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江田島と三島復活の時代に

2025-04-24 08:03:46 | 戦争
江田島と三島復活の時代に
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」390/通算821 2025/令和7年4/23 水曜】 

産経2025/4/22 文芸批評家・新保祐司氏の「正論 『江田島』体験入隊で考えたこと」は秀逸だった。氏は71歳、小生は74歳だからほぼ同世代。小生は腰痛で「いつお迎えが来ても従容として天命に従おう」といささか諦観気味だが、新保氏は「進歩、前進あるのみ! 投げたらそこでオシマイだ!」、まるでスラムダンクの安西先生みたいである。「新保先生、ボクも頑張ってみます!」という気分になったが、足手まといになったり、何もしないまま燃え尽きちゃったり・・・江田島遥かなり? 以下転載する。

<◎:シニア世代へのすすめ/// 4月初めに江田島(広島)に行った。海上自衛隊の第1術科学校で2泊3日の体験入隊をするためである。入隊を依頼するにあたって提出した書類には、その目的として「国防の最前線に立つことを志願した青年たちが訓練を受ける学校で、自らも訓練の一部を受けることにより、国防の意識を高めるとともに自衛隊への敬意を深める」と記したが、それを十分に達することができた。

私は、恐らくこれまで体験入隊をした人間の最高齢(71歳)ではないかと思うが、少し年下の2人の友人と入隊した。訓練は、基本教練、総員起床、甲板掃除、手旗、航海科、砲術科、体験航海など多岐(たき)にわたり、「自らも訓練の一部を受ける」ことができる実施計画であった。

もちろん、ほんの「一部」に過ぎないが、この学校で「国防の最前線に立つことを志願した青年たち」が受けている訓練の厳しさを多少なりとも感じ取ることができた。それは、「自衛隊への敬意を深める」ものであった。基本教練、総員起床、甲板掃除などの規律と所作は、普通の日常生活にも必要なものであり、老後を気ままにのんびりと過ごしたいなどという考えを吹き飛ばすに足るものであった。

見学は、大講堂、教育参考館、表桟橋、戦艦「陸奥」砲塔、八方園(?)などを回った。実は、江田島を訪ねるのは、2度目であり、最初は十数年前に幹部候補生学校で講演をするためであった。そのとき、教育参考館などは見たのだが、八方園は初めてであった。

◎:「海軍兵学校之碑」に思う/// 少し小高いところにあって、そこには「海軍兵学校之碑」が建っていた。大きな石柱を見上げながらしばし無言で佇(たたず)んでいた。教育参考館に展示された英霊の写真や遺書は、今回もやはり感銘深いものであった。そして、三島由紀夫のエピソードを教えてもらった。

1993年6月23日付の朝日新聞夕刊に載っているもので「語り継ぐ 学徒出陣50年」という連載記事の3回目である。70年11月25日の自決の1カ月ほど前の10月の或(あ)る朝7時半頃、三島は教育参考館を訪れた。館の事務所には30通ほどの遺書の束があり、三島はその1通を取り上げて読むと、「すごい名文だなあ。命がかかっているんだからかなわん。おれは命をかけて書いていない」といい、声を出して泣きだしたという。元館長の回想だが、三島自身は、或る対談で「僕はね、この間、江田島の海上自衛隊に行って特攻隊の遺書を一つずつ全部みたけど、非常に心を打たれた」と語っている。

「国防の意識を高める」というのは、単に国防のことに興味を持ったり、その必要性を訴えたりすることにとどまるものではあるまい。三島のように「非常に心を打たれた」体験が不可欠であり、言論人であれば自分は「命をかけて書いて」いるかという自省を忘れないことに他ならない。私が、体験入隊を志願したのも、口舌の徒になってはいまいかという危機感からであった。

中級学生数名との意見交換という時間も設けられていた。「国防の最前線に立つことを志願した青年たち」の生の声を聞ける貴重な機会であった。皆、いい表情をしていて発言も素直である。私の世代である昭和の老人たちは、何かというと「今の若い者は云々(うんぬん)」と言いがちである。
しかし、この中級学生だけではなく、間近に接することができた第1術科学校で訓練を受けている青年たちの言動は立派で規律あるものであった。

◎:守る立場と守られる立場/// 確かに世間の若い者にはちょっとどうかなと思う者がいるが、それは老人にも同じくらいいるであろう。意見交換の中では、人間の世界には、守る立場と守られる立場があるが、私は守る立場を選んだという発言が印象深かった。力強い決意である。

翻って思えば、戦後80年間の日本では、守られる立場が大勢だったのではないか。安全保障においては、米国に守られる立場であり、社会的にも国家から守られる立場につくという安易さに流れているように思われる。

日本が自立した国家になるということは、日本が自分で平和を守る立場に立つことであり、日本人が社会生活の様々な局面で、守る立場を選ぶことに他ならない。ケネディ大統領の就任演説における有名な「国が諸君に何をしてくれるかを問うな。諸君が国に対して何ができるかを問え」という呼びかけは、1961年のことであった。日本人は、半世紀余り経(た)った今日、改めてこの言葉に向き合わなければならないのではないか。

わずか2泊3日の入隊であったが、「国防の最前線に立つことを志願した青年たち」の訓練の一部を体験することができて、帰ってからの日常生活も緊張感に貫かれたものになった。私の世界も彼らと地続きであることを実感する。シニア世代の日本人に、自らを振り返る機会となる体験入隊を勧めたいと思う。(しんぽ ゆうじ)>以上
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そう言えば三島由紀夫の自裁を知ったのは1970/昭和45年11月25日(水曜日)だった。小生は19歳、大学2年、70年安保騒動は「壮大なゼロ」で終わり、なんとなくボーゼンとしていた時期だった。前日の夕刻から東急東横線の慶應義塾大学日吉キャンパスに近い先輩のアパートで仲間と共に花札(おいちょかぶ)をして一休みしていたら、ラジオから三島の自決を知った。小生は外に出て「何のためなのか、なぜ死にたくなったのか・・・」といぶかしんでいた。
帰宅してからTVニュースを見たり著作「金閣寺」を再読したりしたが、要は「老残の身をさらしたくない、格好良く死にたいということなのだろう」と、いささかがっかりした。以下、WIKIから引用する。

<◎:三島由紀夫・楯の会・三島事件/// 1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威、ひらおか きみたけ)が、憲法改正(憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって「楯の会事件」とも呼ばれる。

概要:1970/昭和45年11月25日(水曜日)場所:陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地、午前10時58分頃 – 午後0時20分頃。三島由紀夫、森田必勝ほかで成る民兵組織「楯の会」のメンバー5名が市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部を訪問し、益田兼利総監を拘束。幕僚らを斬りつけた後、三島がバルコニーで自衛官に決起の檄を訴え、その後総監室で三島と森田が割腹自決に至ったクーデター未遂事件。「三島事件とも。

◎:日本社会に大きな衝撃/// この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家が起こした異例の行動に一様に驚きを示した。衝撃的なこの事件は日本社会に大きな衝撃を与え、民族派から派生した新右翼を生み出すなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた>以上
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「民族派から派生した新右翼」・・・なんとなく三島と論客の宮崎正弘先生がタッグをくんで生み育てたような印象を受けるが、次回に調べてみよう。
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