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雀庵の「常在戦場/126 危機感を持って戦争に備えよ」

2021-12-15 09:24:35 | 日記
雀庵の「常在戦場/126 危機感を持って戦争に備えよ」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/406(2021/12/15/水】多摩丘陵とその先の丹沢山系の山並みは随分落葉したので富士山が大きく見えるようになった。12日は快晴だったので桝形山の展望台からオペラグラスで眺望を楽しんだが、落葉のお陰で我が家の隣の建物も見えた。秩父山系、ランドマークタワー、東京タワー、高層ビル群もよく見え、本格的な双眼鏡があればもっと楽しいだろう。小さくて軽くて高倍率の双眼鏡・・・隣町の質屋に聞いてみるか。


毎週末には近所に引っ越してきた中1の孫娘が遊びに来るが、先週には「午後から友達10人とカラオケに行く」と嬉しそう。好きな歌手を聞くと「夜遊び、かいりきベア、ピー丸様、ハニーワークス、初音ミク」だという。歌ってもらったが全然知らない、理解できない、ほぼ外国語。「ヂイヂは?」と聞かれたので、「そうだなあ『明治一代女』なんて好きだなあ」。


♪浮いた浮いたと浜町河岸に 浮かれ柳のはずかしや 人目しのんで小舟を出せば すねた夜風が邪魔をする 怨みますまいこの世の事は 仕掛け花火に似た命 もえて散る間に舞台が変わる まして女はなおさらに・・・


カミサンもクネクネと右に左に体を揺らして「巳之さん、堪忍してください 騙すつもりじゃなかったけど どうしてあの人と別れられないこのお梅の気持・・・」なんて台詞を言ってノリノリ、孫娘はニヤニヤ。嗚呼、明治も大正、昭和も遠くなりにけり、栄枯盛衰、世の倣い・・・


「明治一代女」の作詞は藤田まさと(1908/明治41年~1982/昭和57年没)。この歌は1935/昭和10年11月に新橋喜代三の歌唱で大ヒットした。藤田の作品には「岸壁の母」「傷だらけの人生」「浪花節だよ人生は」などもある。小生は二葉百合子の「九段の母」(作詞 石松秋二)も好きだが、島倉千代子の「東京だョおっ母さん」(作詞 野村俊夫)はいつ聞いてもウルウルしてくる。神がかっている。


歌に限らないが、いいものは時のスクリーンを越えて生き残る。そういう生き方をしたいと思うことだけでも一歩前進ではないか。現実は迷うことが珍しくない。むしろ人生は迷いながら進む・・・コロナ禍で世界はほぼ「鎖国」状態だが、このまま必要最低限の国際往来に限った方がいいのではないか・・・と必要最低限の外出しかしないヒッキーの小生は思うが。


夕べはそんな「鎖国」の是非を思いながら眠りについたせいか、「カフカ的な迷路にはまってどうすることも I can not」の悪夢を見た。40年ほど前に米国ニューメキシコ州を取材中、サンタフェへの道に迷って素朴なオッサンに助けられた体験がベースになっているのだが、もうぐったり。「鎖国」か「開国」か、難しいテーマだ。


WIKIによると、この「鎖国」という語は、江戸時代の蘭学者、志筑忠雄(1760〜1806年)が1801年の『鎖国論』で初めて使用した。「鎖国令」という語は明治以降の研究者による名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられたことはなかったという。


<幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを「閉洋之御法」とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた。海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた。


(江戸時代の)対外関係は朝鮮王朝及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)及びオランダ(東インド会社)との間の通商関係に限定されていた。


家康は当初、貿易による利益を重視していたが、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなった。


また家康は、1612年の岡本大八事件(キリシタン大名が絡む贈収賄事件)をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年にキリスト教信仰の禁止が明文化された。国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威となり、締め付けを図ることになったようである。


当時、海外布教を積極的に行っていたのはキリスト教の中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革に端を発するプロテスタント勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが「海外に活路を求めざるを得なかった」という背景がある。


なお、海外との交流・貿易を制限する政策は徳川日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていたこともあり、現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東北アジア史を視野に入れてこの「海禁」という用語を使う傾向がみられる>


