雀庵の「常在戦場/86 キリスト教 vs イスラム教/下」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/366(2021/9/21/火】産経9/19から「真・治安論 第1部:司法と医療の狭間」シリーズが始まった(関西版では8/27から連載)。1回目のメインタイトルは「池田小事件を生んだ制度の穴」。
精神疾患の心神耗弱、心神喪失の人による犯罪はこのところ増えているような気がするが、小生の散歩コースでもカリタス学園の生徒らがテロに遭った(2019/5/28)。こうした重罪でも犯人は精神疾患を理由にほぼ「お咎めなし」。読んでいて「それはまずいだろう」と思うと同時に、「自分も再発しはしまいか」ととても怖くなった。
小生は65歳(2016年)の秋に発狂、「措置入院」で急性期閉鎖病棟に3か月間、強制的に“保護”され治療を受け、90日間ルールにより“追放的”退院となったのだが、完治しないビョーキだから未だに「今の自分は本来の自分だろうか」としょっちゅう思い、不安を感じることもある。
二十歳で刑務所を出てから(人のやらないことする宿命か?)暫くは自虐的になって酒をあおっていたが、編集者を目指し、それがかなってからは水を得た魚のように元気に仕事も遊びもしてきたから、酒もガソリンになっていた。それがリタイア後は無聊を慰めるための酒になり、やがてアル中になって脳みそが壊れて措置入院。Oh, my Gods!
今現在の、よたよた歩きの、無口の、精彩も強引さも存在感もない、静かで大人しい、老犬のような爺さん・・・これが俺なのかなあ、全然、自分らしくない、別の人格みたい、としょっちゅう変な気分になる。いわゆる「アイデンティティ」とか「自分色」が薄くて不安な気分になる。とても嫌な感じ。
<アイデンティティ:自己同一性などと訳される。自分は何者であるか、私がほかならぬこの私であるその核心とは何か、という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるときでも、それへの対処は、普遍のものとして常に前提にされる統一性、連続性がその機軸、基盤となる。アイデンティティの問題(ブレ、変質、喪失)はとりわけ青年期に顕在化する>(コトバンクなど)
70歳の老年期になっても「自分探し」「ストレイシープ」って、やっぱりビョーキみたいな・・・小生がそういう“老人性青春彷徨的”な孤老から人生アドバイスを求められたら何と答えようか。
「アナタ、まるで青春時代、人生哲学だね。解はあると言えばあるが、千差万別だ。考えて考えて考え抜く・・・実に悩ましい。そのうち運良く解が見つかるかも知れないし、見つからないかも知れない。解があっても人それぞれで、絶対的な解はない。けれどね、考えることに意味があるわけよ。誰しもいずれお迎えが来るけれど、たとえ解が見つからなくても疲れ果てるほど考えた末なら未練なく従容として受け入れられると思うね・・・経験したことがないから分からないけどさ」
歴史を振り返ると、残念ながら「みんな悩んで大きくなった、成長した」ということはないようだ。技術、モノは発展、蓄積しても人間のマインド、喜怒哀楽は何百万年前と変わっていないだろう。これまでも、これからも「戦争→ 平和→ 不信→ 憎悪→ 戦争」のサイクルは続くはずだ。戦時にあっては敵、平時にあっては友、永遠の戦争も永遠の平和もない・・・まったくその通りだろう。山あり谷あり平地あり、悩ましいが退屈はしない、それが人類の宿命のようだ。ああ、天よ、我らを救いたまえ!
