雀庵の「常在戦場/85 キリスト教 vs イスラム教/中」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/365(2021/9/19/日】踏切がカンカンと鳴り、遮断機が下り始めたのに突破したチャリ男が「やったーっ!」と一瞬喜んだら天網恢恢、お巡りさんにとっつかまった。5万円以下の罰金である(遮断踏切立ち入り)。
嗚呼、彼の心情は如何であろう。一般的には反省する(二度と過ちは犯しません、心に占める比重20%)、不運を嘆く(今日は仏滅かなあ、運が悪かった、30%)、再起三起を誓う(クソッ!油断してしまった、二度と捕まらないように気を付けよう、今度は上手くやるぞ、50%)あたりか。
このチャリ男は「不運を嘆く」感じが強そうだったが、仕事を休むわけにはいかないから何とも複雑な面持ちだった。余り見ていると「あんた、何か用かよ」、こちらに火の粉が飛びそうだからそこそこに現場を離れた・・・
小生は本質的には「再起三起を誓う、70%」あたりの「懲りない派」だな。「大体、電車が踏切を越えてから100m離れないと遮断機が開かないというのがおかしい、さっさと開けろよ」なんて騒いだりして。随分嫌な性格だが、現実には断酒歴4年で好々爺を演じるのがすっかり板についたからそんなことにはならないが、男にはそういう“勇武、戦士、反逆、激情、暴発”的DNAがあるのではないか。
子育てには父親の「鳥の目」と母親の「虫の目」が大事だと教えてくれたのはカトリックの方だった。育児のみならず物事を観察し方向性を判断するにも有効な言葉で、近年では「魚の目」、さらには「コウモリの目」も加わったらしい。目の玉が8個、現代人は疲れるのだ。
鳥の目で全体を俯瞰する、虫の目で細部を見つめる、魚の目で潮の流れを読む。さらにコウモリのように「逆さまにモノを見てごらん」という。
要は、様々な場所から見る、発想を変えて逆の立場で見る、視点の数を増やしてごらん、ということだが、平素から余程考え込んでおかないと、イザという時に立ち往生してドジることになったりするのだろう。
大体「論客」として名を馳せる人は常に取材や執筆・講演依頼に備えて「テーマ」ごとにノート(今はPC)に自分の考え、主張を記録し、常に最新情報を加えて更新(上書き保存)している。レシピが豊富かつ新鮮、それでないと“過去の人”になってしまう。
外交評論家の草野徹氏は軍事関係者が読む「朝雲」に月に1回、寄稿しているが、防衛省か外務省の現役、在米の高官のようで、実に小生には勉強になる論稿が多い。氏の「アフガン戦争 米軍撤退の“受益者”は」朝雲2021/9/16から。
<アフガニスタンからの米軍の撤収完了を受けて、「歴史上比類のない大成功」(バイデン米大統領の国民向け演説、8/31)と自賛しても、リアリティーはゼロ。退避作戦中の米兵13人が自爆テロの犠牲になった上、彼らの遺体を出迎える式典で最高司令官が「腕時計をしきりと気にしていた」(遺族)のでは、なおさらの事だ。
外交政策決定の根幹は「国益」が基準だろうが、考えてみれば、米軍撤退が正確にはどのように米国にとっての「益」になるのか。左右を問わず、米軍撤退の提案・擁護者から説得力ある論を見聞きした覚えがない。
「20年(の戦争)はあまりに長い」というのはその通り。その変形とも言える「際限のない戦争を終えなければ」が、最も一般的に聞かれる撤退推進の論拠だが、いずれも情緒的な意見であって、筋の通った議論とは言えない。
今回の撤収では既に兵士13人が死亡した。アフガンで1日に米兵が死亡した人数としては、2014年6月以来、最も多い。アフガンで死亡した米兵士の数を「年間」で調べると、15年22人、16年9人、17年14人、18年14人、19年21人、20年11人――となる。
どう見ても、米兵士の犠牲が甚大だからアフガンを撤退するとの主張には無理がある。半面、撤兵から得る益は何もないのに、被った打撃は計り知れない。同盟国としての信望、強大な国家という評判など、米国の威信へのダメージは強調しすぎることはない。
