アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

ついでだから書くけど、おまつりしますとか言うヤツ 赤の他人 行事やってる人間も赤の他人

2015-07-31 00:43:16 | 神仏

うちの親は霊山神社の行事をあるたんび気にかけては行ってた。

その宮司はじめ、そのお祭り自体がうちの系統なのに赤の他人。

ましてや、行くほうが身内なのに、行事やってる人間たちは赤の他人。

赤の他人が、さも身内のようなつもりして仕切ってアレコレやってんだ。

ほんで、気にかけてのぞきに行くうちの家族は見学者。

これ いったいどういう事なの??




この前の霊山神社のおまつりでは伊勢で来てたようだけども。




おまつりしますって、赤の他人が当事者を神輿にして金集めしてるようにしか見えないのにさ・・・。




それ、日吉神社のお浜下りなんてなおさらそうだ。




アンタ誰??っていう他人が白い神職の格好をして仕切りして おまつりされてんのうちの先祖なんだけど、アンタ達いったい何??

っていうこの状況 ふざけんなって話。

だから宮司の神様自慢なんて聞いてられないっていうの。

だから神社に宮司なんていらねーって何度も書いてるんだけど。




日吉神社でお浜下りに関与すんのは、本当にやめてください。




おまつりって、うちが先祖の墓をお参りするように拝んでやればいいだけの話。




赤の他人が、うちの自慢話して?? 金を集めて??




ほんでうちから金詐欺ってんだから、頭おかしいんじゃないの??




日吉神社に笹竜胆が屋根のど真ん中に入ってるから見てみろ。




ストーカーみたいに相馬藩の九曜紋入れて、自分らでその家を潰しておきながらおまつりしますって、刺されたいんだよな??




相馬藩に大金貸して返してもらっていないうちの身になってみろ!




あげくそこらじゅう 金を踏み倒して東京に逃げました

北海道に逃げました

なんていう相馬一族に貸した金返してもらってなくて、どんだけ迷惑こうむって無駄死にさせられたのか。




ほんで、東京 金がないから売り払いました

北海道 事業破産しました

ほんで相馬 同じく事業破産しました

って相馬一族の破産金額数十億だから。




あとうちから貸してやった金は間違いなく90億相当がひとつ、

他に数億うちで調達してるようだから。

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よって霊山神社もお浜下りも、うちの家系所以 山津見神社もうちの血統ゆかり

2015-07-30 16:19:36 | 日記
霊山神社 - Wikipedia


ja.wikipedia.org/wiki/霊山神社 - キャッシュ

1817年(文化14年)、松平定信がこの地に霊山碑を建てた。1868年(明治元年)、米沢 藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を起こし た。1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったこと ...







山津見神社 (飯舘村) - Wikipedia


ja.wikipedia.org/wiki/山津見神社_(飯舘村) - キャッシュ

焼失前の虎捕山津見神社拝殿 ... 山津見神社(やまつみじんじゃ)は、福島県相馬郡 飯舘村に鎮座する神社。 ... 後冷泉天皇の御代である永承6年(1051年)、陸奥守・鎮守 府将軍として源頼義が下向して掛田(現在の伊達市霊山町掛田付近)に陣を構えた時、 ...



虎捕山山津見神社 福島県相馬郡飯舘村 - 瑞雲寺


zuiunzi.net/igu/bsrisuto.g1/4.html - キャッシュ

霊山町を散策しているとき、虎捕山山津見神社の御札をところどころで見ることができ ます。 ... 御冷泉帝の御代永承六年、源頼義公奥境鎮守のため下向し掛田に陣したとき 、人々達悩みを訴えて墨虎を退治して難を除き給えとお願いしましたので頼義公は部下 に ...



狼信仰 詳細解説 ~犬飼のお仕事~


www.raifuku.net/special/wolf/details/inukai6.htm - キャッシュ

源頼義さんといえば、福島県の山津見神社でも名前が出て来ましたよね。頼義さんが橘 墨虎を退治した時それを助けたのが山津見神社の白狼だったとか。」 田ノ貫. 「それも前 九年の役の話じゃな。橘墨虎は安倍氏の武将だったという話だのう。山の中のゲリラ戦 ...



