツの観点を継承した。ポーター自身がその影響を受けた科学史の研究者ジリスピーは,The Edge of Objectivity, An Essay in the History of Scientific Ideas, New Jerzy, 1960 を著した。彼の著作のうち,後の研究者がよく参照するのは次の文献である。“Intellectual factors in the background of analysis by probabilities,” in Alstair C. Crombie, ed., Scientific Changes, New York, 1963 である。
 この論文で彼は,マクスウェルが確率論を応用して新しい理論を考え出すにいたるまでの確率論研究の歴史を概観している。ジリスピーは,コンドルセー,ラプラス,ベイズ以来の確率論研究から始め,それらがケトレーに影響を与え,ケトレーの『確率論に関する手紙』についてのハーシェルの論文をとおし,マクスウェルが大きな影響を受けたことに言及している。
 筆者はハーヴァード大学でクーンの影響を受けたヒルツに関して著作Statist and Statistician ; Three Studies in the History of Nineteenth Century English Statistical Thought,1981 の他,いくつかの論文を紹介している。前者ではケトレーの社会物理学,ゴールトンの人類学的研究と統計学,カール・ピアソンの数理統計学がとりあげられている。他の論文では,ケトレーからゴールトンの視点の転換,すなわち平均人をとおして平均という考え方を具体化したケトレーに対し,人間の能力における差に関心をよせ,統計的な偏差や変異に注目したゴールトンへの転換がどのようにして生じたのかを考察している。
 コーワンもゴールトン研究者のひとりである。彼女はゴールトンの遺伝学に関わる研究を検討し,そこからどのように統計方法が考案されるに至ったかを解明している。ドクター論文 Sir Francis Galton and the Study of Heredity in the Nineteenth Century, 1969では,この点を主題に,次のような主張をしている。第一の主張はゴールトンの学問的業績が時間的にも論理的にも,彼が社会改良計画という特定の運動に関わったことが基礎にあるということである。第二の主張は,ゴールトンの優生学への寄与が遺伝の意味をより分かりやすくしたとの指摘である。そこに統計的研究法を導入することで,遺伝を漠然とした生命力の継続として考えられていたものを,個体間の自然科学的関係に代えたというのである。

3.優生学,確率論の研究-1970年代-
 ゴールトン,ピアソンについての優生学の研究は,1970年代にも続けられた。これらの研究では,統計理論の内容,理論的展開より統計学と優生学,社会的政治的背景との関わりに主要な関心がよせられた。筆者はその代表として,B.センメル (Bernard Semmel),L.ファレル (Lyndsay Farrell ) の研究を紹介している。センメルはカール・ピアソンが大英帝国の対外進出を背景にした人種主義的イデオロギーの持ち主であったことを明らかにしている。ファレルは,ゴールトンにより優生学が成立し,ロンドン大学に優生学の講座が設けられるにいたった経緯を解説している他,優生学が社会ダーウィニズムと結びつき,イギリス,アメリカで大きな社会的,政治的影響を与えたことに対する多数の文献がサーヴェイされ,紹介されている。
 筆者はさらに1970年代以降の研究で,I.ハッキング(Ian Hacking),L.ダストン(Lorraine Daston)のそれに注目している。ハッキングは,その著 The Emergence of Probability, A Philosophical Study of Early Ideas about Probability, Induction and Statistical Inference, Cambridge Univ. Press,1975 で確率という考え方がどのようにして成立したかを,15世紀以前にさかのぼって考察している。その際,ハッキングは確率という概念の成立を帰納的推論や統計的推測などとの関わりで哲学的あるいは理論史的に考察するだけでなく,当時の社会における科学や経済,神学などの発展を考慮して説明しようとしている。ダストンが確率論史の研究を開始したのは,ハッキングの影響によるところが大きいという。彼女の基本的着想によれば,確率論は理性的であることが敬われた時代に,確率論はそれまでの確実な知識のもとでの理性的判断に代わって,不確実な知識しかない状況下で合理的な解答を与える「合理的な計算」であるとみなされた,ということのようである。