米国は北大西洋条約機構(NATO)と何の協議もせず、事前通告もしなかった。民主党は再三、トランプ前政権は同盟を傷付けたと批判したが、今回NATOに与えた衝撃はその比ではない。第一、前政権が同じことをしたら、同党と仲良しメディアが一緒になって、天と地が引っくり返るような大騒ぎをしていただろう。
一方、慌ただしい撤退と引き続く混乱は米国の弱さ、脆さのメッセージを世界に発信。中国、北朝鮮、イラン、ロシアや、イスラム系テロ組織に大きな益を与えた。
西側は昨年、中国の圧政に直面した香港を見捨てた。台湾も有事の際の米の支援は期待できない。対イラン関係修復の“願望”は相変わらず強く、米国はイランの行動に関係なく、核協議再開に向けた交渉を進める方針でいる。
ウォールストリートジャーナル(8/29)によれば、北朝鮮が寧辺の核施設で原子炉を再稼働させた可能性が国際原子力機関(IAEA)の報告書で判明。ロシアに対する宥和策もいつも通りだ。すべて、同盟国の支援には消極的な西側、特にそのリーダー・米国の姿勢の証明。アフガンは単に、同盟国放棄の最新例なのかもしれない。
「我々はより強く、より安全になる」(前掲の大統領演説)そうだが、そんなファンタジーとは逆の結果が遠からず出るだろう>
古森義久先生もバイデン・民主党の“ボケ”振りにウンザリしている。「バイデン大統領は腕時計を見ていた」Japan In-depth 2021/9/6から。
<バイデン大統領の支持率が急降下した。人気が就任以来、最低となったことを多数の世論調査が明示した。アフガニスタンからの米軍撤退の方法が失敗だったとする非難が国内の多方面から浴びせられた結果だった。
だが、なかでも最も厳しいバイデン非難は、アフガンで戦死した米軍将兵の遺体の帰還の式典の最中、彼が時間を気にして腕時計を何度もみていたことに対して浴びせられた。
同時に、戦死した将兵の遺族たちとの会話でバイデンは自分の長男の病死のことを何度も話して、遺族側からたしなめられた事実も広く報じられた。
戦死した海兵隊のカリーム・ニコウリ上等兵の母シェーナさんは、もっとも激しくバイデンを非難した。彼女のフェイスブックでの発信は「私の息子の遺体が他の12人とともに祖国に着陸したという厳粛な瞬間にバイデンは5回以上も腕時計をみて、時間を気にしていた。
祖国のために命を犠牲にしたアメリカ人の若者の霊に最大限の弔意を表すべきアメリカ大統領が他にもっと重要な用事があるかのように時間を気にするとは、死者への冒涜だ」と、激しい言葉での糾弾だった>
認知症のようなバイデンが任期中に引退すれば、カマラ・ハリスが大統領になるが、ハリスは移民問題などで味噌をつけ人気がいまいちだ。日刊サイゾー9/17によると、
<グアテマラから米国境に殺到する不法移民に向けて、「米国とメキシコの国境まで、危険な旅をしようと考えているこの地域の人々に、私ははっきりと言いたい。来ないで。来てはいけない。我々の国境に来れば、追い返されるだろう」と呼びかけた。
グアテマラでの一連の失言から3カ月がたつ。その後、ハリスが失地回復に何らかの具体的行動を取ったとの声も聞かれない。
世論調査データ収集サイト「リアル・クリア・ポリティクス/RCP」によると、ハリスの支持率は41.2%で、不支持率が50.4%(引用した各世論調査は8月7日から9月7日まで)となっている>
RCPの数字は主要メディアの調査の平均値で、9/17付けの数字ではバイデン支持45.6%、不支持49.6%、ハリス支持41.4%、不支持49.8%。
世界がイスラム過激派、中共帝国主義、コロナの「3大禍」に見舞われている現状では、米国に限らずリベラル≒アカモドキの自虐的、融和的、「敵の善意を信じる」ような脳内お花畑的「私はいい人、みんな地球市民、仲良くしましょう」的な政治ではとても危機を乗り切れないだろう。
小生は身近にコロナで死んだ人を知らない。幕末の江戸を中心に猛威を振るったコロリ(コレラ)では将軍をはじめ7万3000人がバッタバッタと死亡した。コロナで死んだのが全国累計で1万7000人(多くは高齢者)で、全年齢で見ると致死率は0.1%~4%。ちなみに季節性のインフルエンザの致死率は0.1%程。
