霊山城[編集]
南北朝時代の1337年(延元2年)、北畠顕家が霊山城を築き義良親王(後の後村上天皇)
を奉じて陸奥国の国府を置くなど、奥羽地方における南朝方の一大拠点として機能した。
しかし、北朝方が優勢になるにつれ、霊山の南朝軍も追い詰められていき、
1347年(正平2年)、ついに落城した。以後、霊山が歴史の表舞台に現れることはなかった。
域内の日枝社観音堂は往時をしのぶ遺構とされる。
なお、山頂部分(国司舘跡)には現在も当時のものと思われる礎石が残されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%B1%B1_(%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C)
宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日
(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。
後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。
同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。
信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。
法名は尊澄法親王。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。
その末裔を称する大橋氏が、北畠顕家を奉る霊山神社
(社格:明治天皇選定による別格官幣社:建武中興十五社の1つ)の氏子総代となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
後村上天皇
後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、
南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) -
正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。
諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた[3]。
後醍醐天皇の第七皇子。母は、阿野公廉の女・廉子(新待賢門院)。
女御:源氏 - 北畠親房女
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87