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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

是永純弘「統計的方法の『有効性』について」『経済志林』第34巻2/3号,1966年7月

2016-10-18 16:49:00 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
是永純弘「統計的方法の『有効性』について」『経済志林』第34巻2/3号,1966年7月

統計的方法とは,大数観察における数理的方法のことである。それは確率論を基礎とする数理統計学の理論,すなわち統計的推論あるいは推測統計学の核となる研究方法である。統計的推論では判断の基礎となる知識は不確実であり,それから得られる結論もおのずから不確実である。統計的推論の結果として得られる「統計法則」は,推論の正確さが確率をもとにして判断される以上,確率的であり,非決定論的な規則性に過ぎない。研究成果の有効性は,したがって確率的にしか判定されない。

確率論基調の統計的方法は,数理統計学者の間で統計学一般の最も先進的な形態として認められている。こうした理解に異を唱えたひとりが,L.ホグベンである。ホグベンは自然科学における実験研究者の立場から,統計的方法の有効性を批判的に評価した。本稿は,このホグベンの見解にそくし,統計的方法の有効性についての基本問題を明らかにし,社会・経済統計の利用における統計的方法の意義を考察したものである。

全体の節建ては,次のとおりである。「1.統計理論における現代の危機-L・ホグベンによる統計的方法の批判的評価<現代統計学の基礎理論としての確率論の不確実性><統計理論の諸領域における確率計算の実質的意味>」「2.いわゆる統計的方法の仮象的有効性-社会・経済現象における決定論的法則性と確率計算法との対立-」。以下,筆者の叙述を引きながら,本論稿を要約する。

両大戦間に,統計的方法は,農学,医学,心理学の研究分野で流行となった。しかし,科学研究者のうちで,手段として使われる統計的方法の論理的信用保証を明確に把握しているものはほとんどいない。ホグベンはそこに現代の統計学における危機の要因をみる。

 ホグベンはまず,現代の統計理論=統計的方法の基礎にある確率の概念がいかにして成立するかを確率論の発展史にそって解明する。

古典的確率の定義は,「事象生起の均等可能性」の仮定を前提としている。この仮定は,一回の試行のあらゆる結果に同等の機会が配分される「結合機会の等分配の原理」によって成り立っている。「事象生起の均等可能性」の仮定は,古典的確率論でどの事象がとくに起こるという理由がない場合には,いずれの事象も等可能とみなすという原理(ラプラスの「不充分理由の原理」)を論拠とする「直感的仮定」である。この仮定の現実性は,機会の等配分の結合が十分に長い試行系列の将来の結果として保証される(不確実性保証)賭け事(サイコロや投銭のような運任せゲーム)で起きる事実上の経験によってのみ立証される。

 現段階の統計理論では,「事象の確率についての主張」と「事実について正しく述べることの確率についての主張」(判断の確率)との関係が問題とされる。後者の判断の確率をどのように解釈するかで,統計学者の考え方は3つに分かれる。第一はラプラスの不充分理由の原理にもとづいて,事前の確率の均等性を仮定する考え方である(H.ジェフリース)。第二は事象の相対的頻度をこの確率とみなす考え方である(J.ネイマン,A.ウォルト)。第三は両者の折衷である(R.A.フィッシャー)。フィッシャーはベイズの定理における事前確率均等の仮定を認めないが,結果事象から原因事象を回顧する権利は保留する。問題は結局,ホグベンが「結合機会の等分配」と呼ぶ原理が,事象の系列そのものにみとめられるかどうかである。換言すれば,事象系列に無秩序を認めるかどうかである。この無秩序の内容を定式化したR.v.ミーゼスの「確率=頻度」説は,現実世界への確率計算の適用基盤として,事象発現の規則性をもたない集団現象または反復現象を要求した。しかし,これで問題が解決されたわけではない。

 ホグベンは確率計算の有用性の決定を数学理論で基礎づけることができないとし,その解決はこの手法が実際に適用される諸問題領域のなかで検討しなければならないとする。具体的には,「(1)集団の計算法」「(2)誤差の計算法」「(3)調査・研究の計算法」「(4)判断の計算法」の4領域である。「(1)集団の計算法」では,実験科学の分野のマックスウエルらの気体運動論から現代の量子論にいたる統計力学およびメンデルの遺伝理論が紹介されている。感覚で捉えられない微粒子の確率的行動を想定した確率模型を使った仮説が意味を分野である。「(2)誤差の計算法」では,観測値の組み合わせ論の分野での観測誤差が問題とされる。観測者の偶然誤差は,運任せゲームにおける賭博者の得点と完全に一致すると仮定でき,確率計算の範囲内におさまる。「(3)調査・研究の計算法」は,ガウスの誤差計算の形式的代数学の生物学や社会学への適用である。多変量解析や要因分析の応用もここに入る。「(4)判断の計算法」は,生物学や社会科学における仮説検定や区間推定の手法が代表的な手法である。

 以上の四領域にわたって,統計理論は共通の事実的基盤がない。あるのは確率計算法への依存と,それに規定された形式的に同一の操作の利用である。それではこの計算法の有効性はどうであろうか。ホグベンは実験物理学,遺伝学の領域でこの計算法がモデルを作成するために有効であったとするが,それに対する信用保証はこの領域内でのことである。誤差,研究,判断の領域への確率計算法の適用は,確率概念の成立基盤(結合機会の等配分=無秩序)が事実として存在していることが立証されていない場面への確立論の適用であった。

 それゆえ,社会・経済的現象への統計的方法の適用に関しても,ホグベンのいわゆる無秩序な世界,ミーゼスのコレクティ-フが存在していないので,確率計算が適用できる場面を見出すことはできない。問題はホグベンが物理的世界に認めた「集団」と異なる社会集団現象を反映した統計数値の一団である統計値集団についてはどう理解したらよいかである。両者はどちらも同じく観察の結果である数字である。しかし,同じ観察の結果であっても集団として客観的に存在するものを測定した結果としての統計値と,同一の個体について多数回の反復結果としての測定とは,明確に区別されるべきである。

ホグベンにあっては,「集団(=自然的集団)」における確率計算法の適用と,自然測定の繰り返しにおけるその適用を区別し,確率モデルが対象を科学的に反映するのは前者だけとした。反復的測定という集団的観察結果としての測定値集団となると,確率計算法の適用は同種測定行為の無限反復系列における結合機会の等配分が仮定できれば有効であるが,そうでない場合には確率モデルがこの系列に擬制されるにすぎない。同種測定行為の無限反復系列にこのような「無秩序性」が認められるためには,前提として同一の測定行為が同一不変の測定対象である個体に対して繰り返されなければならない。社会・経済現象では,静止した状態で同一の現象を多数回調査する条件を人為的につくりだすことができない。

社会・経済現象の統計調査による把握では,個体測定の場合のように測定の繰り返しによって安定的結果を導出するより,客観的な同種多数個体の集団の大きさと性質を,一個の事実として確認することのほうがはるかに重要である。したがって,測定誤差の確率計算法が平均概念を媒介に,自然測定以外の研究領域に拡張されることを,社会科学的認識の発展形態と見ることはできない。統計的方法は社会認識にとって,事実の要約以上のものを与ええない。社会科学の法則を正確に定立または検証する能力は,確率的計算法としての統計的方法にはない。

伊藤陽一「ケインズの確率論について-基礎理論の紹介を中心に-」『統計学』第16号, 1966年10月

2016-10-18 16:48:11 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
伊藤陽一「ケインズの確率論について-基礎理論の紹介を中心に-」『統計学』(経済統計研究会)第16号, 1966年10月

 確率論の信頼度説的解釈を集大成したケインズの理論の基礎的部分を紹介, 検討した論文。筆者の案内にしたがって, ケインズ確率論を以下に学んでいきたい。

 ケインズの確率論は, 1921年に公刊されている。その編別構成は, 次のとおりである。Ⅰ編:基礎的諸概念, Ⅱ編:基礎的諸定理, Ⅲ編:機能と類比, Ⅳ編:確率の若干の哲学的応用, Ⅴ編:統計的推論の基礎。筆者はこの論文で主として, Ⅰ編, Ⅱ編, Ⅲ編までを, 紹介, 解説している。
ケインズは確率論を論理学の一部とみる。われわれの知識は, 一部分は直接的に, 一部分は論証によって間接的に獲得される。形而上学, 科学において依拠するほとんどの論証は, その結論が決定的でなく, 確からしさに何らかのウェイトを付与したものである。従来の論理学は結論に疑問をのこす論証を扱わなかったが, ケインズはこれを論理学の一部としての確率論の課題とした。

