アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

9月っから写しが止まってる。新羅の件だ

2017-12-29 14:32:52 | 日本にあった新羅族(朝鮮半島移民)
多賀城占拠はじめた桓武平氏 その頃には多賀の歴史が抹消されてる

これに憤慨しないできた関西に新羅なんていねーな

憤慨してんのあたしなんだけど

あたしの血に新羅が混ざってるのかどーか それはわからんが どうしたって納得できん

これ 多賀が悪者になってる場所は全国でも 伊勢と大阪だ

他にもあったかもしんねーが代表してるのはここ

それが原因となって今度は山口県で実盛さまって作って厄災流しをし続けていたのが発覚

この斉藤実盛は埼玉エリア

なんで山口県で実盛に厄をつけ水に流すのか

実盛は木曽義仲の育ての親だ

実盛は最後の時 木曽義仲と戦し合う立場になり、最後だからと髪染めをしたと言われてる

義仲の家臣がとった首 それが実盛で、髪染めしたものが落ちて

それを見た義仲が泣いたという伝説がある。

んじゃ義仲は誰と戦ったのか。義仲は里山に隠されていた。境遇もうちと一緒。

そして境遇も一緒なら戦った相手も同じになる。

源平合戦で敗者とされた勢力のトップクラスだ 木曽義仲は。

義仲が戦った相手は源氏と桓武平氏だ。

桓武平氏はさいさん言ってるとおり九曜紋だ。

源氏とは百済源氏を指す。百済というのが李氏朝鮮と判明したから李氏朝鮮源氏で笹竜胆。

これと戦った義仲は嫁が新羅の娘だ 新羅と唐と置き換えしたら義仲の戦った相手とは

百済であり呉であることになる。

この理由は「白江村の戦い」の時 新羅+唐が同盟し 

百済つまり李氏朝鮮と、倭これも李氏朝鮮と夫余移民が戦し新羅と唐に船を沈められた。

その時に当時あった半島の国 百済は滅亡したとされていた。

いやいや 日本に移動してきただけなんだよ。

んだから日本にいる新羅が目の仇 大昔っからだ。これで戦争やってんだ 大きな戦争

を何度も。

当然義仲は新羅勢力と位置づけられ 敗戦に持ち込まれた。ということは外野は白江村の戦い

で船を沈められた連中。

そしたら源平合戦とは源氏が勝ったのではなく、百済源氏と桓武平氏が勝って

平家と新羅系と唐系は負けるように仕組まれた。

ここではっきりする。源平合戦でこれだもの 多賀の母親八坂は新羅だもの これまた過去を

奪われて多賀は悪党とされ1000年近く悪者扱いされてきた。

その多賀が悪者と位置づけた場所が大阪の百済神社ある界隈と百済寺がある界隈

そして伊勢だ。

新羅がこういう惨事に合ってきた理由を見たら、関西そして大阪滋賀で新羅を詐称してきた。

新羅は悪という歴史をそのままにしておけるはずがない 新羅だというならば。

あたしはこの騒ぎを数年うったえてるから、今更変更あるものはすべて疑わしい。

あたしにそれほど怒らせた連中が身分詐称してた事をこれほどやってようやく動き出す。

あたしがここまで騒いでるからようやく斎藤実盛は解放される。

あたしは山口県に実盛に厄つけて流すのは責任転嫁の思想を持つ原因になるからやめろと

提示してる。もしそれが実盛と特定されてなかったらここまで騒がなかった。

人に厄つけて流すとは、これ現実 これとまったく同質の殺人事件起きてるから 何度も。

具体的な例あげるか?? 秋田で母親が自分の子を橋から突き落として死亡させた事件。

これまさしくこれだから。現実になっただけ!

これ実は何年か前に年末特番で未解決事件特集あってその中でやったわけさ。

そん時あたしはヤフー使いながらリアルタイムで事件全貌の推測書いてる。

たぶん もうその記事は消されてる分かもしんねーが、警察よりもはるかにあたしのほうが

効率がよく解明できんの。警察はこーいう風習言わないから 全国でわかんなかっただけ。

山口県でやめるかどーかわからんが実盛に厄つけて流す風習があって それは実盛の像

ある埼玉県民からしたら聞きたくない話になる。

もしも厄流しすんなら、不特定で人物を決めないでやる事。あたしはこれを推奨する。

これもし仮に実盛を尊敬してたから厄持っていってもらおうと思った!と言われても

あたしが親族ならば やっぱりムカムカくる。

尊敬してるなら厄を押し付けてもいいのか??

