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名も無きねこに

『文章読本』 読了

2008-06-20 13:13:58 | わたし
先週、精神科の待合室で、三島由紀夫の『文章読本』を読み終えた。
ほとんど通院時にしか読んでいなかったから、かなり途切れ途切れになってしまい、全体がぼやけてしまったが、考えさせられた。

感覚的に好きになれない作家だったせいか、谷崎潤一郎による『文章読本』はあまり感銘を受けることも無かったが、三島のこの小著はとても示唆に富んでいて、さすが作家は違うなと思うほど、読み手としての力量に感心する。
三島独特の考えなのか、それとも国文学に一般の見方なのか、そちらには疎いのでわからないが、文章というものを様々な側面から二極化して分析しているのが特徴に思える。
平安期の女性による女文字(かな文字)文学と、男文字(漢字)の漢詩の対比をはじめとして、叙情性と観念性の対立、それらに根差した散文と韻文の伝統など、日本語による文章が取り得る形の範疇を示して、そうした歴史的・概念的な説明の合間に、内外の作家による文章を手本に、読み手が「普通読者」から「精読者」になるために手ほどきをするというのがこの本の目的なのだが、読むことに限らず、物の見方についても学ぶところが多々あった。

文章の私的機能と公共的機能が分け隔てられる以前には、ギリシア悲劇の様に第三の力(神の運命の支配)によって私的感情と全市民の生活が結び付けられていたという一節は、『日本人はなぜ無宗教なのか』(阿満利麿 ちくま新書)で扱われていた、宗教の不在により私的生活と公的生活が切り離された社会と共通している。
個人の情念を取り扱う小説と、様式化された行動のみが述べられる叙事詩との対比もまた、私(感情)と公(行動)の対立だ。

公か私かという二分法的な思考は、何かの弾みでどちらかが一方に押しつぶされる。職務に押しつぶされ病気になり、いまは全く自分の内部に篭っているというわたしの失敗は、どこかでそうした思考に起因していたのではないか。
三島が最後に述べている。
「文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。」
わたしは書き手ではないが、私的な恨みつらみを越えて実質を備えた行動を記述するための、現象を克服する思考を身に付けることは、自己の治療に必要だと考えている。それには私と公以外の第三の何かが必要だ。
彼は、文章の理想である気品と格調は、古典的教養から生まれるという。わたしに必要な何かも、きっと都合よく見つかるようなものではなく、積み重ねて、練り上げる作業が必要なのだろう。
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