 ケインズによれば, 確率は間接的知識が獲得される過程の論理であり, 前提となる知識が与えられたときに, この知識によって結論が付与される合理的信頼度である。ここでは確率が事象ではなく, 命題の論理的な関係に与えられていることを確認しなければならない。この合理的信念の程度としての確率は, 主観的側面と客観的側面をもつが, 後者に確率論研究の意義がある。合理的信頼度の「合理的」とは, この客観性のことである。

 合理的信念の程度としての確率はまた, 必ずしも数的に測定可能なわけではない。ケインズは確率について, 量的に測定可能な場合, 大小の比較の順序づけだけが可能な場合, それらが不可能な場合, があると結論づけている。ケインズはごく限られた場合に, すなわち無差別性原理(不充分理由原理の修正されたもの)が適用可能な場合に, 数値が付与され, 多くの場合には確率間の大小比較が行いうるだけであり, ときによっては比較も不可能とした。

 数学的確率論は, 等しさの承認を不充分理由原理にもとづいて行った。ケインズはこの不充分理由原理を無差別性原理と呼び換えたが, この原理は多くの矛盾をもたらすことをよく知っていた。したがって, ケインズはこの無差別性原理が適切性の判断に依拠していることを明らかにし, 資料が選択肢に対して対称的であるべきこと, また適切性を判断するときに選択肢の意味と形とが無視されてはならないことを指摘し, 原理のより正しい適用をはかろうとした。

 筆者は概略以上のように, ケインズの合理的信頼度説を, これに関わる基本命題(知識論との関係, 確率の量的性格, 比較のための原理, 無差別性原理の再構成, 数値測定の方法など)を論ずるなかで確認している。ケインズはこれらをふまえ, さらに確率計算の公理系, 帰納と類比, 偶然論, 統計的推論について論じている。筆者は, これらのうち, 確率計算の公理系, 帰納と類比についても詳しい解説を行っている。偶然論, 統計的推論に関しては, 次の要約を与えている, 「ケインズは, 偶然を我々の有する情報との関連においてとらえ, 偶然を主観的偶然と客観的偶然とに分ける。事象についての情報が二つの事象間に関連を与えないとき, それら二つの事象は主観的意味で偶然とされ, 客観的偶然とは, この主観的偶然の特殊な場合として位置づけられて, 完全な知識, 情報すらも偶然性を変化させないときにその偶然性は客観的偶然性と考えられるべきとされる。次に統計的推論に関しては, ・・・普遍的帰納は一般化においては, 一般化された結論は例外を許さなかったのに対し, 統計的帰納は一般化にあたって事例のいくつかに反することを許すもの, 従って論じられる単位は単一の事例ではなくて, 一組あるいは一系列であるという特徴づけを行う。そしてここでも, 確率はあくまで資料との関連においてとらえられる(従って試行の経験によって次々と予測確率が変化する)という立場から, 従来の大数法則論, 統計的推論を検討するのである」と(p.15)。

 「確率論」を執筆した頃のケインズにあっては, 帰納論理を発見の論理として位置づける余地があり, それを放棄し検証の論理に焼き直す新実証主義的見地へ転落する直前でふみとどまっていた。確かに, 概念の形成から一般的知識へ至る認識過程の分析は行われず, 一般的知識がいかに形成されるかという問題意識は乏しかった。しかし, ケインズは帰納的一般化のさいに, その確率を高める要因の分析を行い, 発見の論理を否定するヒュームの問題提起に対し, 制限付きの独立変異の仮説を提出して, 帰納原理を維持しようとした。

 また, 科学的知識の成立における帰納法の位置づけでは, 帰納は諸々の論理的方法から切り離され, 量的評価の可能性が科学的知識の現実的な形成過程から乖離し, 帰納法を独立させ, これを形式化してとらえたフシがある。

帰納的知識の確からしさの量的評価を問題にするのであれば, 前提から結論にいたる, 現象的知識から科学的知識にいたる認識過程の構造, 思惟のプロセス, そこでの知識の蓋然性を規定する諸契機を明らかにすることが先ず前提作業とされるべきであって, 安易な量的評価と, それにもとづく計算体系の樹立を急ぐことは, 数理形式主義的偏向であると, 筆者は結論付けている(p.18)。

伊藤陽一「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」『統計学』第14号, 1965年

2016-10-18 16:46:46 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
伊藤陽一「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」『統計学』(経済統計研究会)第14号, 1965年

筆者は本稿の課題を, 確率の基礎をめぐる諸見解を学説史的に概観し, この稿が執筆された頃の主要見解の問題点を指摘すること, としている。この課題を設定した理由は, 確率概念について, そもそもそれが何を意味するのかの反省のないまま, 諸科学に導入され, 適応限界を超えて使用され, その結果, 諸科学の無内容化という弊が生じているからである。

 確率基礎論の系譜にふれた業績は, ほとんど無いようである。しかし, 例外的存在として, 北川敏男・増山元三郎「推計学への道」がある。予備的考察で, 筆者は, この論文を手掛かりに, 確率の基礎についての諸見解とその歴史をまとめ, 系譜を図式化している(p.40)。系譜図は便利だが, ここに再掲はできないので, 該当箇所に直接あたってもらうしかない。簡単に要点のみ言及すると, 確率論の系譜は, 古典的確率論(パスカル, フェルマ, ベルヌィ)から出発し, 一方で頻度説(J.ベン, R.v.ミーゼス)へ, 他方で確率数理(А.Н.コルモゴロフ)へと継承された。この流れと併行して, 帰納論との関連でイギリス経験哲学を受け継ぐ流れがあり, J.M.ケインズの合理的信頼度説に繋がる。現在では頻度説と信頼度説を中心に, 共存説の他, 各説の分岐がある。筆者は, 以上を踏まえて, 立場としては信頼度説の否定, 古典確率論および頻度説にあった経験主義的偏向の排除, 唯物論的側面の重視を提唱している。

 以下, 筆者は「17世紀~19世紀初期(初期確率論)」「19世紀」「現代」と, 節を分けて, 確率基礎論の展開を論じている。内容を以下に要約する。

 「17世紀~19世紀初期(初期確率論)」では, 確率概念の系譜の源流がイギリス経験論と数学者の側からの古典確率論との2つにあるとして議論を始めている。前者は, 確率を経験的認識の結果に見出す見解, すなわち命題の信頼性の程度とする見解である。換言すれば, この見解は確率の意味を, 外界についての推理=命題が, 推理の前提となる経験的知識によってどれだけ確かなものとされるかの程度に見出す。後者によれば, 確率概念は客観のなかに偶然性が見出される事象の世界を背景に成立するとし, 確率数理の体系を構築する見解である。そこで問題とされるのは, 外界における事象の確率である。ところが事象の等可能性の根拠をめぐって2つの方向性(頻度的把握と主観的把握)が混在していた(とくに問題となるのは, 事象の等可能性の根拠を「不充分理由の原理」にもとめる主観的把握の方向である)。

「19世紀」に入ると, 上記の「不充分理由の原理」について, 単なる無知はいかなる推論のための根拠にならないとして, この原理を根本から拒否する頻度論者, そしてこの原理がもたらす矛盾を, その部分的修正によって回避しようとする論者が登場した(頻度の確定ができないところでは, 直観あるいは何らかの先験的原理に依拠しないでは判断を得ることができないとした)。後者の流れは, 信頼度説を集大成したケインズの確率論に組み込まれ, 初期信頼度説と現代の合理的信頼度説への橋渡しとなった。

