「孝明天皇の信頼と新選組誕生」
会津古城研究会長 石田明夫
会津藩が、京都に入った時には、警察組織の京都所司代がすでにあり、その時の所司代は長岡藩主牧野忠恭(ただやす)で、天皇は、孝明天皇でした。孝明天皇は、嘉永6年(1853)六月三日、三浦半島の浦賀に来航したペリーらの欧米人が大嫌いな攘夷主義者でした。そして、天皇の妹「和宮」(かずのみや)が文久元年(1861)11月15日江戸城に入り、十四代将軍徳川家茂の正室となり、徳川家と天皇家との接戦した時期でもありました。文久3年(1863)7月30日には、天皇の前で馬揃えが命じられ、甲冑を着て整然とした千名の会津藩兵の姿に感銘し、10月9日には、孝明天皇から錦陣羽織の生地や銀200枚と「たやすからざる世に 武士の忠誠の心を喜びてよめる」と書いた御辰韓を送っています。
しかし、嘉永2年(1849)に、孝明天皇が公家らの教育を目的に設置した学問所の「学習院」で学んだ長州藩の高杉晋作(4月14日が命日)らは、鉄砲の時代に時代遅れ甲冑姿で現れた会津藩対し、失笑し、幕府に対抗できると確信したのです。さらに、学習院で学んだ連中が、「天誅」(てんちゅう)と称し、京都でしたい放題を繰り返していたのです。
幕府は、文久2年12月、反幕府派を抑えるため、江戸市ヶ谷の甲良屋敷、近藤周助の道場「試衛館」に、庄内藩の浪人清河八郎が協力し浪士を集めたのです。後の「新選組」につながり、天然理心流の近藤勇(調布の農民宮川勝五郎の子)、沖田総司(白河藩阿部家、江戸下屋敷・六本木ヒルズ付近)、そこに土方歳三(日野石田村の農家・散薬屋)、齋藤一(明石藩士山口祐助の子という)らがいました。
写真は京都御所「蛤御門」
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