山津見神社


www.raifuku.net/special/wolf/map/area/.../yamatumi.htm - キャッシュ

福島県相馬郡の山中、虎捕山に鎮座する神社で、永承6年(1051年)創立の古社です。 後冷泉帝の御代、相馬郡の山中に橘墨虎(たちばなのすみとら)という凶賊が住み、里を 荒らしまわっていました。源頼義(みなもとのよりよし)公が墨虎を討伐しようとしました ...





源頼義

源 頼義は、平安時代中期の将軍。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。Wikipedia

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河内源氏 源義仲の子 源義高 

2015-07-30 16:18:31 | 日記
源義仲 滋賀で討たれる

源義高 埼玉で討たれる




この記述自体が討ったと思ってるサイドで記録しているもので

実際に討ったと確認できていないのでは??




①うちの先祖は多田姓なんだと言い伝えられている

②うちは昔九州から来ていると言い伝えられている

③大正時代の記録を見ると美濃守と出てくること

☆よってうちは河内源氏

☆そこに北畠顕家の子供がうちに入っている

☆北畠顕家の父親 親房の娘が南朝天皇と婚姻している段階で

 うちは南朝天皇の一族







神皇正統記 - Wikipedia


ja.wikipedia.org/wiki/神皇正統記 - キャッシュ

神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上 天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史 ... 神代から後村上 天皇の即位(後醍醐天皇の崩御を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記され る。



後村上天皇(ごむらかみてんのう)とは - コトバンク



kotobank.jp/word/後村上天皇-66251 - キャッシュ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 後村上天皇の用語解説 - [生]嘉暦3(1328). 京都[没]正平23=応安1(1368).3.11. ... 元弘3=正慶2 (33) 年北畠顕家と陸奥に おもむき建武中興政府の東北鎮護にあたった。 本文は出典元の記述の一部を掲載し ています ...

辞書別に見る:朝日日本歴史人物事典-日本大百科全書(ニッポニカ)






北畠顕家、護良親王、後村上天皇この三人の関係を具体的に教えて ...



detail.chiebukuro.yahoo.co.jp > ... > 歴史 > 日本史 - キャッシュ

北畠顕家、護良親王、後村上天皇この三人の関係を具体的に教えてください(^o^)! - 護良親王と後村上帝は異母兄弟。護良親王の妃に関しては、北畠親房の妹説と娘説の 二通り...

質問日:2013年4月2日

回答数:1件





源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。





信濃源氏 - Wikipedia - ウィキペディア


ja.wikipedia.org/wiki/信濃源氏 - キャッシュ

源満仲(多田満仲)の五弟源満快を祖とする信濃国を本拠とした一族。満快の ... 河内 源氏の源為義の子の源義賢が甥の源義平に討たれ、信濃国木曾谷の豪族の中原兼遠 の元で育った義賢の子の源義仲(木曾義仲)が信濃国木曽谷を領した頃から始まる。







源義高 (清水冠者)




源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者(志水冠者)と号す[1]。木曾義高とも。源義仲の嫡男。母は中原兼遠の娘[2]。諱(実名)は文献によって異なる。「義高」は『吾妻鏡』の記述によるものであり、『尊卑分脈』では「義基」、『平家物語』では「義重」となっている。

経歴[編集]

寿永2年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。




義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。同年7月、義仲は平氏を破って入京する。しかし義仲は京を治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。頼朝は都に源範頼と源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、寿永3年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。




父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。




こうして、義仲の家系は断絶した。享年12。




5月1日(6月10日)に義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。







義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。




神奈川県鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。

幸氏はその後も頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となっている。

清水丸館の存在については、『松本市史』(昭和48年発行)に載っている松本城普請の際の文書(降幡家文書)にみられる「清和源氏木曽義仲公没落之後、巴御前の清水丸御住所・・・」からもうかがい知ることが出来る。槻井泉神社(松本市清水)の辺りとも、地蔵清水(松本市役所)の辺りとも言われている。