 現代の主要見解は, 頻度説(ミーゼス), 測度論(公理主義)説(コルモゴロフ), 合理的信頼度説(J.M.ケインズ, R.カルナップ), 主観説(サヴェージ)である。頻度説は, 確率を現象系列の事象の相対的頻度の極限値と規定する。この現象系列は, コレクティフと呼ばれる。しかし, 頻度説はこのコレクティフに確率をみながら, 頻度が与えられたときにはじめてそれを確率とし, その様な頻度をもたらす事象自体のなかに確率をみない点で, 経験主義的である。

 測度論(公理主義)説は, 集合論的確率論, 近代確率論とも呼ばれ, ロシア=ソ連の確率論研究(ペテルブルク学派[Ц.Л.チェビシェフ, А.А.マルコフ], モスクワ学派[А.Я.ヒンチン, А.Н.コルモゴロフ])の形成とともにある。この確率論の要諦は, 大数法則の証明と, これを含めた簡潔な公理系の樹立である。測度の利用という考え方は, 確率の諸概念と集合論および測度論の基礎概念とにアナロジーを見出したことから出発している。筆者はこの測度論説に対して, 「公理系がいかに見事であり, また大数法則の条件が検出されようともこれは公理を設定し, 仮定を設けて演繹するという数理の内部のことである。現実の現象のうちのどこに, 集合で定義される確率と等置するものを見出しうるのか, その確率諸定理は現実のいかなる場面に, いかなる限定条件の下で適用されるかについて, 公理主義確率論は答えない」と評している(p.48)。

 合理的信頼度説では, 確率論は論理学の一部である。ケインズによれば, われわれが獲得する知識(一定の前提たる知識から帰結される結論)の多くは確実なものではない, そこでその確実の程度に応じて結論命題に確率が付与されることになる。ケインズ以降, O.クープマンはケインズの公理設定とその展開が不明確として, 新たな公理を設け, 数学的厳密化をはかった。また, R.カルナップは, 前提と結論の結びつきを各人の直接的知識とするケインズの考え方が論理学的に不徹底として, 前提の先験的設定, そこからの結論の導出をはかった。

 サヴェージによって代表される主観説は, 自らの確率を個人的確率と称した。主観説は, 確率を命題についての信頼度ととらえる点で合理的信頼度説と同じであるが, 合理的信頼度説では確率が前提と結論の間の論理的規則によって導かれ, この規則は誰にとっても同一の拘束力をもつと考えられるのに対し, 主観説ではそこに個人的主観がもちこまれ, 確率が誰にとっても同じにならない。確率が何によって与えられるかの分析が問題であるのに, 主観説ではこれを個人的主観によると言う。

 筆者が期待しているのは, おそらく, 次の文章に示されている。すなわちミーゼスにあっては, 確率は過程自体の内的特質によって生ずるものではなく, われわれが経験した系列の結果えられるものとしている点で弱点があるが, 「確率の基礎の研究を重視し, コレクティフを導き出した点を大きく評価すべきである。確率の基礎の研究はこのコレクティフ概念を出発点として, コレクティフを生む対象自体の構造分析との関連で, 即ち頻度説において失われた「物自体」の復活の上に行われるべきであろう。これはとりもなおさず古典確率論の中にあった唯物論的側面を復活させることを意味する。経験主義からみるとき「先験的」としかうつらない物自体=先験性の正しい意味での復活が必要となる」と(p.47)。

是永純弘「確率論の基礎概念について-R. v. Miesesの確率論-」『統計学』第8号,1960年

2016-10-18 16:45:01 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
是永純弘「確率論の基礎概念について-R. v. Miesesの確率論-」『統計学』(経済統計研究会)第8号,1960年(『経済学と統計的方法』八朔社,2000年)

 筆者によれば本稿の課題はミーゼスの確率基礎論の要旨を示し,その意義を明らかにすることにある。対象であるミーゼスのテキストは,Wahrscheinlichkeit, Statistik und Wahrheit, Dritte, Neubearb, Aufl., Wien,1951である。