4.ビーレフェルド・グループ-1980年代-
ここではポーターの論文と著作,The Calculus of Liberalism ; The development of Statistical Thinking in the Social and Natural Science of the Nineteenth Century ,1981と The Rise of Statistical Thinking 1820-1900 ,1986 がまず紹介されている。後者では,1820年以降,統計学的思考,統計学がどのような社会的歴史的あるいは学問的状況のなかで生成,発展したのか,それが当時の社会に,またその後の学問的研究にどのような影響を与えたのかを,政治算術,ケトレー,バックル,マクスウェル,ボルツマン,ゴールトン,ピアソンなどの研究を中心に考察している。同じ年に,シカゴ大学のスティグラー(Stephan N. Stigler)は,The History of Uncertainty before 1900, The Belknap Press of Harvard Univ. Press,1986を公刊した。この書でスティグラーは,ポーターが統計的思考の生成,発展の社会的基盤を重視したのに対し,統計理論の発展のプロセスを解明することに努めた。
 1982年からビーレフェルド大学(西ドイツ)で,「確率革命」についての研究が始まった。このプロジェクトの企画,組織にはゲッチンゲン大学のクリューガー(Lorenz Kruger)とハイデルベルガー(Michael Heidelberger)などがあたったが,ハッキングの力によるとこころが大きかったという。その成果が『確率革命(The Probabilistic Revolution, Vol.1, Ideas in History,Vol.2, Ideas in Science, The MIT Press)』(1987年)の2巻本であった。第1巻には確率論,統計学の理論的展開に関する諸論文が,第2巻にはそれらの心理学,社会学,経済学,物理学などへの応用に関する諸論文が収められている。

内海健寿「チャールズ・ブースの統計調査『ロンドン住民の生活と労働』(1902-1904)の歴史的意義」『統計学』(経済統計研究会)第47号,1984年9月

2016-10-17 20:14:19 | 4-3.統計学史(英米派)
内海健寿「チャールズ・ブースの統計調査『ロンドン住民の生活と労働』(1902-1904)の歴史的意義」『統計学』(経済統計研究会)第47号,1984年9月

 チャールズ・ブースの貧困研究 ”Life and Labour of the People in London, 17vols.1892-1902”(ロンドン住民の生活と労働)[全17巻]の意義を紹介した研究ノート。チャールズ・ブース(1840-1916)は,実業家(舟主)で社会問題研究家。1886年にロンドンにおける住民の状態と職業の調査を準備し,翌年からイースト・エンドの調査に入った。調査の目的は,貧困,悲惨な境遇,堕落の数字的資料を得ることであり,諸階級の生活の一般的状態を知ることであった。

 調査の結果,貧困の原因は失業と低賃金であり,それに付随した怠惰,酩酊,浪費,病気などであった。ブースは貧困者,極貧者の約4000の実例を分析してこの結論を得た(ブースの原因分析の表がp.103に掲載されている)。ブースの統計調査によって,貧困が社会問題として意識されるようになり,その最大の原因が低賃金にあることをつきとめたことが,その歴史的意義として記憶されている。

 チャールズ・ブースには,ウィリアム・ブース(1829―1912)という兄がいた。筆者はこのウィリアム・ブースに若干,言及している。それによると,ウィリアムは宗教家で,救世軍の創始者である(1878年)。イギリス国教会に属していたが,回心してメソジスト教会に転じ,後に独立して下層階級に対する伝道者となった。チャールズの上記の大著は,ウィリアムズの慈善事業を科学的にするべき統計的資料となった。