国際的な物流、高度人材の人流はOKだとしても、宗教も一緒に入ってくるのは、2000年前後も神道仏教儒教の多神教混ぜこぜ環境で育ってきた日本人の小生にはちょっと嫌な感じがする。伴侶がモーレツな一神教信者になった、なんていうのは一種の悲劇、人災ではないか。「宗教に淫するとロクなことにならない、いいところをツマミ食いすべし」という小生は「我こそ唯一の正義」という一神教は基本的に嫌いだ。


以下はネットにあった情報「【ざっくり解説】世界の3大宗教・5大宗教とは?」から。著者は「青春病」で「いかに生きるべきか」の解答を宗教に求めて必死に勉強したようだが、その勉強を通じて何事かを悟ったようである。


【ユダヤ教】紀元前1280年〜 信徒1400万人。キリスト教やイスラム教と同じく「旧約聖書」を基とした一神教。旧約聖書の登場人物であるアブラハムが、神(ヤハウェ)の啓示の通り、神が示した土地パレスチナ(カナン)を目指したことにより、神は素直に言うことを聞いたアブラハムを可愛がり、カナンの地を与えたとされている。


彼の子孫たちが「ユダヤ人」ということらしく、ユダヤ人は自分たちを「選ばれた民」と自負している。ヤハウェはキリスト教やイスラム教が敬っている神と同キャラ。


【キリスト教】西暦0年〜 20億人。イエス・キリストが開祖で「旧約聖書」と「新約聖書」を基とし、神とイエス・キリスト、聖霊の3者すべてが同ランクである三位一体制をとっている。


キリスト教において「聖書」とは、神に託された言葉を預言者(神の代弁者)が受け取って、ストーリー仕立てにしたもの。「旧約聖書」はキリスト以前の預言者が脚本を担当し、「新約聖書」はキリストの弟子たちがキリストの言葉を文字起こししたものとされている。現代では、キリスト教の中でもプロテスタントとカトリックなど、宗派のような派閥もある。


キリストはユダヤ教徒に処刑され、3日目に蘇り、40日間弟子たちと過ごした後、天に上げられ、雲の中に消えた。キリストはその身を生贄とし、過去から未来の人々の罪を肩代わりしたため、人々は代償なく赦しを乞うことができるようになった。


【イスラム教】西暦610年〜 12億人。ムハンマドが開祖で、ユダヤ教と同じ一神教。ムハンマドはメッカを支配していたアラブ人の部族に生まれ、40歳のときに大天使アッラーから啓示を受けるようになり、遅咲き預言者デビューを果たす。


イスラム教においての聖書「コーラーン」は、キリスト教とは違い神の啓示をムハンマド1人が訳し、体系的にまとめたもの。ムハンマドが最後の預言者であり、神の最終的な啓示はムハンマドが受け取っている、という考え方。


しかし多神教を信じるものが多い時代にあっては、偶像崇拝を禁止するイスラム教は商人や貴族の反感を買い、迫害されてきた歴史がある。ちなみにイスラム教は「キリストはムハンマド以前の最高の預言者であり、“神の子”なんてあり得ない」と解釈している。


イスラム教は信じないといけない信仰であり、すべき行為があり、「アッラーの慈悲のお陰で世界はある」というのが基本的な戒めである。


【仏教】紀元前450年〜 4億人。絶対的な神は存在せず、全てが神という諸仏の思想。インド・ネパールあたりに領土を持っていたカピラバストゥという国の王子ゴーダマ・シッダールタが開祖。


本来ブッダ(仏陀)とは、悟りを開いた人という意味だが、分かりやすいので以下ゴーダマ=ブッダとする。ブッダは恵まれた環境で育っていたが、虚弱体質ということや、家庭に問題があったりと、少々病み気味で幼少期を過ごしていたため、人生を悲観的に考えていた。
そんな悩みの解決策を探すため、生まれて間もない自分の息子にラーフラ(邪魔者)と名付け、29歳で出家した。


