石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争23 母成峠の戦い1

2018年05月07日 | 会津の歴史


母成峠の戦い1

 会津古城研究会長 石田明夫  

1868年8月4日、新潟県では、新発田藩が裏切り、五泉市の村松藩(3万石)が落城しました。6日には、相馬中村藩(6万石)が降伏、11日には、新潟県の村上藩(5万石)が降伏しました。そこで、会津藩の松平容保は、8月1日、から8月14日まで、福島県西会津町の野沢に出向き、越後方面のテコ入れに当たっていましたが、会津藩の東側、福島県の中通り方面の攻撃が激しくなったことから若松城へ戻ります。
 14日『山岡義昭日記』によると、猪苗代湖の湖南にある会津藩と郡山との境となる御霊櫃(ごれいびつ)峠では、大砲での砲撃戦がありました。17日には、猪苗代湖湖南の舟津にいた新選組の土方歳三らは、猪苗代城に向かい、旧幕府軍の大鳥圭介と合流します。
 西軍の進攻作戦は、御霊櫃峠や国道49号の北にある中山峠を攻めると見せかけて、母成峠(ぼなりとうげ)を本命とする作戦を持っていたのです。この作戦は、天正17年(1589)6月に伊達政宗が会津に進攻した時と同じ作戦をとったのです。
 8月19日、大鳥圭介と新選組らは母成峠に到着しました。20日、西軍約4千人は、母成峠の南側入口の石莚口、中山峠の中山口、三斗小屋の那須大峠、日光口の鬼怒川から同一歩調を取り進軍します。主力は部隊は、母成峠の石筵(いしむしろ)口で18小隊2千余人がいました。20日『会津藩大砲隊戊辰日記』によると「御霊櫃峠ニ柵ヲ設ケ、胸壁ヲ築キ作業中、石莚口敵来襲、会戦中トノ報アリ」と、会津藩主力の大砲隊は、母成峠ではなく、南の御霊櫃峠にいたのです。会津藩家老田中土佐と内藤介右衛門らは、西軍は二本松から会津ではなく仙台へ進攻すると判断を誤っていたのです。
 21日、母成峠には会津藩ら800人がいて、頂上には会津藩の田中源之進がいましたが、兵は農民がほとんどで、東の勝岩付近には旧幕府の第一大隊の大鳥圭介と新選組がいました。大鳥圭介は、萱原で緩やかな母成峠頂上を見て、ここを守備するには『南柯紀行』で「たとえ精鋭といえども2千人余が必要」と思ったのです。

写真は、新選組がいた勝岩会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