前回に続き、ハッジ・アハマド・鈴木氏の「イスラームの常識がわかる小事典」を元にした架空インタビューから学んでいこう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
――モンゴル帝国の騎馬軍団は1229年にはアフガニスタンやイランに到達している。キリスト教とイスラーム教が争っている場合じゃないと思いますが・・・今ですと世界制覇を目指す中共は世界の自由民主国の共通の敵です、小異を捨てて大同につく、そういう場面になった。
「ところが歴史はなかなかそうはならない。火事場泥棒みたいに危機を利用して躍進しようという勢力はいるもので、1248年、フランス王ルイ9世がエジプト遠征を再開した(第7回十字軍)。何とモンゴルと同盟してアラブ世界を東西から挟み撃ちしようとモンゴル使節団に提案したが失敗。ルイ9世はモンゴル使節団にキリスト教への入信を進めたが理解されなかったようだ。
結局、単独でエジプトと開戦したが負けてしまい、ルイ9世は捕捉され、1250年に莫大な身代金を払うことで釈放された。
一方で、モンゴル大軍団は進むところ敵なし、歯向かう敵に仮借ない鉄槌を下しながらバグダード(イラン)へ迫る。バグダードはイスラム教の開祖ムハンマドの叔父系のアッバース朝が統治していたが、1258年、モンゴルの騎馬隊に完膚なきまでに蹂躙され、そして滅亡した」
――ルイ9世は非常に熱心なキリスト教信者でしたが、その分、イスラームへの憎悪は凄まじかったようですね。ルイ9世は1253年には反イスラムの同盟国を見つけるためモンゴルへ調査団を派遣した。当時、モンゴルの国民の半数以上はキリスト教徒(ネストリウス派、支那では景教とも)で、シルクロードを通じて伝播したのでしょう。仏教徒、ムスリム、道教、儒教の信者もいた。
モンゴルがキリスト教徒の国だと知って発奮したのか、ルイ9世は再び十字軍(第8回十字軍)を結成し1270年に進発、イスラーム圏のチュニジアを攻撃したが、飲用水が劣悪だったことや熱さにより病気がはびこり、ルイ9世も同地のチュニスでペストに罹患し、陣中で病没した。凄い執念ですね。
ルイ9世は死後にキリスト教会より聖人の称号を与えられ Saint-Louis(サン・ルイ、聖ルイ)と呼ばれるようになった。米国のセントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなりました。キリスト教徒は今でも十字軍が好きなんですね、異教徒は許さない、というのが初期設定のようで・・・
さて、イランを陥落に追い込んだモンゴルの騎馬軍団はエジプトへ向かいますね。
「怒涛の進撃でイラク、シリアの主要都市を占拠し、それに対してエジプトはモンゴル使節を殺して決戦に備えた。ところが決戦の前夜、モンゴル軍の大将フラーグ(チンギス・ハーンの孫)は長兄が故国で死去した報に接し、軍をまとめて急遽、帰国の途についた。この怒涛の反転によりイスラーム世界は救われたのだ、アッラー・アクバル(アッラー は偉大なり)!
エジプト軍は地中海岸に残っていたモンゴル兵を殲滅するとともに、モンゴルと和したキリスト勢力を次々に叩き、1291年には十字軍が最後まで占拠していた港町アッカを奪還し、外国軍勢すべてを一掃した。
これをもって東西からのイスラーム世界への侵略は全て終了し、近代にいたるまで平和が保たれたのだ」
――基本的にペルシャ湾とティグリス・ユーフラテス川の西はイスラーム圏、東はモンゴル圏になったわけですね。1271年にはモンゴル帝国の後裔として「元」が支那本土とモンゴル高原を中心に建国され、何とイスラームを国教とした。
「1370年には(今でもウズベキスタンの英雄とされている)ティムールが中央アジア全域を制覇、インドからロシア平原までを支配し、イスラーム法とモンゴル法を採用した。16世紀初めにはティムール直系の子孫、バーブルがアフガニスタンからハイバル峠を越えてインド平原へ下り、ムガール帝国を起こした。