「1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病のパンデミックは史上最悪の規模となり、ヨーロッパ人口の3分の1が命を落とした」とか。医療がゼロの時代と今では比べようがないけれど、コロナが「大禍」なのかなあとは思うが・・・
目の前の中共の脅威については小生は随分書いてきたが、イスラム教については勉強し始めたばかりであまり知らない。それはキリスト教との角逐の歴史でもあり、「平和をもたらすはずの宗教が戦乱を招いている、どうなっているんだ」ということで、ハッジ・アハマド・鈴木氏の「イスラームの常識がわかる小事典」を元にインタビュー形式で学んでいこう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
――唯一神アッラーの代理人である預言者、つまり始祖のムハンマド(モハメット、570頃~632)の死後からイスラーム教の分裂が始まった。タガが緩んだようですね。
「ムハンマドは死の間際に後継者(カリフ)を指名し、4代目までまあまあ上手くいった。2代目の時はペルシャ勢力、ローマ軍との戦争があったが、降伏すればキリスト教にも寛大だった。しかし2代目はペルシャ人キリスト教徒に暗殺されてしまった。
3代目で版図は北アフリカまで広がったんだが、人種、言語、慣習の違い目立ち、問題が増えてきた。融和政策で『不正蓄財以外はOK、儲けられる者から儲けろ!』とやったんだが、やがて富裕層がのさばり、一方で貧しい民衆の不満が溜まり、3代目は暴徒に暗殺された」
――中共はそれを真似ているような感じがしますが・・・それはともかくとして、2代目がイスラーム教への転向を拒否したキリスト教徒に殺された・・・つまり両派は一神教ですからガチガチの「共に天を戴かず」、イスラーム教とキリスト教は永遠の敵になったようです。3代目は“富裕層は喜捨、寄付して貧乏人に施せ”と、福祉政策を取り入れたそうですが、これでは民は働く意欲を失い、国家も停滞しかねない。4代目も内政重視ですか?
「4代目は始祖ムハンマドのいとこであり、かつムハンマドの娘の夫、血筋がいい上に武勇に優れていた。即位で事態は沈静化すると期待されていたが、ただ、質素清貧、直情型で、政治的な配慮や手法に欠けていたようだ。
“先代の暗殺事件の責任追及が甘すぎる”など、部下には不満分子が多く、657年にはシリア総督軍と内戦になり、シリアは事実上独立、失意の中で4代目も暗殺されてしまった。
それでもムハンマド後の正統4カリフの時代はイスラーム帝国の「黄金時代」だったが、その後は政治の中心がシリアになり、アラビア半島に戻ることはなかった。シリアではカリフの地位は世襲制に堕し、シーア派という分派の成立も世襲制が深く影響している」
――東西のイスラーム勢力が対抗したり権力争いを始める。一枚岩ではなくなった。
「この虚を突いてキリスト教徒の十字軍遠征が始まる。11世紀末から13世紀末まで続いたが、彼らの「聖地奪還」というのは名目だけで、実際は軍事侵略と収奪でしかない。我々はそれを宗教運動とは見ていない。
実際、1099年に聖地エルサレムを攻めた十字軍は組織的な軍隊ではなく、無差別の虐殺、略奪の限りを尽くし、地中海沿岸は占領された。1148年の第2回十字軍遠征に対してはアラブ・イスラーム側の準備が整い、迎え撃つことができ、1187年にはエルサレムも奪回した。1190年の第3回十字軍遠征では和平協定が結ばれた。
1204年の第4回十字軍はムスリム世界を攻撃せずに、東方キリスト教会のコンスタンチノープルを攻撃して殺戮と強奪に終始した。
1218年の第5回十字軍のエジプト攻撃あたりから様子が変わってくる。エジプトが勝ったのだが、1229年に聖地エルサレム割譲の密約を結んだのだ。アラブ世界は大反発したが、当時は「タタール」と呼ぶモンゴルが東からイスラム世界侵攻を開始しており、西からは十字軍の攻勢により、未曽有の災厄に見舞われていたから、やむを得ない措置だったかもしれない」
――モンゴル帝国軍は1229年にはアフガニスタンやイランに到達している。侵攻を退けた国は日本とエジプト王朝(スンナ派のマムルーク朝)だけだったそうですね。続きは次回にお願いします。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/365(2021/9/19/日】踏切がカンカンと鳴り、遮断機が下り始めたのに突破したチャリ男が「やったーっ!」と一瞬喜んだら天網恢恢、お巡りさんにとっつかまった。5万円以下の罰金である(遮断踏切立ち入り)。
