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「我が街 宿河原」/2

2025-04-20 16:34:47 | 戦争
「我が街 宿河原」/2
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」388/通算819 2025/令和7年4/20 日曜】 さてさて、話は変わります。いささか私事のようで恐縮ですが、私は神奈川県高座郡座間町入谷、「鈴鹿明神社」そばの農業兼便利屋(どんな問題でも対応する何でも屋)の家に生まれました。3歳の時(1954/昭和29年)に父の生まれ故郷の宿河原に引っ越しました。大型トラックの高いところの助手席に乗った父母に抱かれながら街を見下ろす・・・初めての経験です。見るものすべてが強烈で、それが世の中を知る第一歩になりました。

大東亜戦争(太平洋戦争、第2次世界大戦)の勃発後、宿河原の大規模農家の次男だった父は職業軍人を目指し近衛師団に採用されました。天皇と宮城(皇居)を警護するのが仕事です。敗戦濃厚の際は、敗戦を伝える天皇陛下の「玉音放送(レコード盤)」を阻止するクーデター「宮城事件」に一兵卒として動員されています。ちょっと長いですがWIKIから引用します。

<1945年(昭和20年)8月14日未明にポツダム宣言受諾が決定し、それを昭和天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせる「玉音放送」を放送することが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが近衛第1師団長森赳中将へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。

拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの叛乱を知り、叛乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる。のちにこの事件は半藤一利により『日本のいちばん長い日』として小説化、さらに映画化された>以上

小生が16歳の1967/昭和42年に父が「映画を見に行こう」と誘いました。『日本のいちばん長い日』でした。玉音盤争奪戦の模様をリアルに描いており、父は「そうだったのか!」と感動していました。尋常高等小学校卒の父は頭脳明晰、成績優秀ながら、仕事で日経新聞をチェックするだけで「読書の習慣」はまったくありませんでした。教養・学問系読書や産経新聞が大好きな小生にとっては残念なことですが・・・

敗戦後の父は座間町入谷の“シーチン”家の「戦争寡婦」と結婚しました。近くに米軍基地「キャンプ座間」(Camp Zama)があり、とりあえず神奈川県の準公務員としてそこに派遣されました。キャンプ座間には在日米陸軍司令部、米陸軍第1軍団司令部などが置かれていましたが、その費用はすべて「敗戦国日本」の負担です。

父の最初の仕事は米軍将兵や同行した妻子のための炊事でした。「欲しがりません勝つまでは」と粗食に耐えていた人々にとって、米兵が食べ残した残飯はとても美味しかったのでしょう、小生に「お前はアメコウ(アメリカ人の蔑称)の残飯で育った」と笑いながらしばしば言っていました。この「残飯」ですが、米兵のなかには残飯にタバコの吸い殻を入れるなど根性の悪いゲス野郎もいて、父は吸い殻や汚物を排除したもの、特に肉類を家に持ち帰ったのです。

アメコウもピンからキリまで色々ですが、炊事担当時代、父は米兵から「態度が悪い」と右目のあたりを撲られ、その痕が亡くなるまで続いていました。プライドの高い近衛兵だった父にとって、それは随分、屈辱的なことだったでしょう。そんな折、1950年に「朝鮮戦争」が始まると占領下で逼塞していた旧日本軍が主に米軍の後方支援で大活躍をするようになり、父もプライドを取り戻していくようになりました。(次号に続く)
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