また、イスラームは支那大陸の聖域に「清真教」の名称で浸透していく。中央アジアからシルクロードを通り、ゴビ砂漠を越えて支那に至る街道沿いにイスラームの地域が伸びていった。かくして支那西域には5000万人以上の支那系ムスリムが現在も生活している」
――先生、このシリーズは3回でまとめようと思っていたのですが、昨日の産経に加地伸行先生が「キリスト教とイスラム教の抗争は我々東北アジアに住む者にとって根本的意味が分からない。まずはイスラム教に関する初歩的講義をマスコミが行っては如何か」と書いていました。実際、その通りです。で、あと2回ほど続けたいと思いますので、よろしくお願いします。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/366(2021/9/21/火】産経9/19から「真・治安論 第1部:司法と医療の狭間」シリーズが始まった(関西版では8/27から連載)。1回目のメインタイトルは「池田小事件を生んだ制度の穴」。
精神疾患の心神耗弱、心神喪失の人による犯罪はこのところ増えているような気がするが、小生の散歩コースでもカリタス学園の生徒らがテロに遭った(2019/5/28)。こうした重罪でも犯人は精神疾患を理由にほぼ「お咎めなし」。読んでいて「それはまずいだろう」と思うと同時に、「自分も再発しはしまいか」ととても怖くなった。
小生は65歳(2016年)の秋に発狂、「措置入院」で急性期閉鎖病棟に3か月間、強制的に“保護”され治療を受け、90日間ルールにより“追放的”退院となったのだが、完治しないビョーキだから未だに「今の自分は本来の自分だろうか」としょっちゅう思い、不安を感じることもある。
二十歳で刑務所を出てから(人のやらないことする宿命か?)暫くは自虐的になって酒をあおっていたが、編集者を目指し、それがかなってからは水を得た魚のように元気に仕事も遊びもしてきたから、酒もガソリンになっていた。それがリタイア後は無聊を慰めるための酒になり、やがてアル中になって脳みそが壊れて措置入院。Oh, my Gods!
今現在の、よたよた歩きの、無口の、精彩も強引さも存在感もない、静かで大人しい、老犬のような爺さん・・・これが俺なのかなあ、全然、自分らしくない、別の人格みたい、としょっちゅう変な気分になる。いわゆる「アイデンティティ」とか「自分色」が薄くて不安な気分になる。とても嫌な感じ。
<アイデンティティ:自己同一性などと訳される。自分は何者であるか、私がほかならぬこの私であるその核心とは何か、という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるときでも、それへの対処は、普遍のものとして常に前提にされる統一性、連続性がその機軸、基盤となる。アイデンティティの問題(ブレ、変質、喪失)はとりわけ青年期に顕在化する>(コトバンクなど)
70歳の老年期になっても「自分探し」「ストレイシープ」って、やっぱりビョーキみたいな・・・小生がそういう“老人性青春彷徨的”な孤老から人生アドバイスを求められたら何と答えようか。
「アナタ、まるで青春時代、人生哲学だね。解はあると言えばあるが、千差万別だ。考えて考えて考え抜く・・・実に悩ましい。そのうち運良く解が見つかるかも知れないし、見つからないかも知れない。解があっても人それぞれで、絶対的な解はない。けれどね、考えることに意味があるわけよ。誰しもいずれお迎えが来るけれど、たとえ解が見つからなくても疲れ果てるほど考えた末なら未練なく従容として受け入れられると思うね・・・経験したことがないから分からないけどさ」
歴史を振り返ると、残念ながら「みんな悩んで大きくなった、成長した」ということはないようだ。技術、モノは発展、蓄積しても人間のマインド、喜怒哀楽は何百万年前と変わっていないだろう。これまでも、これからも「戦争→ 平和→ 不信→ 憎悪→ 戦争」のサイクルは続くはずだ。戦時にあっては敵、平時にあっては友、永遠の戦争も永遠の平和もない・・・まったくその通りだろう。山あり谷あり平地あり、悩ましいが退屈はしない、それが人類の宿命のようだ。ああ、天よ、我らを救いたまえ!