嗚呼、彼の心情は如何であろう。一般的には反省する(二度と過ちは犯しません、心に占める比重20%)、不運を嘆く(今日は仏滅かなあ、運が悪かった、30%)、再起三起を誓う(クソッ!油断してしまった、二度と捕まらないように気を付けよう、今度は上手くやるぞ、50%)あたりか。
このチャリ男は「不運を嘆く」感じが強そうだったが、仕事を休むわけにはいかないから何とも複雑な面持ちだった。余り見ていると「あんた、何か用かよ」、こちらに火の粉が飛びそうだからそこそこに現場を離れた・・・
小生は本質的には「再起三起を誓う、70%」あたりの「懲りない派」だな。「大体、電車が踏切を越えてから100m離れないと遮断機が開かないというのがおかしい、さっさと開けろよ」なんて騒いだりして。随分嫌な性格だが、現実には断酒歴4年で好々爺を演じるのがすっかり板についたからそんなことにはならないが、男にはそういう“勇武、戦士、反逆、激情、暴発”的DNAがあるのではないか。
子育てには父親の「鳥の目」と母親の「虫の目」が大事だと教えてくれたのはカトリックの方だった。育児のみならず物事を観察し方向性を判断するにも有効な言葉で、近年では「魚の目」、さらには「コウモリの目」も加わったらしい。目の玉が8個、現代人は疲れるのだ。
鳥の目で全体を俯瞰する、虫の目で細部を見つめる、魚の目で潮の流れを読む。さらにコウモリのように「逆さまにモノを見てごらん」という。
要は、様々な場所から見る、発想を変えて逆の立場で見る、視点の数を増やしてごらん、ということだが、平素から余程考え込んでおかないと、イザという時に立ち往生してドジることになったりするのだろう。
大体「論客」として名を馳せる人は常に取材や執筆・講演依頼に備えて「テーマ」ごとにノート(今はPC)に自分の考え、主張を記録し、常に最新情報を加えて更新(上書き保存)している。レシピが豊富かつ新鮮、それでないと“過去の人”になってしまう。
外交評論家の草野徹氏は軍事関係者が読む「朝雲」に月に1回、寄稿しているが、防衛省か外務省の現役、在米の高官のようで、実に小生には勉強になる論稿が多い。氏の「アフガン戦争 米軍撤退の“受益者”は」朝雲2021/9/16から。
<アフガニスタンからの米軍の撤収完了を受けて、「歴史上比類のない大成功」(バイデン米大統領の国民向け演説、8/31)と自賛しても、リアリティーはゼロ。退避作戦中の米兵13人が自爆テロの犠牲になった上、彼らの遺体を出迎える式典で最高司令官が「腕時計をしきりと気にしていた」(遺族)のでは、なおさらの事だ。
外交政策決定の根幹は「国益」が基準だろうが、考えてみれば、米軍撤退が正確にはどのように米国にとっての「益」になるのか。左右を問わず、米軍撤退の提案・擁護者から説得力ある論を見聞きした覚えがない。
「20年(の戦争)はあまりに長い」というのはその通り。その変形とも言える「際限のない戦争を終えなければ」が、最も一般的に聞かれる撤退推進の論拠だが、いずれも情緒的な意見であって、筋の通った議論とは言えない。
今回の撤収では既に兵士13人が死亡した。アフガンで1日に米兵が死亡した人数としては、2014年6月以来、最も多い。アフガンで死亡した米兵士の数を「年間」で調べると、15年22人、16年9人、17年14人、18年14人、19年21人、20年11人――となる。
どう見ても、米兵士の犠牲が甚大だからアフガンを撤退するとの主張には無理がある。半面、撤兵から得る益は何もないのに、被った打撃は計り知れない。同盟国としての信望、強大な国家という評判など、米国の威信へのダメージは強調しすぎることはない。
米国は北大西洋条約機構(NATO)と何の協議もせず、事前通告もしなかった。民主党は再三、トランプ前政権は同盟を傷付けたと批判したが、今回NATOに与えた衝撃はその比ではない。第一、前政権が同じことをしたら、同党と仲良しメディアが一緒になって、天と地が引っくり返るような大騒ぎをしていただろう。
