「蛤御門の変」
会津古城研究会長 石田明夫
文久三年(1863)、長州藩らの動きも活発で、三条実美ら急進派公家と一緒になり、約3千名によって攘夷派を一掃しようと、8月18日、クーデターが発生します。京都御所を警護していた会津藩や薩摩藩の働きにより、長州藩の計画は失敗、三条ら公家七人が山口県下関の功山寺へ下る「七卿落ち」となります。なお功山寺には、万骨塔という慰霊碑があり、白虎隊士や山川健二郎の石碑もあります。
クーデターに失敗した長州藩士らでしたが、前にも増して多く京都へ終結したのです。そこで元治(げんじ)元年(1864)3月、会津藩の所属となった新選組は、京都市中の巡回警備を強化したのです。6月5日、倒幕を画策していた過激浪士が集会をしているという情報を得た新選組は、会津藩に出動を要請しますが会津藩は動かず、夜十時半頃、単独で襲撃をしたのが「池田屋事件」でした。その働きによって近藤勇は、幕府から三十両と会津の「三善(みよし)長道」の刀と酒一樽を賜っています。その陰には、会津藩の中間で強気を挫き弱気を助ける侠客(きょうかく)の小鉄がいて、俗に「会津小鉄」と呼ばれる十手持ちがいました。
池田屋事件の知らせを受けた長州藩では、京への挙兵を開始し、7月19日、京都御所を目指して三方から攻めたのです。普段は閉し、往来をしなかったことから「禁門」と呼んでいた門へ、長州藩の来島又兵衛ら三百名が進撃したのです。会津藩では、御所内の禁門、六門と、水戸藩より警護を引き継いだ蛤御門を警護し、一瀬伝五郎らが防戦し、薩摩藩の協力を得て長州藩を撃退したのです。この時、会津藩では60名、長州藩では265名が蛤御門の変で戦死しました。
写真は山口県下関「功山寺」
会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