社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

伊藤陽一「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」『統計学』第14号, 1965年

2016-10-18 16:46:46 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
伊藤陽一「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」『統計学』(経済統計研究会)第14号, 1965年

筆者は本稿の課題を, 確率の基礎をめぐる諸見解を学説史的に概観し, この稿が執筆された頃の主要見解の問題点を指摘すること, としている。この課題を設定した理由は, 確率概念について, そもそもそれが何を意味するのかの反省のないまま, 諸科学に導入され, 適応限界を超えて使用され, その結果, 諸科学の無内容化という弊が生じているからである。

 確率基礎論の系譜にふれた業績は, ほとんど無いようである。しかし, 例外的存在として, 北川敏男・増山元三郎「推計学への道」がある。予備的考察で, 筆者は, この論文を手掛かりに, 確率の基礎についての諸見解とその歴史をまとめ, 系譜を図式化している(p.40)。系譜図は便利だが, ここに再掲はできないので, 該当箇所に直接あたってもらうしかない。簡単に要点のみ言及すると, 確率論の系譜は, 古典的確率論(パスカル, フェルマ, ベルヌィ)から出発し, 一方で頻度説(J.ベン, R.v.ミーゼス)へ, 他方で確率数理(А.Н.コルモゴロフ)へと継承された。この流れと併行して, 帰納論との関連でイギリス経験哲学を受け継ぐ流れがあり, J.M.ケインズの合理的信頼度説に繋がる。現在では頻度説と信頼度説を中心に, 共存説の他, 各説の分岐がある。筆者は, 以上を踏まえて, 立場としては信頼度説の否定, 古典確率論および頻度説にあった経験主義的偏向の排除, 唯物論的側面の重視を提唱している。

 以下, 筆者は「17世紀~19世紀初期(初期確率論)」「19世紀」「現代」と, 節を分けて, 確率基礎論の展開を論じている。内容を以下に要約する。

 「17世紀~19世紀初期(初期確率論)」では, 確率概念の系譜の源流がイギリス経験論と数学者の側からの古典確率論との2つにあるとして議論を始めている。前者は, 確率を経験的認識の結果に見出す見解, すなわち命題の信頼性の程度とする見解である。換言すれば, この見解は確率の意味を, 外界についての推理=命題が, 推理の前提となる経験的知識によってどれだけ確かなものとされるかの程度に見出す。後者によれば, 確率概念は客観のなかに偶然性が見出される事象の世界を背景に成立するとし, 確率数理の体系を構築する見解である。そこで問題とされるのは, 外界における事象の確率である。ところが事象の等可能性の根拠をめぐって2つの方向性(頻度的把握と主観的把握)が混在していた(とくに問題となるのは, 事象の等可能性の根拠を「不充分理由の原理」にもとめる主観的把握の方向である)。

「19世紀」に入ると, 上記の「不充分理由の原理」について, 単なる無知はいかなる推論のための根拠にならないとして, この原理を根本から拒否する頻度論者, そしてこの原理がもたらす矛盾を, その部分的修正によって回避しようとする論者が登場した(頻度の確定ができないところでは, 直観あるいは何らかの先験的原理に依拠しないでは判断を得ることができないとした)。後者の流れは, 信頼度説を集大成したケインズの確率論に組み込まれ, 初期信頼度説と現代の合理的信頼度説への橋渡しとなった。

 現代の主要見解は, 頻度説(ミーゼス), 測度論(公理主義)説(コルモゴロフ), 合理的信頼度説(J.M.ケインズ, R.カルナップ), 主観説(サヴェージ)である。頻度説は, 確率を現象系列の事象の相対的頻度の極限値と規定する。この現象系列は, コレクティフと呼ばれる。しかし, 頻度説はこのコレクティフに確率をみながら, 頻度が与えられたときにはじめてそれを確率とし, その様な頻度をもたらす事象自体のなかに確率をみない点で, 経験主義的である。

 測度論(公理主義)説は, 集合論的確率論, 近代確率論とも呼ばれ, ロシア=ソ連の確率論研究(ペテルブルク学派[Ц.Л.チェビシェフ, А.А.マルコフ], モスクワ学派[А.Я.ヒンチン, А.Н.コルモゴロフ])の形成とともにある。この確率論の要諦は, 大数法則の証明と, これを含めた簡潔な公理系の樹立である。測度の利用という考え方は, 確率の諸概念と集合論および測度論の基礎概念とにアナロジーを見出したことから出発している。筆者はこの測度論説に対して, 「公理系がいかに見事であり, また大数法則の条件が検出されようともこれは公理を設定し, 仮定を設けて演繹するという数理の内部のことである。現実の現象のうちのどこに, 集合で定義される確率と等置するものを見出しうるのか, その確率諸定理は現実のいかなる場面に, いかなる限定条件の下で適用されるかについて, 公理主義確率論は答えない」と評している(p.48)。

 合理的信頼度説では, 確率論は論理学の一部である。ケインズによれば, われわれが獲得する知識(一定の前提たる知識から帰結される結論)の多くは確実なものではない, そこでその確実の程度に応じて結論命題に確率が付与されることになる。ケインズ以降, O.クープマンはケインズの公理設定とその展開が不明確として, 新たな公理を設け, 数学的厳密化をはかった。また, R.カルナップは, 前提と結論の結びつきを各人の直接的知識とするケインズの考え方が論理学的に不徹底として, 前提の先験的設定, そこからの結論の導出をはかった。

 サヴェージによって代表される主観説は, 自らの確率を個人的確率と称した。主観説は, 確率を命題についての信頼度ととらえる点で合理的信頼度説と同じであるが, 合理的信頼度説では確率が前提と結論の間の論理的規則によって導かれ, この規則は誰にとっても同一の拘束力をもつと考えられるのに対し, 主観説ではそこに個人的主観がもちこまれ, 確率が誰にとっても同じにならない。確率が何によって与えられるかの分析が問題であるのに, 主観説ではこれを個人的主観によると言う。

 筆者が期待しているのは, おそらく, 次の文章に示されている。すなわちミーゼスにあっては, 確率は過程自体の内的特質によって生ずるものではなく, われわれが経験した系列の結果えられるものとしている点で弱点があるが, 「確率の基礎の研究を重視し, コレクティフを導き出した点を大きく評価すべきである。確率の基礎の研究はこのコレクティフ概念を出発点として, コレクティフを生む対象自体の構造分析との関連で, 即ち頻度説において失われた「物自体」の復活の上に行われるべきであろう。これはとりもなおさず古典確率論の中にあった唯物論的側面を復活させることを意味する。経験主義からみるとき「先験的」としかうつらない物自体=先験性の正しい意味での復活が必要となる」と(p.47)。

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