一方、慌ただしい撤退と引き続く混乱は米国の弱さ、脆さのメッセージを世界に発信。中国、北朝鮮、イラン、ロシアや、イスラム系テロ組織に大きな益を与えた。
西側は昨年、中国の圧政に直面した香港を見捨てた。台湾も有事の際の米の支援は期待できない。対イラン関係修復の“願望”は相変わらず強く、米国はイランの行動に関係なく、核協議再開に向けた交渉を進める方針でいる。
ウォールストリートジャーナル(8/29)によれば、北朝鮮が寧辺の核施設で原子炉を再稼働させた可能性が国際原子力機関(IAEA)の報告書で判明。ロシアに対する宥和策もいつも通りだ。すべて、同盟国の支援には消極的な西側、特にそのリーダー・米国の姿勢の証明。アフガンは単に、同盟国放棄の最新例なのかもしれない。
「我々はより強く、より安全になる」(前掲の大統領演説)そうだが、そんなファンタジーとは逆の結果が遠からず出るだろう>
古森義久先生もバイデン・民主党の“ボケ”振りにウンザリしている。「バイデン大統領は腕時計を見ていた」Japan In-depth 2021/9/6から。
<バイデン大統領の支持率が急降下した。人気が就任以来、最低となったことを多数の世論調査が明示した。アフガニスタンからの米軍撤退の方法が失敗だったとする非難が国内の多方面から浴びせられた結果だった。
だが、なかでも最も厳しいバイデン非難は、アフガンで戦死した米軍将兵の遺体の帰還の式典の最中、彼が時間を気にして腕時計を何度もみていたことに対して浴びせられた。
同時に、戦死した将兵の遺族たちとの会話でバイデンは自分の長男の病死のことを何度も話して、遺族側からたしなめられた事実も広く報じられた。
戦死した海兵隊のカリーム・ニコウリ上等兵の母シェーナさんは、もっとも激しくバイデンを非難した。彼女のフェイスブックでの発信は「私の息子の遺体が他の12人とともに祖国に着陸したという厳粛な瞬間にバイデンは5回以上も腕時計をみて、時間を気にしていた。
祖国のために命を犠牲にしたアメリカ人の若者の霊に最大限の弔意を表すべきアメリカ大統領が他にもっと重要な用事があるかのように時間を気にするとは、死者への冒涜だ」と、激しい言葉での糾弾だった>
認知症のようなバイデンが任期中に引退すれば、カマラ・ハリスが大統領になるが、ハリスは移民問題などで味噌をつけ人気がいまいちだ。日刊サイゾー9/17によると、
<グアテマラから米国境に殺到する不法移民に向けて、「米国とメキシコの国境まで、危険な旅をしようと考えているこの地域の人々に、私ははっきりと言いたい。来ないで。来てはいけない。我々の国境に来れば、追い返されるだろう」と呼びかけた。
グアテマラでの一連の失言から3カ月がたつ。その後、ハリスが失地回復に何らかの具体的行動を取ったとの声も聞かれない。
世論調査データ収集サイト「リアル・クリア・ポリティクス/RCP」によると、ハリスの支持率は41.2%で、不支持率が50.4%(引用した各世論調査は8月7日から9月7日まで)となっている>
RCPの数字は主要メディアの調査の平均値で、9/17付けの数字ではバイデン支持45.6%、不支持49.6%、ハリス支持41.4%、不支持49.8%。
世界がイスラム過激派、中共帝国主義、コロナの「3大禍」に見舞われている現状では、米国に限らずリベラル≒アカモドキの自虐的、融和的、「敵の善意を信じる」ような脳内お花畑的「私はいい人、みんな地球市民、仲良くしましょう」的な政治ではとても危機を乗り切れないだろう。
小生は身近にコロナで死んだ人を知らない。幕末の江戸を中心に猛威を振るったコロリ(コレラ)では将軍をはじめ7万3000人がバッタバッタと死亡した。コロナで死んだのが全国累計で1万7000人(多くは高齢者)で、全年齢で見ると致死率は0.1%~4%。ちなみに季節性のインフルエンザの致死率は0.1%程。
「1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病のパンデミックは史上最悪の規模となり、ヨーロッパ人口の3分の1が命を落とした」とか。医療がゼロの時代と今では比べようがないけれど、コロナが「大禍」なのかなあとは思うが・・・
