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【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ アイヌと縄文人(2) (MSN産経ニュース)

2008-02-04 08:19:00 | アイヌ民族関連
【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ アイヌと縄文人(2)
2008.2.4 08:19
 ■文化・言語 連続から分離へ

 ≪宝を求め交易≫

 アイヌの直接の祖先とみられる北海道縄文人が本州とほぼ同じ「縄文文化」を営み、津軽海峡を越えて、南方の貝や北陸のヒスイなどを受け入れていたことを前回紹介した。しかし、北海道は弥生時代から古代にかけて文化的に独立した道を歩み始める。

 水稲耕作を中心とした「弥生文化」は、約2500年前には大陸から九州北部に伝わった。稲作は本州を北上し、弥生前期~中期には東北地方北部に到達した。津軽平野の垂柳遺跡(青森県田舎館村)と砂沢遺跡(同県弘前市)では、水田跡や弥生土器が見つかっている。しかし、稲作は津軽海峡を越えなかった。北海道では狩猟・漁労中心の生活が続き、紋様のある土器を使用するなど縄文時代と大きく変わらない文化が続いた。このため北海道では、弥生・古墳時代にあたる7世紀ごろまでを「続(ぞく)縄文時代」と呼ぶ。

 稲作が伝わらなかった原因は「寒冷な気候が稲作に適さなかった」「海や川の資源が豊富で稲作の必要がなかった」と言われてきたが、旭川市博物館の瀬川拓郎学芸員は「北海道の人々は二流の農耕民となるよりも、多様な食糧資源から得た特産物を携え、本州の農耕民と交易を深める方法を選んだ」と話す。

 縄文時代の北海道では、村の首長の墓に納める副葬品は必ずしも個人の所有物ではなかった。ところが、続縄文時代には生前の持ち物を入れることが一般化し、特に首長の墓は大量の副葬品を持つようになる。瀬川学芸員は「財産(宝)を個人的に占有するようになった。縄文の宝は共有する価値観のシンボルだったが、続縄文には首長に名誉と威信をもたらすものになった」と指摘する。続縄文人はヒグマの毛皮など北海道の特産物と引き換えに、ガラス玉や鉄製品など異文化の珍しい宝を手に入れた。

 北海道では7世紀ごろから、本州の土師器(はじき)の影響を受けた「擦文(さつもん)土器」と鉄器を併用する「擦文時代」に移行する。瀬川学芸員は、上川盆地や石狩川水系で出土する擦文集落跡が、サケの産卵場に近い川べりに集中していることに着目。「集落がサケ漁に特化して築かれた。その背景に本州との交易拡大があり、宝の蓄積が一層進んだ」と分析する。


 ≪東北への南下≫

 北海道からみた本州との関係は、縄文時代の「価値観の共有」から、擦文時代には「宝のための交易」に変わった。これに対し本州、特に東北地方では何が起こっていたのだろうか。

 稲作がいったんは伝わった東北北部(青森県全域と岩手県・秋田県北部)だが、弥生後期から6世紀まで集落が極端に減少する。古墳時代にかけての寒冷化のためと言われる。この時期、北海道全域に広まっていた「後北C2・D式」などの続縄文土器や石器が出土。その範囲は東北南部に及んでいる。

 また、現在の東北地方には「ペツ」や「ナイ」などアイヌ語に由来するアイヌ語系地名が多い。松本建速・東海大准教授は「続縄文遺跡の分布や遺物の性質から考えれば、縄文時代からの言葉が地名として残ったのだろう。特に東北北部と道南の人々は言語的にも形質的にも連続していたと推測できる」とみる。

 アイヌ語系地名の南限は宮城県~山形県のラインで、古墳がつくられた北限とほぼ一致する。古代の朝廷は東北地方で支配に服しない人々を「蝦夷(えみし)」と呼んだが、熊谷公男・東北学院大教授は「朝廷は蝦夷との会話に通訳を置いており、蝦夷の言葉は独自のものだった。それがアイヌ語系だった可能性は高い」と話す。日本書紀などの文献や出土した木簡などから、蝦夷は7世紀には米沢盆地~新潟市付近にまで居住していたといわれる。


 ≪朝廷の支配拡大≫

 7世紀以降の律令政府は東北への支配拡大をはかる。8世紀(奈良時代)には陸奥国に多賀城(宮城県多賀城市)、出羽国に秋田城(秋田市)を設置し、東北経営の中心とした。坂上田村麻呂の遠征と胆沢(いさわ)城(岩手県奥州市)の建設で9世紀(平安前期)には現在の盛岡市~秋田市のライン以南を支配下に入れた。

 当時の文献では、9世紀初めまでに国家の政策として関東周辺の住民が東北に移住したことが知られている。796年には8カ国から約9000人が伊治(これはり)城(宮城県栗原市)に移されている。

 東北北部への移住について、住居跡などの発掘資料から再検討した松本准教授は「8世紀までの移住は東側(現在の八戸市周辺)で、信州北部や関東の住民が馬飼の文化をもたらした。一方、9世紀~10世紀には西側(津軽平野から米代川流域)に、須恵器や鉄の製錬技術を持った出羽や北陸の集団が移住した。稲作文化はこのとき広まり、北海道との違いが明確になった」と、新しい見解を示している。

 移民が持ち込んだものに、信州~北関東をルーツに持つ「蕨手刀(わらびてとう)」がある。東北で広まった蕨手刀は北海道からも出土し、津軽海峡を越えた交易を物語る。しかし、その交易関係は人の移住を伴わず、縄文時代のような文化的融合をもたらさなかった。こうして独自性を強めた北海道の人々は、今日に至る独自のアイヌ文化を形成していく。次回はアイヌ文化の中に縄文時代の遺産を探る。(牛島要平)

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