フローレス島ルーテン近郊の小さな村に住む知人を訪ねた。
午前10時頃だったか。
何はともあれ、どうぞどうぞと、家の中に招いてくれる。
ガランとしてほとんど何もない家。
ジャワ島の町の人たちが住んでいるようなコンクリート造り、タイルの床のピカピカした家ではない。
柱は木、壁と屋根はトタンで、中に入るとそれがむき出しになっている。
屋根が薄いので暑いのかと思うと、意外とそうでもなくて、外よりはずっと涼しい。
そして薄暗い。
家の中に入るより外にいる方が気持ちがいいので、外でいいというと、
ゴザをもってきて外に敷いてくれた。
そして20分ほどして、お芋が出てきた。
白いお芋はキャッサバなのかと思ったけどそうでもないらしい。
白い方はほとんど甘みがなく、赤い方はかすかに甘みがあった。
その小さな村の人達は、街の人たちとはちがって、
ものにあふれた暮らしはしていない。
早く言うと「貧しい」というのだろうか。
恥ずかしながら私は本当に貧しいということが自分の中でうまく分かっていないので
言い表すことが難しいのだが、少なくとも、お金がたくさんある暮らしではない。
食べ物もおそらく切り詰めているだろうと思った。
けれど、ここ以外にもう一つ訪れた、もっと貧しそうな村でもそうだったけれど
お客さんが来ると(=私が訪れると)、まず食べ物を出してくれる。もてなしとは、食べ物を出すことなのである。
なので、相手が(私が)空腹だろうとさっき食べたばかりだろうとそんなことにはおかまいなく、まるでザブトンを出すように食べ物を出してくれる。
もちろんザブトンは減らないが食べ物は減るので負担は大きいはずである。
私が彼らの役に立つ人間ではないにもかかわらず、大歓待してくれるのだ。お客さんが来たということが、彼らにはそれなりにうれしいことなのだと思う。お客の来るところに福が来るという発想があるのではないか。
ほんとうにギリギリの暮らしをしているらしき人たちからそういうもてなしを受けると
恐縮して、日ごろの飽食を反省してしまう。
遠慮して全然食べないのもよくないし、かといってバクバク食べつくすのも悪いだろう……、と、その加減にどきどきしながらいただくのである。
心づくしが身に沁みる。
今の日本で、食べる量を制限する理由は、健康のためかやせるためである。食費を切り詰めるためにご飯の量を減らすという人は、いるにはいるが、そんなに多くないと思う。上等の牛肉じゃなくワンランク下げた牛肉を買うとか、カニじゃなくてカニカマボコで我慢するという人は多いだろうが。お米やパンなどの食料品が比較的安いからということもあるだろう(それも円高のおかげが大きかったのだがこれからのことは知らない)。
インドネシアの山村では、家計のために食べる量をセーブしているお父さん、お母さんがいることをひしひしと感じた。これは本当は生物としては当然のことなのだけど、そうしなくて済んでいる日本を、不思議に思うと同時に、本当に有り難く、贅沢なことだと感じる。
これらの小さな村から帰ってくると、しばらく粗食になるが、そのうち戻ってしまう。
写真/フローレス島ルーテン近郊で(2012年)
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