当時、流行っていた苦しい修行を行うも「これは意味ない!」と途中で投げ出し、修行仲間からも嫌われていたが、一人で座禅を続け、見事悟りの境地にたどり着いた。80歳まで現役バリバリで教えを説いてまわった後、食あたりで亡くなった。仏教は宗教間での大きな争いがないということも素敵だ。


【ヒンドゥー教】紀元前300年〜 8億人。インド発祥の宗教で多神教。宇宙を創造したブラフマーと、宇宙を維持するヴィシュヌ、破壊の神シヴァの3神が一体で、最高神が姿を変えてあらわれたものと考えられている。仏教のブッダもヴィシュヌ神が変身した姿と考えてるらしい。


知識(真理を学び知る)・行為(義務を怠らない)・信愛(神への献身)という三つに沿って、真理と自己が一体であること(梵我一如)を認識し、輪廻からの解脱を目指す。また身分や職業を規定するカースト制度と密接に関係しており、現世で低いカーストなのは、前世の行いが悪かったからで、現世で良い行いをしたら、来世で高いカーストに上がれるという輪廻転生観が強いのも特徴。(以上で引用終わり)
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仏教とヒンドゥー教は教義が寛容とかアバウトなのだろう、宗派間や他宗教との戦いはあまり目立たないが、強烈な一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教は対立、紛争、戦争の歴史でもあると言っても過言ではないだろう。幸福のための宗教が騒乱のタネになったりが日常茶飯事のようで、先の米国大統領選挙でも宗教対立が目立っていた。


ユダヤ思想研究家・手島佑郎著「世界の宗教紛争の歴史と現在 宗教の絶対性と排他性」(「大法輪」2002年1月号)から。  


<宗教は慈悲や愛、救いや平和を教える。それなのに、宗教紛争や宗教戦争がなぜ起こるのか。その実態はどのようなものか。いま改めて考察してみよう。


仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教など、いずれの宗教も平和や救いを教えている。一方いずれの宗教も、人智をはるかに超える超越者への絶対的信頼、または普遍的真理への絶対的確信をその信仰の基礎としている。この宗教に帰依すれば、自分は本当に救われると確信するから、人はある特定の宗教を持つのである。


宗教のもつこの絶対性は、個人の心のなかに信仰として収まっているかぎり、宗教は外界と争いを起こさない。それどころか、その帰依する超越者への感謝報恩のしるしに、しばしば宗教はその信徒を他人への慈悲や慈善という行為へ個人を駆り立て、宗教は社会的徳として人々から称賛をうける。


ところが、他の宗教や類似の思想活動と対抗する局面に遭遇すると、宗教はおのれの絶対性を信じるがゆえに、一転して自己の優位性を主張し、排他的となり、ときには闘争をも辞さなくなる。これは、教義や思想の対決論争だけで終わる場合もあれば、長期間にわたって互いに自己の正当を主張し、相手を不当とする非難応酬に発展する場合もある。


英国の歴史家トインビーは宗教と宗教の戦いを次のように指摘している。「自称『正しい』宗教が『間違った』宗教を迫害すると、その迫害行為により、自称『正しい』宗教は誤りにおちいる」>


主義主張も同様で「私は正義病」になりやすい。正義病になると「異端」を憎み、あるいは無視する、バカにする。耐え難くなると罵倒する、叩く、やがては小競り合い、暴力の応酬、最後は戦争になる・・・第三者としては「内紛、内戦なら勝手にやってくれ」と突き放すことができるが、やがては火の粉が自国に押し寄せ、国益を考えてどちらかに加担、かくして群雄割拠の戦国時代、さらには世界大戦になったり。


今朝は今冬の初氷だった。いよいよ冬になる。世界情勢も冷え込んで「明日は明るい日」どころか熱戦がいつ始まってもおかしくない感じだ。「海禁」して国際往来は控えた方がいいと思うが、それは平時ならできるかも知れないが、習近平・中共、プーチン・ロシアの戦争による「一点突破、全面展開」を目前にしている今はできやしない。危機感を持って戦争に備えないと再び日本沈没の憂き目に遭う、為政者は日本の危機、世界の危機を冷静に諄々と国民に説くべきだ。
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目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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