山口県でやってたという実盛厄流しやってたということは、これ作った連中はそのエリア

の宮司と毛利だな。

馬鹿朝廷を存続させた毛利 いよいよ朝廷の過去皇族は素性がバレて

不良債権だと認知された。

毛利は大江だから。過去の歴史で朝廷に金を貢いだ連中 それぞれが今の国難。

誰らがその穢れどもに献金してたか出せば納得がいく

そいらみんな気持ち悪いから。

やっぱ 天皇やりますと言ってでっちあげ勢力誇示してきたからにはいかに不良債権か

示さないと。そしてこれを利用してる武家どもがチンピラ公職員これもまったくダメだ。



https://ja.wikipedia.org/wiki/後花園天皇
本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶり(称徳天皇→光仁天皇以来)。 以後この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。
同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87


後土御門天皇
明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。
後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
足利将軍家 足利と清和源氏 安倍普三は清和会 自称清和源氏



後柏原天皇
文明12年(1480年)12月13日に親王宣下。明応9年(1500年)10月25日、後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかしながら、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった[1]。
また、11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など[2]、主要な献金元である幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、室町幕府や本願寺9世実如の献金をあわせることで、即位22年目の大永元年(1521年)3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87
足利と一向宗と細川



後奈良天皇
明応5年(1497年)1月26日、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87



正親町天皇
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった[1][注釈 1]。
朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇を保護するという大義名分により、京都を制圧した[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87




この抜粋でこれらが今どの勢力になってるか

細川は日本赤十字の社長近衛ただ輝は細川の息子だから。

日本赤十字と政治家の細川細川護煕。

足利は清和源氏 清和源氏で安倍普三 その他はおそろしい会津藩士に足利いたのか!

足利将軍家の子孫はいますか? - 15代将軍義昭の嫡男・足利義 ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp > ... > 歴史 > 日本史 - キャッシュ
15代将軍義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となった後、興福寺の大乗院門跡と なった。義尋は後に還俗して二人の子をもうけたが、二人とも仏門に入った。このため 義昭の正系は断絶した。 寛政年間、会津藩士の坂本義辰は義昭の長男である足利義 喬の子孫と名乗った。義喬は近江国坂本で一色藤長に養育された後、子孫は保科氏に 仕え坂本姓を名乗ったとしている。また、「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集』所収)において泉州蟄居の際にできた子として、足利義 ...

伏見は旧皇族とされてる連中として

後は大江 大江は毛利と最上と寒河江 つまり山口と山形にいる計算

そのうち山口毛利は桂太郎 うちの敵方にヒットしてくるもの勢ぞろい

毛利の延長でゾロゾロ出てくる。山形山寺は清和天皇の墓みたいなもんがある。

そこに天童丸の墓があると誘導ブログ書いてたヤツ その時点では消えてる。

結局天童丸とは虚構。相馬人殺しどもが成りすましすんのに作ったもの。

実質顕家の子には天童丸は存在しない。

そういう事を何百年もやってきた連中すべてがうちの先祖らの仇になっていた。

しいて言えばギリギリで松代が顕家の死後に誰かの子を孕んで産んだ子 これが可能性は

あるとしても、それは顕家の子ではない。こんなの子供だってわかる。

松代の子に天童丸がいたとしてもそれを顕家の子と嘘ついてうちの身分の成りすましするよう

な事は背乗り行為だ。ギリギリ可能性で松代が顕家の死後誰かの子を宿して産んだ場合

その子供は身分は松代の子。うちと関係がない。松代自体身分なんて低かったのだから

その子がいたとしても当然うちとは別格。そしたら相馬の人殺しの誰かが松代と関係持った

ということだよな?? そいつが松代を孕ませ その子は俺の子ではなく顕家の子だと言った

場合、詐欺事件。どっかの百姓に種付けさせて産んだ子が顕家の子??

松代はとっとと死ねば良かった こんな何百年もこんな目にあわせておいて

塚なんてとんでもない。不幸の元凶だ。






大阪でよくこれ出したな 

2017/9/9(土) 午後 10:51

これで過去歴史がまた変わるかもしんねーぞ??

あたしを信頼してるってことか??

直感で これ 三韓の辰韓 秦韓 馬韓のうちの辰韓となってるけど

あたしのアタマん中で

かつての辰が四天王寺エリアって事か

百済信仰から脱する事になるけど 一部は。それも含めて出したんだな??

結果からさかのぼると、新羅の大義を出してやるには朝鮮の出さないとダメだから。

新羅を否定したら八坂を否定する事になるし。

それを望んでるんだな??肯定してほしいと。

そしたらあたしは新羅の大義を探してたわけだ。

そしてインチキ天皇家は新羅を嫌ってるのは大阪でもわかってんだよな??

つーことはいくら朝鮮であっても殺し合いした血と血だって言ってるんだ 

あたしは。

新羅も百済も朝鮮よって言うなら、多賀はなんで桓武に殺されてんのってなる。

そのあたりを理解してくれてるって事な??

んじゃアキヒトらが新羅は嫌いって言ったわけではない。

どうして新羅を嫌ってるとあたしが言えるの??ってなれば

明仁は自分の口から桓武天皇崇拝をにごしてる。

そうなれば桓武の祖先 百済と戦争した新羅と唐は自動的に否定されることに

なるっていうわけだ。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする