アイヌ民族関連報道クリップ

アイヌ民族・先住民族関連の報道クリップです。各記事の版権は発信元にあります。

ピヤラ アイヌ民族の今 「ヌサ」周辺、生活の拠点 幣舞の歴史と語源 (2009/09/15)

2009-09-15 00:00:00 | アイヌ民族関連
ピヤラ アイヌ民族の今

 アイヌ民族の今を伝え、文化と歴史を考えるページ、「ピヤラ」は、北海道新聞釧路・根室版の夕刊で2006年7月から隔週火曜日に連載中の特集ページ。現在も、道東のアイヌ民族の取り組みや思いを発信し続けています。





「ヌサ」周辺、生活の拠点 幣舞の歴史と語源 (2009/09/15)

幣舞公園に設置されたアイヌ民族の祭壇「ヌサ」=8月22日



 市街地を見下ろす小高い丘にある釧路市幣舞町の幣舞公園に8月下旬から、アイヌ民族の祭壇「ヌサ」が常設されている。周辺はかつてアイヌ民族が暮らし、ヌサがあったとされる神聖な場所。歴史をさかのぼると、この丘はアイヌ民族と深いかかわりがあり、重要な生活拠点だったことがわかる。(久保田昌子)

「祭壇のあるところ」 江戸期には名前定着

 釧路市埋蔵文化財調査センターの調べによると、幣舞町には約8千年前から集落があった。しかし、そこに住む古代人について詳しいことは分かっていない。

 この地域からは約2千年前とみられるヒグマの頭骨や、12世紀後半の擦文時代の住居跡も出土した。

 同センターの石川朗副主幹は「さまざまな動物の骨の中で、クマは鼻の周囲を土器で囲むなど特別な埋められ方をしている」と、アイヌ民族がキンカムイ(山の神)とあがめるヒグマが古代人にとっても特別な存在であったことを指摘する。

 17世紀ごろにはチャシ(とりで)があったが、正確な位置や規模は分かっていない。富士見坂付近で1994年に発見された長さ9メートル、幅1.3~1.7メートルの溝は、チャシ跡の一部とみられている。

 石川副主幹は「幣舞は遺跡として、釧路川河口部の拠点、中心的な位置をなす。チャシ跡から推察するに、儀礼的、祭祀(さいし)的な色彩が濃い場所だった可能性がある」と推測する。

 幣舞はアイヌ語の「ヌサ・オマ・イ(祭壇・ある・ところ)」が語源とされる。「ヌサマイ」という名前は、鳥取藩士、谷元旦が1799年に北海道を訪れて描いた「蝦夷(えぞ)紀行」の釧路川左岸小集落の絵に書き込まれている。

 幕末から明治の探検家松浦武四郎が1845年以降に道東を探検してまとめた「東蝦夷日誌」でも、釧路川付近の集落をヌサマイと記しており、名前が定着していたことがうかがえる。

 今回ヌサを設置した道アイヌ協会釧路支部の秋辺得平支部長によると、故山本多助エカシは生前、「税務署(現在のNHK釧路放送局の隣)の辺りにヌサがあった」と話していた。幣舞町や米町の周辺には、1880年代半ばごろまでアイヌ民族が住んでいたが、和人によって春採などに強制移住させられたという。

 幣舞町一帯はその後、郡役所や警察署など官公庁が建てられ、マチの中心部として発展していく。

 そこに今年、アイヌ民族の伝統文化の証しであるヌサが復元された。ヌサにある24本のイナウ(御幣)は、さわやかな秋風を受けながら、21世紀の市街地を見守っている。

無料アクセス解析



最新の画像もっと見る

コメントを投稿