目の前の中共の脅威については小生は随分書いてきたが、イスラム教については勉強し始めたばかりであまり知らない。それはキリスト教との角逐の歴史でもあり、「平和をもたらすはずの宗教が戦乱を招いている、どうなっているんだ」ということで、ハッジ・アハマド・鈴木氏の「イスラームの常識がわかる小事典」を元にインタビュー形式で学んでいこう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
――唯一神アッラーの代理人である預言者、つまり始祖のムハンマド(モハメット、570頃~632)の死後からイスラーム教の分裂が始まった。タガが緩んだようですね。
「ムハンマドは死の間際に後継者(カリフ)を指名し、4代目までまあまあ上手くいった。2代目の時はペルシャ勢力、ローマ軍との戦争があったが、降伏すればキリスト教にも寛大だった。しかし2代目はペルシャ人キリスト教徒に暗殺されてしまった。
3代目で版図は北アフリカまで広がったんだが、人種、言語、慣習の違い目立ち、問題が増えてきた。融和政策で『不正蓄財以外はOK、儲けられる者から儲けろ!』とやったんだが、やがて富裕層がのさばり、一方で貧しい民衆の不満が溜まり、3代目は暴徒に暗殺された」
――中共はそれを真似ているような感じがしますが・・・それはともかくとして、2代目がイスラーム教への転向を拒否したキリスト教徒に殺された・・・つまり両派は一神教ですからガチガチの「共に天を戴かず」、イスラーム教とキリスト教は永遠の敵になったようです。3代目は“富裕層は喜捨、寄付して貧乏人に施せ”と、福祉政策を取り入れたそうですが、これでは民は働く意欲を失い、国家も停滞しかねない。4代目も内政重視ですか?
「4代目は始祖ムハンマドのいとこであり、かつムハンマドの娘の夫、血筋がいい上に武勇に優れていた。即位で事態は沈静化すると期待されていたが、ただ、質素清貧、直情型で、政治的な配慮や手法に欠けていたようだ。
“先代の暗殺事件の責任追及が甘すぎる”など、部下には不満分子が多く、657年にはシリア総督軍と内戦になり、シリアは事実上独立、失意の中で4代目も暗殺されてしまった。
それでもムハンマド後の正統4カリフの時代はイスラーム帝国の「黄金時代」だったが、その後は政治の中心がシリアになり、アラビア半島に戻ることはなかった。シリアではカリフの地位は世襲制に堕し、シーア派という分派の成立も世襲制が深く影響している」
――東西のイスラーム勢力が対抗したり権力争いを始める。一枚岩ではなくなった。
「この虚を突いてキリスト教徒の十字軍遠征が始まる。11世紀末から13世紀末まで続いたが、彼らの「聖地奪還」というのは名目だけで、実際は軍事侵略と収奪でしかない。我々はそれを宗教運動とは見ていない。
実際、1099年に聖地エルサレムを攻めた十字軍は組織的な軍隊ではなく、無差別の虐殺、略奪の限りを尽くし、地中海沿岸は占領された。1148年の第2回十字軍遠征に対してはアラブ・イスラーム側の準備が整い、迎え撃つことができ、1187年にはエルサレムも奪回した。1190年の第3回十字軍遠征では和平協定が結ばれた。
1204年の第4回十字軍はムスリム世界を攻撃せずに、東方キリスト教会のコンスタンチノープルを攻撃して殺戮と強奪に終始した。
1218年の第5回十字軍のエジプト攻撃あたりから様子が変わってくる。エジプトが勝ったのだが、1229年に聖地エルサレム割譲の密約を結んだのだ。アラブ世界は大反発したが、当時は「タタール」と呼ぶモンゴルが東からイスラム世界侵攻を開始しており、西からは十字軍の攻勢により、未曽有の災厄に見舞われていたから、やむを得ない措置だったかもしれない」
――モンゴル帝国軍は1229年にはアフガニスタンやイランに到達している。侵攻を退けた国は日本とエジプト王朝(スンナ派のマムルーク朝)だけだったそうですね。続きは次回にお願いします。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
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