 ミーゼスの確率概念の規定は,集団現象または反復事象の一標識が無限回の試行中に現れる相対頻度の極限値,というものである。この頻度説的確率論を支持する者は少ない。理由はそれが前提とする数学的困難さ,あるいはその基礎にあるマッハ主義的認識論の観念性に由来する。筆者は,しかし,ミーゼスの確率論,とくにその基礎論を意味のないものと一蹴することはできないのではないか,という疑問から出発して本稿を執筆している。確率とは客観的現実のどのような側面を反映する概念なのかという問題は,確率論の基礎づけにはもちろん,自然あるいは社会の諸現象にそれを適用する際には,当然考えておかなければならない課題である。ミーゼスの確率基礎論は,この課題に応える格好の素材である。

筆者は本稿を「確率概念の基礎」と「ミーゼス確率論の意義と限界」の2つの節で構成している。前者ではミーゼスの確率概念の定義,それと古典的定義との相違,ミーゼスの議論への批判に対する彼自身の反論について論じている。後者ではミーゼスによる確率計算のの適用可能領域の検討である。    

ミーゼスの確率の定義は上記のようであるが,その対象として考えられたのは次の三種に限定される。第一は賭事や運任せの遊戯,第二は保険業務,人口現象などの社会統計,第三は統計物理現象である。それらの共通性は多数個体の一団である集団現象であるか,何回も反復される同種または一個の個体の反復現象である。この集団現象あるいは反復現象は,ミーゼスによれは確率が成立する不可欠の現実的前提である。

 確率が成立する「第一の前提」であるこれらの集団現象または反復現象を総称してミーゼスは,コレクティフと名付けた。また,ミーゼス自身の言葉によれば,コレクティフとは各個体の観察メルクマールの相対的頻度が一定の極限値に近づくだろうとの推定が正しいと思われるような集団現象または反復現象,要するに個別的観察の長い系列としての客観的性質(物理的性質)である。ここで重要なのは,この系列は規則性をもたないことである。すなわち,系列のなかのどの一部分を任意に取り出しても,この取り出し方が相対頻度の極限値を変えない性質つまり「無規則性」をもつことが確率の成立する「第二の前提」である。

 上記の2要件を満たすミーゼスの確率は,「確率とは事例の総数で好都合な事例の数を割った比である」(ラプラスによって定式化された古典確率)とか,「確率とは集合の数学的頻度である」(現在の「通説」)とは一線を画する。

筆者はここからラプラス流の確率の古典的解釈とコルモゴロフ流の現代的解釈の検証に移る。前者に関しては,古典的定義が前提とする「均等可能」の仮定が現実には存在しないこと,「主観的確率概念」を認識論的背景にもつことの2点で問題があるという。主観説の奇妙な考え方は,「諸事例が等確率だと考えられる(・・・・・)のは,諸事例が等確率であるということに等しい。理由は確率が主観的なものに他ならぬからだ」ということに帰着する。古典的解釈はまた大数法則の存在にすがろうとするが,失敗している。なぜなら,ポアソンの定理と通称される2つの命題の混同の上に成り立ついわゆる大数の第一法則と,ベイズの定理と呼ばれる大数の第二法則は,コレクティフを前提とする頻度説で定義された確率概念を基礎におかないかぎり内容のない命題になってしまうからである。

他方,後者,すなわち確率は集合の測度であるとするコルモゴロフによって代表される見解に関しても,ミーゼスは自らの頻度説を堅持する。ミーゼスによれば,コルモゴロフの研究は,確率計算という純数学的側面だけに注意をはらった基礎理論で,彼自身,公理系が不完全なことを理由に確率計算の諸問題については種々の確率域を考えることができると公理論的確率論の限界を示している。集合論は,数学的補助手段として確率計算を援けるものにすぎない。筆者は以上の確認をしたうえで,さらにミーゼスが行った彼のいわゆるコレクティフの二要件に対する諸批判への反論を補足的に紹介し,ミーゼスの確率概念の規定の妥当性を追認している。

「ミーゼス確率論の意義と限界」では,確率が客観的実在のいかなる側面を反映しているかのミーゼス的解答が確率計算の応用領域でどのように貫かれているかを点検している。対象となる応用領域は,統計学(出生・死亡などの人口現象,婚姻・自殺・所得などの社会現象,遺伝・生物体器官の測定,薬剤・療法の効果判定,大量生産),誤差論(ガウスの誤差法則),統計物理学(存在する気体分子,ブラウン粒子など)の領域である。要するにミーゼスにあっては,確率が適用できるかどうかは,相対的頻度の極限値をもち,無規則的であるという二要件を満足するコレクティフがそこに存在するのを観察によって確認できるかどうか,またはそう仮定して確率計算を行った結果が観察結果と一致するかどうかを問わず,そうした集団のコレクティフ性が客観的存在であると確認できるかどうかが重要なのである。

