蚕養口の戦い
会津古城研究会長 石田明夫
桑名藩の藩士石井勇次郎が、青森で謹慎中の書き残した『戊辰戦争見聞略記』によると、1868年8月23日、会津藩の滝沢本陣から退却した松平容保公と弟の桑名藩主松平定敬(さだあき)公は、若松城の大手前(甲賀町郭門)まで来ると
「両公馬ヲ止メ、暫ク談セラル」
と話し込み、容保公は入城し、定敬公は、援軍を頼みに米沢に赴くこととなったという。その時、桑藩士らは、なぜ兄弟共に籠城しないのか不思議がったという。
桑名藩本隊は、会津藩家老の萱野権兵衛とともに磐梯町大寺にいたことから、西軍が若松城下に乱入したことを聞くと、急遽兵を引き上げ、致人(しじん)隊、雷神隊、神風隊が大寺口へ向ったのです。すると、蚕養口では、偶然西軍の後ろに出たため激しく戦うこととなります。弾薬が尽き死者やけが人が出たので、定敬公のいる北塩原の大塩村に向かったのです。
『若松記』では、午後2時頃、桑名藩と萱野権兵衛隊は、蚕養口に進軍すると、西軍は蚕養神社を楯に防戦し、退却する西軍を追いかけ大須賀屋のところまで行き、そこから砲撃戦となったという。西軍は、日蓮宗妙法寺の卵塔(僧侶の墓)付近や市中の蔵に穴を開け、砲撃、発砲し、四方から弾が飛んできたという。午後5時頃、暗くなったので蚕養神社へ撤退したという。ここでは、会津藩兵3人、桑名藩兵3人が戦死しています。桑名藩は、藩主がいる大塩宿を目指し、萱野権兵衛は、神指の高久村を目指したのです。
西軍は、東山町の慶山付近から中村(平安町)付近へ目がけても攻めてきました。家老の田中土佐らは、甲賀町口で畳を四、五枚重ねて壁を築いたのですが、西軍の弾は、畳を貫くものでした。死傷者が出たことから、門柱や大木、石垣の陰から撃ち、城内から白虎隊士中一番隊が出撃し、三宅半吾邸裏の外堀土塁上から防戦したという。
その後、家老の田中土佐は、神保内蔵助と出会い「もう、これではいかぬ」と言って、郭内の医者土屋一庵宅(「籠太」北側)に入り、火を放ち、一庵とともに自刃したのです。
写真は、蚕養国神社。戊辰戦争で焼失しその後再建。
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