地蔵清水 松本城東北角に碑がある。地中から地蔵尊が出たため、松本市役所周辺を地蔵清水といった。地蔵は、舟型の後背を持った地蔵で現在松本市蟻ヶ崎生安寺境内に安置されている。文永3年(1187年)の銘が刻まれ、松本盆地で一番古い石仏。清水冠者義高の霊を慰めるために鎌倉から贈られたものではないかといわれている。




伊豆石で造られていて、まったく同じ石仏が鎌倉にも一体ある。鎌倉亀ヶ谷切通しの手前の角に「岩船地蔵堂」がある。木造の地蔵が安置されているがさらに床下に石の地蔵があった。




やはり舟型の後背を持った地蔵で、頼朝の娘「大姫」の守り本尊とされていてる。「岩船地蔵堂」は平成13年(2001年)に新しい堂に建て替えられ木造地蔵尊を前に石造地蔵尊をその奥に安置している。外から拝観できるのは、木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできない。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E9%AB%98_(%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%86%A0%E8%80%85)

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源満仲は武官貴族 つまり貴族だと言われると腹が立つ

2015-07-30 16:13:33 | 日記


源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。




当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王[2]と清和天皇の皇孫源蕃基[3]がそれぞれ主犯と共犯であったという[4]。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる[5]。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出た[6]が、満仲のみ病による辞退を許された[7]。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという[8]。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない[9]。

二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した[10]。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」[11]とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。

長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。




出家に天台宗が関わっていたようだから 当時はな。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2

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そーいうわけでうちの家系は北畠と源満仲血筋のシャッフル。

2015-07-30 16:11:38 | 日記

そーいうわけでうちの家系は北畠と源満仲血筋のシャッフル。




源満仲が源頼朝にされたことを見たらよーくわかる。




うちで同じような目にあってる。ただ、当時はまだ比叡山に行き来はしてたんだろうけど。




木曽義仲の血統が途絶えたのではなく、勝手に消された。いや燃やされた。うち その血統だから。




義仲も比叡山大嫌いだったんだねぇ~




弘法大師も比叡山嫌いだったよ。だから比叡山に戻らなかったし。










源 義仲 (みなもと の よしなか )は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。

生い立ち[編集]

河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる[注釈 3]。

『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。

源平盛衰記によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある[注釈 4]諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。

挙兵[編集]





義仲館の銅像。巴御前と並ぶ
治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている[注釈 5]。

翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。

寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく。

5月11日、越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦する事になる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」という些か恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。

入京[編集]

7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた[注釈 6]。 30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった[1]。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した[2]。

8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる[3]。16日になると、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない[4]。

皇位継承問題への介入[編集]

後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった[5]。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に執拗に申し立てた。

しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」[6]と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという[7]。

いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がまるでない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。

治安回復の失敗[編集]

また義仲は京都の治安回復にも失敗した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」[8]という有様で、治安は悪化の一途を辿った。京中守護軍は義仲子飼いの部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になかった。

『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。『平家物語』はこの発言を法住寺合戦の直前とするが、実際には狼藉が問題となっていた9月のことではないかと推測される。

たまりかねた後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」[9]と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。

後白河法皇への抗議[編集]

義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」[10]と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える[11]。

そうとは知らぬ義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった[12][注釈 7]。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした[13]。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給[14]、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。

義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し[15]、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された[16]。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった[17][注釈 8]。

決裂[編集]

11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが[18]、法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。

院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが[19]、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった[20]。

これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している[21]。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。

法住寺殿襲撃[編集]

詳細は「法住寺合戦」を参照

11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」[22]と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという[23]。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした[24]。

21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」[25]と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる[注釈 9]。

11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された[26]。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する[27][注釈 10][28]。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた[29]。

最期[編集]

寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた[注釈 1]。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。

戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、21日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」[30]と評した。享年31。

義仲が戦死したとき嫡子・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれ、義仲の家系は絶えた。




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