 問題はミーゼスのいわゆる「原系列のコレクティフへの還元」である。原系列を加工してこれをコレクティフ系列とすることは,もともとコレクティフ系列たりえないものを一定の目的でそれを構成することである。そこで改めてこの構成された系列の当否が問題となる。実際にはミーゼスのコレクティフ概念では存在たるコレクティフと意識的に構成されたコレクティフとの間に明確な境界線が引かれていない。ミーゼスの最大の難点であり,彼が別の箇所で確率基礎論の帰結を因果律の否定,確率法則による代位に見出していることとも関係がある。「この点はすでにミーゼスの理論の認識論的背景がマッハ主義にあり,そのため彼の確率論の全命題は経験・試行から出発し,それ以前の対象の性質そのものへ認識が全く及んでいないこと,したがってミーゼスのいう確率の客観性ははなはだ疑わしくなるということ,等の指摘をつうじて,ミーゼスに対する認識論的批判の核心点になっている」(p.32)。

 そうは言ってもミーゼスの確率基礎論の意義は,少しも損なわれるものではない。マッハ主義的認識論との決別はあと一歩であり,存在としてのコレクティフの確認にも迫っていた。ミーゼスが到達した限度までの経験的事実の整理は,確率の客観性の認識への大きな前進であった。

 課題はある。筆者が挙げているのは以下の諸点である。すなわち現代物理学における動力学的合法則性と統計的合法則性との関連で,事象頻度の安定性の原因を解明し(研究対象としての過程自身の性格と合法則性とを手掛かりに),頻度を数量的に算定することをサチコフが確率論の真の課題とみなした際に言及した物理学の確率論的説明の基礎条件の如何である。ミーゼスの基礎論は,現代物理学の提起しているこうした課題に十分な解答を与えるものになっていない(それどころか,上記現象の非決定論的性格を強調し,頻度説的確率論の適用範囲の拡大さえ企てようとした)。また要素間の相互作用が決定論的役割を演じる多標識集団としての社会集団は,そのままミーゼスのいわゆるコレクティフになりえないがゆえに,確率論の社会集団への適用は,コレクティフ仮定と現実の集団との照応関係の考察から始めて,適用条件の子細な検討に至るまで,慎重になされなければならないということである。

坂元平八「確率論における観念論とのたたかい」『統計学』第2号,1955年9月

2016-10-18 16:41:35 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
坂元平八「確率論における観念論とのたたかい」『統計学』(経済統計研究会)第2号,1955年9月  

確率論を統計学の理論的基礎におく考え方は,正当な根拠もなく,戦後一時流行した。確率論とはどのようなものか,それを社会現象に適用するさいにどのような限界があるのか,十分な検討もされないまま,観念が先行していた。

 本稿で筆者は唯物論の立場から,確率論の観念論的解釈に異議を唱えている。推計学の性格に対する批判,反省が出始めた頃の論稿である。

 やや長い前置きがある。筆者はここでソ連の統計学論争でのオストロヴィチャノフが示した「進歩的数学的方法」への期待,またコルモゴロフの慎重な言説を紹介している。とくにコルモゴロフの見解,すなわち数理統計学を確率的現象よりも広い事象についての形式的数学的側面を取り扱う学問としての認知,確率論に関してこれを任意の大量現象ではなく,「確率的に偶然な」現象をあつかう科学であるとの理解,社会科学としての統計学の役割と数理的方法としての統計学のそれとの区別に親近感をもっていたようである。

 そのうえで筆者は,数理統計学がその認識論的基礎を問うことなく,論理実証主義の立場にたって確率論に依拠する傾向に不満を示し,その批判を試みる。立脚する視点は,統計力学をモデルとしたヒンチンの論文である,との表明がある。

本論に入ってまず,確率の基礎概念に関する問題の整理がある。確率論の世界では,一つの事象の頻度は試行の回数を大きくすれば,その事象の確率に接近するという点で一致をみている,問題の矛先がそうした基礎概念の具体的解釈,数学理論と現実世界との関係に向けられると見解の相違が多々ある。しかし,重要なポイントは,一つの事象の確率は頻度によって解釈するか,しないかである。

 確率論の要具は,事象の頻度が安定性を示すような過程にのみ適用され得る。それでは安定性を示すような過程とはどのような過程なのか。事象の頻度が安定性を示すような自然過程はどのような特性をもたなければならないのか。過程そのものを支配する合法則性をよりどころに,理論的方法である過程が安定性を示すような過程であるかどうかを確認することができるのか。筆者はこうした問題に答えることが確率についての解釈を方法論的に正しく展開するために意義があると,問題提起を行っている。

 古典確率論の解釈の第一の欠陥は,その定義にあたって最初から現実の頻度を問題としないことである。この立場では,確率は過程の現実的経緯と無関係に成立するので,サイコロ実験などで繰り返しの試行の行きつく先が計算上与えられた確率になるか,あるいは近づくかは問題にならない。しかし,確率の古典的定義を実際の頻度と結びつけようとする試みは過去からあり,通常ベルヌーイの定理が引用される。「サイコロを投げて得られる長い系列では,たとえば5の目が出る頻度が(1/6)とかけはなれるような系列が得られる確率は非常に小さくて無視し得る程度だ。従ってこの様な系列は実際においてほとんどあらわれない」。この定義の前半はベルヌーイの定理の内容の正しい解釈であるが,後半は根拠がない。確率論の観念論的解釈は,試行の過程が確率計算でもとめられた値に向かって進行せざるをえないのは,その結果が過程の客観的性格によって条件づけられているからではなく,そのような進行をその過程に期待するからであり,そしてそのようにならないということが到底考えられないからである,ということになる。

古典的確率論の第二の欠陥は,不正なサイコロが投げられる場合に露わになる。古典的解釈では,この様な場合に生じる安定性を予見できない。過程のこの「等可能な結果」を発見する余地は古典確率論にはない。これでは,ほとんどすべての問題が確率論の対象外にあることにならざるをえない。実際にはこのような場合は例外と言える。それゆえに,古典確率の定義はきわめて少数の例外的場合にしか適用できず,適用範囲は「賭」の範囲である。

 古典確率論の解釈に本質的欠陥が存在することを指摘し,これを放棄して,新しい頻度理論の立場から確率論を構築したのは,ミーゼスである。ミーゼスは事象の確率を,限りなく多数回繰り返された試行における頻度の極限値と定義した。この解釈の特徴は,確率と頻度の問題が既に定義のなかに組み込まれていること,したがって頻度の安定性をどのような過程が示し,またどのようなものが示されないかと言う問題を解決するのは実験によるということになる。過程のある客観的特性を特徴づけることは行わないで,経験された系列の結果を記述すればよい,という。ミーゼスの理論は確率論の専門家の間では支持者がほとんどいないらしいが,物理学者のなかでは評判がよい。

 すぐに気がつくように,ミーゼスの解釈は古典確率論が有していた欠陥から自由であり,確率論の唯物論的解釈に一歩近づいている。しかし,上記の説明の後段部分は,マッハによる経験論的解釈との親和性が強い。ヒンチンは,この点を殊更,警告した。近代数理統計学の世界で「統計的判定関数の理論」(A.ワルド)は,この論稿執筆当時,高い評価を得ていたが,そのワルドはミーゼスの信奉者であった。その後継者であったサベージは論理実証主義の立場から,確率論,効用理論,ゲーム理論などを統一して統計理論の構築をはかっていた。ヒンチンは唯物論的立場から任意関数の方法(ポアンカレ)を提起して,このような数理統計学の傾向に反撃した。

筆者の立場が全くヒンチンのそれに一致していたのかはよくわからないが,本稿からは,少なくとも古典確率論あるいはミーゼス的頻度説に従えず,唯物論的認識論の立場から当該問題に接近しなければならないと考えていたことは,理解できる。