 チャールズの業績は,日本でどのような影響を及ぼしたのであろうか。筆者は,横山源之助『日本の下層社会』(1898年)刊行のおりに日野資秀がこの著作の「序」でチャールズに触れていること,『労働世界』という雑誌にチャールズの業績に敬意を表した記事があること,青盛和雄がその労作『人口学研究』のなかでチャールズの調査を引用した野尻重雄『農民離村の実証的研究』に触れ,紹介していること,大戦後には社会学者一柳豊勝,品川満紀編『社会福祉の歴史』でチャールズの調査が注目されたことをあげている。

 チャールズによる調査が日本の研究者に与えた最大のものは,なんといっても,高野岩三郎(1871―1949)に対してであった。高野岩三郎はチャールズ・ブースの『ロンドン住民の生活と労働』,ウィリアム・ブースの『最暗黒の英国とその出路』に強い感銘を受け,同様の問題意識と方法を用いて大都会東京における下層社会の分析を試みた。高野岩三郎は落合謙太郎と協力して,EAST LONDON IN TOKYO(1894)をこの分野の先駆的業績として公にした。横山源之助『日本の下層社会』(1898年),農商務省『職工事情』(1903)が続いた。高野岩三郎はさらに「東京ニ於ケル二十職工家計調査」を日本での最初の科学的家計調査として実施した(1916年)。なお高野岩三郎には房太郎という兄(1869―1904)という労働運動家がいて(片山潜と労働組合期成会を結成),岩三郎に強い影響を与えた。

筆者は,ブース兄弟と高野兄弟を対比して,かれらがともに社会改革者として成したおおきな仕事を高く評価し,その歴史的意義を強調している。

浦田昌計「政治算術と国富・所得統計」『現代の階級構成と所得分配(大橋隆憲先生追悼論文集)』有斐閣, 1984年,『初期社会統計思想研究(補章)』(御茶の水書房, 1987年)

2016-10-17 20:13:05 | 4-3.統計学史(英米派)
浦田昌計「政治算術と国富・所得統計」『現代の階級構成と所得分配(大橋隆憲先生追悼論文集)』有斐閣, 1984年,『初期社会統計思想研究(補章)』(御茶の水書房, 1987年)

 政治算術で有名なペティ, その経済学の内容がよくわかる論文。メインに取り上げられているペティの論文は, 国富・国民所得の推計がなされた「賢者には一言をもって足る」である(1665年頃)(以下, 『賢者に一言』と略)。この論文でペティは, 対オランダ戦争のための戦費調達の租税政策を展望し, 国民の富に対する公平な課税をもってすれば十分な財源があることを示した。いわば戦時財政のための租税論であった。ペティ推計では, この当時のイングランドの国富総額は250, 000千ポンド, 人民の支出年額は40, 000千ポンド, 人民の価値は417, 000千ポンドなどとなっている。この論文に先立って, ペティは『租税貢納論』(1662年)を著している。『租税貢納論』は, 地代, 利子についての理論的考察であり, 地価算定論が具体的に展開されている。『賢者に一言』は, この『租税貢納論』の応用版であるということらしい。

 ペティが意図したものは国富推計でありながら, それ以上に所得推計にあったのではないか, と筆者は推察している。ペティにあっては所得の(労働の所収[筆者がこの用語を使っている])大きさは, 消費支出の総額と等置した国民所得額から土地と資財の所収を控除したものであった。この消費支出は, 国民支出とイコールであり, 余剰所得である。ペティはこの部分に課税の可能性をもとめた。換言すれば, ペティは, 税源としての労働所得を明るみに出そうとした。『賢者に一言』の政策的結論は, 課税対象をすべての所得(ないし支出)に広げることであり, 公共的支出の基礎としての労働の増進という課題の提言であった。

 労働増進のこの提言に関しては, 『賢者に一言』では国富・国民所得推計を媒介として論じられていない(主たる議論は, 流通必要貨幣量の算定)。その推計が, 経済発展論, 労働増進論と結びつけられるようになったのは, 『政治算術』『アイァランドの政治的解剖』(いずれも1670年代の執筆)以降のことであるらしい。筆者はこの議論の内容を詳しくペティにそくして説明している。その結果, 明確になったのは, この時期, ペティの国富・国民所得推計の方式は, 必要貨幣量の計算とともに, 経済発展の基礎としての「遊休の人手」, 労働力の予備の存在を明らかにし, その潜在的な稼得力を示すことであった, と述べている。ペティが政治算術をとおして明らかにしようとしたのは, 一つには社会的労働力の適正な配置を念頭に, この「予備の人手」(国民の食糧を確保したうえでの人手[と土地]の余力, 生産力の予備)の算出にあった。

 次にペティによる国富・国民所得の推計は, 資本蓄積の問題とどうかかわっていたのだろか。この問題を考えるときに, キーとなるのが上記の余剰所得の概念である。余剰所得は, 基本的には, 資財および動産の増加とも解釈できる。ペティにあっては富の増加であるこの余剰所得は, 一見すると雇用を増加させる蓄積としてとらえられず, 資財および動産を増加させる要因としてしか理解されていないかのようにみえる(富に関する重商主義的観念)。そして, ペティの余剰所得概念は, 確かに, そのように解釈されても仕方のない側面をもっていたが, 部分的にはこの余剰を社会の冗員の雇用に充当すべきとの主張もある。筆者は, この点に注意を促している。

 筆者はさらに, 余剰所得概念とのかかわりで, そこに生産手段の蓄積部分を入れて考える視点が欠如していたこと, したがって生産手段の生産と蓄積についての分析と把握が欠けていたことを指摘している。また資本関係の定式化が明確になされておらず, 余剰所得が誰の所得に属するのかという点も曖昧であった, とも述べている。

 ペティの国富・国民所得の推計は, 現代の水準からみれば, きわめて大雑把であった。資料の制約があっただろうが(人口の半分を「就業者」とみたてるなど[p.182]), 概念規定があいまいであり, 基本的範疇が未熟で, 未分化であった。しかし, それは「政治問題を数・重量および尺度で述べまた還元する」こと, それらの問題に「算術を適用する」ことを意識的に追及した, 経済学の最初の一歩であった。

筆者は国富・国民所得推計においてペティが, 貨幣表現をとおして, 国民経済の統一的数量的把握を試みたこと, 同時にその背後にある実体的内容を問い続けたことを高く評価し, その功績をたたえつつ, 今日の推計においても継承しなければならない課題の痕跡をその業績に確認している。 

近昭夫「W.M.パーソンズとハーヴァード法」『統計的経済学研究-計量経済学の成立過程とその基本問題-』梓出版社,1987年4月

2016-10-17 20:11:24 | 4-3.統計学史(英米派)
近昭夫「W.M.パーソンズとハーヴァード法」『統計的経済学研究-計量経済学の成立過程とその基本問題-』梓出版社,1987年4月

本稿の課題は,筆者によれば,1917年の春,ハーヴァード大学の経済調査委員会に迎えられたパーソンズが作り上げた独特の景気研究法(ハーヴァード委員会方式の景気予測法)の問題点を考察することである。

 アメリカでは19世紀の中ごろから,金融・商業取引に関する刊行物が多数発行され,1900年頃から大都市での建設許可や粗鋼生産等の重要な経済指標に関する統計が急速に整備された。このような状況を社会背景に,景気予測を目的とする組織が次々に創設された。バブソン統計社,ブルックマイヤー社がその代表的なものである。前者は景気予測とその顧客へのサービスを行い,景気予測図表を1910年から公表している。ブルックマイヤー社も独自の景気指数を作成し,同種の調査・サービスの提供を行った。    

