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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(112」

2020-12-01 07:57:53 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(112」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/211(2020/11/29/日】今日は1129=「いい肉」の日。もともとは「より良き宮崎牛づくり対策協議会」が宮崎牛の宣伝で制定したそうだ。宮崎牛=高級=高額、取材で宮崎へ行った時には手が出なかったなあ、空港で豚骨ラーメンをすすった。


ステーキと言えば、シャンソン歌手の石井好子、イラストレーターの黒田征太郎の両氏に「海外体験が肥やしになった」とかのテーマで対談してもらった際は、銀座の高級ステーキレストランを用意した。仕事が終わった後、小生も社費で食べたが、「ステーキとはこんなに柔らかく、こんなに美味いのか」とびっくりしたものだ。


米国のT ボーンステーキは・・・あごの筋トレにはお勧めだ。今は世界的に飼料が改良されたり、和牛の血筋を引くWagyu 種(豪州産が有名、オージービーフとも言い、小生もPRに関わった)が増えており、肉質は我々平和呆け人間同様に“軟弱化”している。やがて野趣たっぷりの凶器じみたT ボーンステーキは「米国の古き良き時代の味」として珍重されるかも。入歯じゃ無理だけど。


今朝の散歩は生田緑地外縁を逆コースで制覇。登りの1時間ほどはきつかったが、途中で慰霊碑にたくさんの花が捧げられていた。


<川崎ローム斜面崩壊実験事故は、1971年(昭和46年)11月11日、生田緑地内で行われていた斜面崩壊実験中に発生した事故で、研究従事者及び報道関係者ら15名が生き埋めとなり死亡した。現在、生田緑地内、岡本太郎美術館入口脇に慰霊碑が建っている>


大事故なのに小生の記憶に薄いのは、上記のWIKIを見て分かった。1971年11月11日、その時、中核派兵士、吶喊小僧の小生は刑務所に収監されていたのだ。当時の日記から・・・結構恥ずかしい・・・


<11月6日 横浜国大で内ゲバ。革マル派が一人死んだという。


11月7日 僕らは革命に命を捧げる決意をしたはずだ。その時、僕らの命は僕らだけのものではなく、大衆のものなのだから気ままは許されない。僕たちは大衆の反応を恐れずに受け止め、分析し、正しい路線を探し出してゆかねばならないし、そのためには党内の理論闘争を徹底的に押し進めなければならない。


党内民主主義なくしてプロレタリア民主主義は決してあり得ない。プロレタリア独裁を個人独裁へ変質させないためには、僕たち一人一人が常に大衆の代表者であることを忘れずにいることが必要だ。


11月12日 出たら何をしようか。そうだ、煙草を思い切り吸おう。それから駅の売店でウィスキーのポケット瓶を買う。僕は口飲みする。喉がピリッとして、ちょっと鼻をつく。あー、何てうまいんだ。シュッとマッチを擦る。煙草を吸う。あー、本当に出たんだ。出たんだ、出たんだ!


11月13日 明日はいよいよ沖縄返還協定批准阻止、入国管理法上程阻止の全国総決起集会が行われる。日本の歴史を全人民が転換する時が来たのだ。革命の火蓋を切った偉大な「1905年」を実現する秋がやってきたのだ。大暴動は実現するだろう。否、せねばならない。


11月14日 夜のラジオニュースはてんやわんやだった。何としても闘争のニュースを聞かせまいと、検閲担当の看守が四苦八苦している様は、全く痛快だった。


「沖縄返還協定に反対する過激派の・・・」「返還協定の反対を叫ぶ中核派が・・・」「返還協定の批准に反対している中核派のゲリラが・・・」と放送されるや否や、看守が「内容を変更する」と音楽に切り替える。定時ニュース、ニュース解説、日曜ダイジェストと、連続して今日の闘争を取り上げざるを得なかったのが愉快である。


11月15日 三里塚現地闘争本部の田所さんが面会に来てくれ、昨日の闘争について語ってくれたが、詳しいことはよく分からない。「元気か」と二度も尋ねたところを見ると、僕が消耗しているように見えたのだろう。


11月19日 10.21の闘争に破防法が適用された。11.14への報復のようだ。機関紙「前進」号外には11.14で殺された機動隊の姿が掲載されているが、ひどく生々しく、戦災の焼死体を連想させる。いやだ、いやだ、殺したくなんてないんだ。


11月27日 桜の枝はすっかり葉を落としてしまった。街の喧騒が恋しい。もう12月になろうとしている。熱いコーヒー、ハイライト、ケーキ・・・こんなことを思うと消耗してしまう。今日も1日が終わろうとしている。何もしない1日だった。


11月28日 今日で73日目だ。親父はどうしているのかなあ、お袋の手紙では、胡麻塩頭になったというけれど・・・


僕は今、何を考えているのだろう。何も考えてはいやしないのだ。何かが頭を占拠する。そして去ってゆく。頭には何も、何にも残らない。近頃は1日がすごく速く過ぎていく。朝飯を食い、昼飯を食い、夕飯を食って1日が終わる。


12月1日 いよいよ12月だ。今朝の空気も冷やっとしており、凍てついた三里塚の農道を思い起こさせる。拘留延長の通知が来た。この別荘で正月を迎えることになった・・・>


学生時代、一軒家をシェアしていた広島大教授の息子がこう言っていた。「左翼はぐるっと一回転すると右翼になるんだ」。彼は高校時代は行動右翼で、大学では温厚左翼、3年になったら肺病みになり中道に。その後、平安神宮で挙式したから温厚右翼になったようだ。


小生は今度はアカに先祖返りするか・・・頑迷固陋の古老だからもうそれはないだろう。贖罪の意味を含めてアカ叩きに邁進するのが天命に違いない。アカの国=中共、アカのマスコミ、アカの政党、アカの言論人などを叩く上で、アカまみれだった小生の慙愧的な経験は武器になり得る。


