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読書の森

見えない鎖 その5

シンシンと冷え込んだ夜だった。ふと目覚めてトイレに立った麻友は姉の可奈と廊下で鉢合わせした。
(夜中にトイレに立つなんて珍しいな)と妙な気がしたのを麻友は今も覚えてる。
「いいよ。私待ってる」と微笑んだ麻友に向かって可奈は信じられない言葉を投げた。
「それって憐れみ?」
「えっ?」
「病人は先に『いった』方が宜しいわね」

一つ違いの姉は長年勤めた会社を最近依願退職している。寿退社では無い。
家族間だけの秘密だが、彼女は乳癌を患っていたのだ。「早期手術をすれば命は助かる確率が極めて高い。しかし傷跡が残るのは避けられない。手術を受けるべきか温存すべきか、がん細胞が転移したらどうするか?
可奈にとって生まれて初めて大きな壁にぶつかった思いだった。
「私は何も悪い事してないのに運命はなんて理不尽なのだろう」
キャリアを目指して一流会社に入った姉には学生時代から付き合う男性がいた。
「このままの関係でずっといたい」と言う可奈に「まさか君が飛んでる女になるなんて」と笑いながら、その男は結婚もせずに待っているそうだ。

プライドの高い可奈は心を許した男に自分の病を打ち明ける事が出来ない。感情が不安定になり仕事にも身が入らない。眠れない日が続いていた。
それが家族に影響して、麻友以外の家族は皆処方された軽い眠剤を飲んでいたのだ。

その姉が又ヒステリーを起こしてる、と軽く考えて黙り込んだ麻友に向かって吐き捨てるように可奈は言った。

「お母さんの血筋って完全に癌体質なんよ。麻友以外は」
「何?」
「あなた凄く鈍いから言いますけど、お母さんとお父さんの子は私一人」
「はあ!」
「あなたね、父さんと北新地のホステスとの間に出来た子なん。未だお腹の中の子を海千山千の女から無理矢理押し付けられて、辻褄合わせして二人の子として届けたんよ」

麻友は全てがガラガラと崩れて行く錯覚に襲われた。
彼女はそのままトイレに入らず2階に駆け上った。両親はぐっすり休んでいるのだろうか。その音を咎める事もない。
それが午前3時である。


麻友の尿意は全く失せた上に頭が妙に冴え冴えしてきた。
ともあれ、プライベートでどんな事があろうと会社に行かねばならない。
三宮の中規模の商事会社に勤める麻友はその日得意先に上司と共に行く予定があった。取引を成功させる為に麻友の得意の語学が必要だからである。

麻友は大型バックの中を再点検して、イヤホンでラジオを聞く。寝られない晩聞いて安らぐ夜明けのミュージックは安らぐどころかひどく猥雑に聞こえる。
北新地、バー、ホステス、妊娠、生真面目な麻友にとっておぞましい言葉が脳裏にグルグル渦巻いていた。
姉の言葉は果たして真実なのだろうか?

麻友の母、新子も、正確には義母も、父もそんな話を全然聞かせてくれなかった。可奈が麻友の出生の秘密を幼い頃から知っていたとは到底思えない。何故なら喧嘩もしたし、言いたいことも言い合ったけど、お互い肉親の馴れ合った親しい感情はいつもあったからだ。
姉はいつ、誰からこの事を伝えられたのか?

ミッション系の学校を出て女学校教師となって、教会の日曜礼拝で父親、雄司と知り合った新子は嘘みたいに世間の垢に染まらない人だった。「自分の子も他人の子も差別せず育てるのが真の愛」と思ってたのは確かだろう。とっても子供好きな人だから。
梅田に勤める雄司は母と異なり、世間的成功を幸せの基準に置く男で教会に通ったのは純真無垢な新子に惹かれたからだと思う。

もしこの父親がホステスに孕ませる程バーに通ったとすれば、客先を接待して知り合った形になる。
ただ、、、。

ひょっとして悪い女に騙されて関係を持ち、別の男の子を押し付けられたのか?

妻に似て相当なお人好しの父親である。
しかしそんな馬鹿な!
だとしたら、何でも言い合えた姉は何故あんな話を突然したのか?


堂々巡りの考えが整理されずに渦巻いている。
時計の針は5時を過ぎていた。

かなり気温は低いのに麻友は寒さを感じなかった。
パジャマからジャージの部屋着に着替えて台所に行って冷蔵庫から牛乳を出して飲む。
マグカップ一杯に注いだ冷たい牛乳が麻友の心を落ち着かせた。
彼女は、少し落ち着く為に散歩に出ようと思った。

ジャージの上にコートを羽織り、近くのコンビニ迄行く。
お気に入りのケーキを買って、それを食べたら少しは楽になれる、独り言を呟いてショルダーをかけて、台所口から外に出た。

刺すような空気が澄んで気持ち良いと麻友は感じた。駅前まで歩こう。
いつものコースと別にして。

麻友はゆっくりしたテンポで歩く。
ちょっといつもの夜明けと違う感じだ。
と感じながら、今迄苦しんでた自分の出生の悩みなど大した事無いと言い聞かせる。
ともあれ会社の仕事を終えた後、ゆっくり今後の対策を練ろう。
「人生いろいろ」と言うし。
麻友は又ゆっくりと歩く。
夜明け前の坂道は暗いが歩き慣れた近隣で、目を瞑っても行ける。

身体を動かすのは苦しみを紛らす手段だなと麻友が思った時、天地がひっくり返った。
正確には地下から地面にかけて激しく押し上げるような揺れが起きたのである。






読んでいただきありがとうございました。

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