 パーソンズはこれらの景気バロメータの検討を行った後,彼自身の方法を1919年のIndices of Business Conditions で定式化した。その要点は,次のとおりである。
 (1)経済現象の広範囲にわたる良質の月次データの収集。(それらのデータは,①長期の趨勢傾向,②季節変動,③循環的変動,④不規則変動から成る)。
(2)趨勢変動を最小二乗法でもとめる。
(3)季節変動を連鎖比率法でもとめる。
(4)原型列からこれらの趨勢変動と季節変動を除去する。この操作によって上記の①と②を除去し,③と④とをあわせた循環変動をみる。
(5)このようにして得られた多数の循環的運動の系列が,(A)騰貴に関するグループ,(B)商業に関するグループ,(C)金融に関するグループに分かれることを確認する。
(6)各グループの曲線が類似した動きを示していることを確認する。しかし,各曲線には一定の時間的先行,遅れの関係がある。
(7)タイムラグの関係が明確な系列については,そのラグの期間の相関係数を算出する。

以上がパーソンズの方法であり,世界的な注目を集めた。反面,早くからアメリカ内外で批判の対象となった。その主要論点は,以下のようなものである。

第一は,K.カーステン,O.アンダーソンなどによる,統計加工あるいは予測方法に対する技術的観点からの批判である。カーステンはパーソンズが景気指数を作成し,その動向をみて景気を予測するという考え方を支持したが,上記(A)(B)(C)のバロメータ曲線の景気順序に異を唱えた。カーステンによれば(B)こそが景気変動の要である。また,アンダーソンは,時系列解析は確率論的シェーマに基づいて考えられるべきとの観点からハーヴァード法の全体を批判した。

 第二は,ハーヴァード法の予測が事実と合致しないという批判である。実際,ハーヴァード委員会の予測はあまり成功率が高くなかった。系統的にこの観点からの批判を行ったのはコックスである。

 第三は,ハーヴァード法が経済理論と切り離された経験的研究にすぎないとする批判である。論者によってニュアンスが異なる。E.ワーゲマンは,パーソンズ流のアメリカ型の景気変動観測の特質が「技術的原理」によりすぎるとし,これに対してコンドラチェフ,スルツキー型の「医学的原理ないし有機的原理」にもとづいた景気バロメータを主張した。また,E.アルトシュールに代表されるその没理論性への批判がある。彼はパーソンズなどの数学的・統計的方法を評価するが,統計的分析の理論的基礎(景気理論)を考慮していないことにクレームをつける(統計分析の理論的基礎であるべき景気理論を等閑視し,景気変動の諸過程を整理したにすぎないミッチェルの研究にのみ依拠していることを「歴史学派の不毛性への復帰」と指摘)。さらに,より厳しくパーソンズ流の没理論的な研究の意義そのものを「にせ科学的強がり」として一切認めないL.ロビンスの批判もある。

 日本では1920年代に入って,景気バロメータの紹介が始まった。後半には景気理論への関心が盛んになり,海外の研究の翻訳が刊行された。ハーディ,コックス『景気予測の方法』(田村市郎訳,1927年),ミルズ『統計法』(福本福三訳,1926年),ムーア『経済循環期の統計的研究』(蜷川虎三訳,1928年)などである。1930年代になると,統計的景気研究法は一般的に受け入れられるようになった。同時に,経験的な景気研究に対する批判が蜷川によって行われた(数理的方法の適用の根拠が不明確であることの指摘)。さらに,海外での批判的研究を射程に入れた統計的景気研究が展開された(豊崎稔,郡菊之助)。

 筆者は最後に,ハーヴァード法の基本的特徴と問題点を整理している。その基本的考え方は,バブソンやブルックマイヤーの景気指数の方法論の踏襲である。ハーヴァード法に特有なのは,数理統計学的方法を使用したことである。しかし,なぜ数理統計学的方法を用いるのか,それを使うことにどのような意味があるのかは,明確でない。数理的統計学的方法を利用することの意義や理由が明確でなくとも,利用の結果として得られた数値が実施の予測に役立つのであればよいということのようである。

 数理的方法を使っても,ハーヴァード法による予測は結局,過去の経験の外挿である。したがって,経済的条件が変化すれば予測があたらなくなるのは避けられない。1929年の大恐慌を,この方法によって,予測できなかったのも当然である。