『哲学の歴史10 危機の時代の哲学 20世紀(I)』(野家啓一編 中央公論新社 2008) の総論で読んだ次の文章には強い衝撃を受けた。
このような状況の中で発せられたのが、「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮」であるというアドルノの言葉であった。詩を書くことが野蛮であるならば、哲学することもまた同様であろう。彼は主著となる『否定弁証法』(1966年)の中で次のようにも述べている。
アウシュヴィッツ以降は、このわれわれの生存が肯定的なものであるといういかなる主張も単なるおしゃべりに見え、そうした主張は犠牲者たちに対する不当な行為であるという抵抗感が沸きおこらざるを得ない。[略]肯定的に設定された超越的存在から輝き出てくるような、この世界の内在的意味を作り出す試みそのものを、あの出来事は嘲り笑わざるをえなくさせているのである。
イカはヨーゼフ・ボイスの「万人がアーティストである」という
考えを支持しており、わたしたちの行いは全てアートであると言っている。
ただし良いアートと悪いアート、そのどちらでも無いアートがあるそうだ。
いくつか例を挙げて聞いてみたら、何とアウシュヴィッツも悪いアートであるという。
イカの主張には拒絶反応を起こしてしまう。
読書会で会ったときにもう少しこのことについて話したい。
ヒトラーを生み出した後の、ロマンや道しるべは
愚行だということですか?
詩や哲学を否定すると、どう考え、満たされて
生きていいのか分からなくなりますね。
人生や世情はアートかぁ。
確かに唯一無二のものですから、誰しもが
アーティストとというのは分からなくもないです。
ammoniteさん、ストーブに缶コーヒーはヤバイです。
私、東京で1人暮らしをしていた時、ストーブの
上で温めていた缶コーヒーのプルトップを開けたら
シュワーーーッ!とコーヒーの霧が吹き出た事が
あります(^^;
もう部屋中、当時一緒に暮らしていた猫も
コーヒーの香りになりましたよ(笑)
缶の中には一滴も残っていませんでした。
あれ、もっと放置していたら爆発したんじゃないかな。
イカさんていうのは確か高校の時の先生でしたよね
わたしたちの行いはすべてアートですか
読書会でまたお話するのが楽しみですね
コメントありがとうございます。
アウシュヴィッツはヨーロッパの人々には
人間であることの完全な否定として
とらえられたようです。
その後に人間性を肯定的に主張することの
難しさが問題だったのでしょう。
まさに、どう生きていいのかを
分からなくしてしまったのだと思います。
そうした出来事までアートとしていいのか、
わたしには疑問に思われます。
ストーブで温めた缶コーヒーが霧を吹きましたか。
わたしも温めるときは気を付けて封を開けてから
ストーブの端に乗せていました。
密封された状態ではそのうち破裂しますからね。
一緒に暮らしていたねこには災難でしたね。
コメントありがとうございます。
いま読んでいる本ですが、よくまとまっていて、
分かりやすく書かれています。
いい本だと思いますよ。
そうです、イカはわたしが教わっていた美術の先生でした。
随分前の話です。
今はお互い学校とは関係なく交流しています。
わたしたち皆がアーティストで、
その行いは全てアートだと、イカは考えているようです。
アートの中にも良いアートと悪いアートがあるそうですが、
そこまで行くと何が何でも全部をアートと考えるのも
意味があるのかどうか、
わたしのような素人には分からなくなります。
次の読書会で会ったときにその辺りの話をしてきたいと思います。
ごめんなさいね。
イカさんって美術の先生だったのですか!
それでもなぜかお互いに交流があるのですね。
ammoniteさんは頭が良くて蛍のわからない
本ばかり読んでいますねぇ~
まぁ~ もう、後期高齢者ですから仕方ありません。
元気で風邪ひかないようにしてね!ってくらいしか
云えませんよ。
こんな婆ですがよろしくね。
コメントありがとうございます。
一人でいるとこんな事についてあれやこれや考えてしまいます。
イカには定時制の学校で美術を習っていました。
卒業後も個展に招待されることが度々あって、
いつの間にか読書会にも顔を出すようになりました。
わたしも頭が良ければよかったんですけどね、
アレなもので読書会の課題図書にも頭を抱えています。
元気でいるのが一番大事ですよ。
元気が無いと何もできませんからね。
蛍さんもかぜを引かないよう気を付けてください。
こちらこそコンゴトモヨロシクお願いします。