前回に続き、ハッジ・アハマド・鈴木氏の「イスラームの常識がわかる小事典」を元にした架空インタビューから学んでいこう。
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――モンゴル帝国の騎馬軍団は1229年にはアフガニスタンやイランに到達している。キリスト教とイスラーム教が争っている場合じゃないと思いますが・・・今ですと世界制覇を目指す中共は世界の自由民主国の共通の敵です、小異を捨てて大同につく、そういう場面になった。
「ところが歴史はなかなかそうはならない。火事場泥棒みたいに危機を利用して躍進しようという勢力はいるもので、1248年、フランス王ルイ9世がエジプト遠征を再開した(第7回十字軍)。何とモンゴルと同盟してアラブ世界を東西から挟み撃ちしようとモンゴル使節団に提案したが失敗。ルイ9世はモンゴル使節団にキリスト教への入信を進めたが理解されなかったようだ。
結局、単独でエジプトと開戦したが負けてしまい、ルイ9世は捕捉され、1250年に莫大な身代金を払うことで釈放された。
一方で、モンゴル大軍団は進むところ敵なし、歯向かう敵に仮借ない鉄槌を下しながらバグダード(イラン)へ迫る。バグダードはイスラム教の開祖ムハンマドの叔父系のアッバース朝が統治していたが、1258年、モンゴルの騎馬隊に完膚なきまでに蹂躙され、そして滅亡した」
――ルイ9世は非常に熱心なキリスト教信者でしたが、その分、イスラームへの憎悪は凄まじかったようですね。ルイ9世は1253年には反イスラムの同盟国を見つけるためモンゴルへ調査団を派遣した。当時、モンゴルの国民の半数以上はキリスト教徒(ネストリウス派、支那では景教とも)で、シルクロードを通じて伝播したのでしょう。仏教徒、ムスリム、道教、儒教の信者もいた。
モンゴルがキリスト教徒の国だと知って発奮したのか、ルイ9世は再び十字軍(第8回十字軍)を結成し1270年に進発、イスラーム圏のチュニジアを攻撃したが、飲用水が劣悪だったことや熱さにより病気がはびこり、ルイ9世も同地のチュニスでペストに罹患し、陣中で病没した。凄い執念ですね。
ルイ9世は死後にキリスト教会より聖人の称号を与えられ Saint-Louis(サン・ルイ、聖ルイ)と呼ばれるようになった。米国のセントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなりました。キリスト教徒は今でも十字軍が好きなんですね、異教徒は許さない、というのが初期設定のようで・・・
さて、イランを陥落に追い込んだモンゴルの騎馬軍団はエジプトへ向かいますね。
「怒涛の進撃でイラク、シリアの主要都市を占拠し、それに対してエジプトはモンゴル使節を殺して決戦に備えた。ところが決戦の前夜、モンゴル軍の大将フラーグ(チンギス・ハーンの孫)は長兄が故国で死去した報に接し、軍をまとめて急遽、帰国の途についた。この怒涛の反転によりイスラーム世界は救われたのだ、アッラー・アクバル(アッラー は偉大なり)!
エジプト軍は地中海岸に残っていたモンゴル兵を殲滅するとともに、モンゴルと和したキリスト勢力を次々に叩き、1291年には十字軍が最後まで占拠していた港町アッカを奪還し、外国軍勢すべてを一掃した。
これをもって東西からのイスラーム世界への侵略は全て終了し、近代にいたるまで平和が保たれたのだ」
――基本的にペルシャ湾とティグリス・ユーフラテス川の西はイスラーム圏、東はモンゴル圏になったわけですね。1271年にはモンゴル帝国の後裔として「元」が支那本土とモンゴル高原を中心に建国され、何とイスラームを国教とした。
「1370年には(今でもウズベキスタンの英雄とされている)ティムールが中央アジア全域を制覇、インドからロシア平原までを支配し、イスラーム法とモンゴル法を採用した。16世紀初めにはティムール直系の子孫、バーブルがアフガニスタンからハイバル峠を越えてインド平原へ下り、ムガール帝国を起こした。
また、イスラームは支那大陸の聖域に「清真教」の名称で浸透していく。中央アジアからシルクロードを通り、ゴビ砂漠を越えて支那に至る街道沿いにイスラームの地域が伸びていった。かくして支那西域には5000万人以上の支那系ムスリムが現在も生活している」
――先生、このシリーズは3回でまとめようと思っていたのですが、昨日の産経に加地伸行先生が「キリスト教とイスラム教の抗争は我々東北アジアに住む者にとって根本的意味が分からない。まずはイスラム教に関する初歩的講義をマスコミが行っては如何か」と書いていました。実際、その通りです。で、あと2回ほど続けたいと思いますので、よろしくお願いします。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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