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ちょっとまた長々とこ難しい話ですが『春琴抄』におけるイメージ論について

2004-12-05 01:52:59 | Weblog
『春琴抄』を読んでいて感じたことの一つは松本清張の「或る『小倉日記』伝」に似ているということであった。それは、この小説を書いている作者本人がその小説の中で、その作品の執筆の経緯を明らかにしているということであるが、これは小説技法の上でそれほど珍しいこととは言えないだろう。しかしそれを自然に行うのは難しいように思われる。

特にこの二つの作品においては執筆のきっかけとなった小冊子あるいは日記について書くことが、小説の一部となるわけで、その小冊子がどういうものであるのかを書くこと自体がかなり難しい部分もある。ためしに新潮文庫版で8ページの最初の6行ほど(「伝によると」の前まで)を読んでほしい。ここでは「検校」(けんぎょう)という言葉が何度も出てくるのであるが、もうこれだけでちょっと自分などは参ってしまう。

ただこうした文章を経て初めて作者谷崎自身の春琴に対する視点と言うものが獲得されてくるのであり、このような作業の後に小冊子が描く春琴ではなく、作者谷崎の春琴に対する視線というものが生まれてくるように思われる。9ページには春琴の37歳の頃の写真のなかの彼女の風貌が描かれる。

ここで谷崎が長々と春琴の風貌を書いていることには理由がある。その理由は10ページの段落の終わりの4行ほど、「検校がこの世で最後に見た」から始まって「作り上げていたであろうか」で終わる部分に明らかになっているように思われる。つまりここで谷崎がやっていることは一種のイメージ論であって、これは大変奥行きの深い問題であるが、考えようによってはここで谷崎は写真で見ることのできる春琴の美しさをあえて言葉という全く違うメディアに置き換えようとしているのではないだろうか。あるいは写真によって伝えられる美しさを言葉によって伝わる美しさが超えられるかという実験をしているのかもしれない。そして言葉によって女性の美しさが伝わるのであれば、眼の不自由な人にとっての視力に代わる役割を言葉がなしうるかもしれない。

つまりわれわれはその写真を見ていないわけだからある種われわれも眼の不自由な人と同じ立場に立って谷崎の言葉によって春琴のイメージを作り上げていると言うことになる。
当たり前のことであるがこの作品に限らず小説と言うものはそのように言葉によってイメージを作り上げてゆくものであるということがいえるが、そのことを写真を見てその風貌を言葉で記すと言うことにより明確にしているということがいえるのではないだろうか。