肉体はポンコツだが、転んでもただでは起きないというせこさ、何をしでかすか分からない心神喪失的狂気は、言論テロリストには恰好の武器だ。我は鬼滅の刃たらん。自滅したりして・・・


「戦わずして勝つ」、これが最上等だと孫子は言った。「勝って兜の緒を締めよ」は有名だが、「負けるが勝ち」とか「局面で負けても大局で勝つ」「花を与えて実をとる」「名を捨てて実利を執る」というのもある。負けても損失を最低限に抑えるというのも大事だ。「戦争で負けて外交で勝つ」というのもある。伊藤貫著「歴史に残る外交三賢人」から。


<フランス革命(1789年)から1830年代の七月王政期(1830年の七月革命によって成立したルイ・フィリップの立憲君主政治 )まで活躍したタレーラン・ペリゴール。不思議な人物で、彼ほど評価の分かれている人は珍しい。


あまりにもシニカル、無道徳、無節操で、通常の道徳基準では上手く説明できないのである。同時代人は「天使ような顔つきをした悪魔」と呼んでいた。彼は抜群に頭が切れる「会話の天才」であったが、死ぬまで自分の本音、本性を明かさなかった。


1815年3月、前皇帝ナポレオンは(幽閉されていた)エルバ島を脱出し、フランス本国に戻って「百日天下」政権を樹立、即座にタレーランに密使を送り、外相就任を要請した。ナポレオンはエルバ島に流されていた時、「皇帝在任中に、あの裏切り者タレーランを殺しておけば良かった」と悔やんでいた。しかし、彼は臨時政府を樹立すると、また「外相はタレーランしかいない」と言い出したのである。タレーランはそれほど不可欠、有能な人材だったのだ。


その当時、タレーランを外相としてウィーン会議に出席させていたブルボン王朝のルイ18世も、タレーランを嫌って、信用していなかった。しかし1815年、フランスの支配権をめぐってナポレオンとブルボン王朝が死闘を演じていた時、両者は「タレーランは悪党だ、信用できない、しかし外相を務められるのは彼しかいない」と考えていたのである。タレーランはそれほどまでに高く評価されていた「悪魔のように頭が切れる外交家」であった。


タレーランは国王家と友人、親戚付き合いをする最上層貴族の家系で、「プリンス」の称号を持っていた。祖父は侯爵、父は伯爵で陸軍中将、叔父はカトリックの大司教だった。父の命令でタレーラン少年は神学校に入れられたが、神学校を嫌悪し、図書館で哲学書、政治思想書、歴史書を読みふけっていた。


読書に飽きるとタレーランはパリの繁華街に繰り出し、女優や高級娼婦と戯れていた。この神学生は信仰心や敬虔さなどかけらもない、生意気で弁の立つ非行少年だった。


後にフランス革命が起きるとタレーランがあっという間に聖職を捨てて革命運動に飛び乗ったのも、子供の頃に教会職のキャリアを両親に強制されたことに対する反発が原因であったと言われている。


神学校を卒業後、タレーランは当時の欧州における神学研究の最高峰であったソルボンヌ大学で神学の学位を得ている。カトリック教会の高級官僚になるための準備である。彼は(時代錯誤的な)神学を軽蔑していたが、後年、「外交で最も役に立ったのは神学だった」と回想している。(ラスプーチン佐藤優の元祖か)


外交論争は、屁理屈を「威厳ある態度で、真摯に、誠実に」熱弁してみせるような「神学論争」に似ており、タレーランはそのテクニックに通じていた。


25歳で司祭となり、昼はまじめに務め、夜はパリの社交界で放蕩三昧のプレイボーイ、ギャンブラー、会話上手として人気の非行貴族となった。「知的に洗練された、愉快で邪悪な神父様」はパリの貴婦人にもてはやされ、複数の既婚夫人を妊娠させ、子供を産ませた。(つづく)>


同志諸君、タレーランは道徳を弁えないとんでもない下司野郎だ、と思ってはいけない。そもそも結婚は企業合併、互助の様で、上流階級では政略結婚が当たり前の時代が長かったのだ。


一夫一婦ではなく、夫婦それぞれが複数のパートナー(恋人、愛人)を持つことは珍しくなかった、むしろ自然だったのではないか。


一夫多妻はごく普通で、男は戦死して不足気味になるから、優秀なタネの男はどんどん繁殖する必要があるし、また、寡婦の面倒を見る必要もあったためだ。合理的である。イスラム圏は今でもそのようだ。


一妻多夫もあった。新開地で女が少ないとか、男一人では家族を養えないという場合は普及したようだ。複数の男が一人の女を「共同の畑」として使うわけ。これまた合理的。女日照りの江戸でも長屋はソホーズ、コルホーズだったという説もある。


一夫一婦はキリスト教的な規範だろうが、ここ100年で急速に厳格になった気がする。このままでは繁殖を伴わない娼婦、男娼のニーズは高まるばかりで、一夫一婦の先進国は人口急減、一夫多妻の途上国は人口急増で、これは人類の危機を招くのではないか。


米国キリスト教一派のシェーカー教は不自然な禁欲・独身主義のためにたった200年でほぼ絶滅した。動物の基本である性欲、繁殖欲を無理やり宗教規範で抑え込むと人間は滅びるということだ。それは天も神も望んではいまい。


キリスト教でもイスラム教でも「いい教え」はいっぱいあるだろうから、学ぶべきは学ぶ。一方で行き過ぎた性差否定の女権拡張論は抑制していかないとシェーカー教のように自滅する。愛国者は鬨の声を上げる時期である。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp



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