嬉しい約束が、臨床でなぜ大事なのか? それは福音だからです。福音は信頼と希望の源なんですね。
p356第4パラグラフ。
イエスの言い伝えとイエスの譬え。この2つは、その論理とイメージにおいて、お互いに補い合います。「放蕩息子」の譬えは、父親と息子たちが、文化と経済という母体(「これこそ」が、見失った母親なのでしょうか?)の中で、世代と世代を結びつけるいろんな使命を完全に果たすことにおいて、自分自身を確かにする道を見出すことによってはじめて、お互いに自分と相手を見つけ出せるんだ、ということをハッキリさせてくれます。そして、これこそが、私は示せたらいいと思いますが、この言い伝えを耳にしたすべての人々の「≪私≫という感じ」が求める局面です。ですから、この言い伝えを聴くときには、聴く者は、語る者がこれらの局面に特別な配慮をしていることに、意識を向けるんですね。そして、ここでこそ、イエスの配慮にいつでもどこででもある特質が、イエスには必須の非暴力である、と思えますし、イエスの配慮こそが、時には戦うような場合であっても、非暴力に必要な特質なんですね。仕事を最大にしながら、「作業」は最小にすることをイエスが唱えたように、イエスは強さを最大にしながら、暴力は最小にすることを求めます。自分に対しては自分が悪いという感じを減らしたり、他者に対しては憎しみを減らしたりするわけです。
自分を確かにする道は、世代と世代を繋ぐ務めが見つかると良いですね。その世代と世代を繋ぐ務めには、自分と相手が必ずいますでしょ。 ですから、世代と世代を繋ぐ務めにおいては、自分と相手が見つかりますし、繋がりを実感するためには、やり取りが必要になるわけですね。
その際に大事なのは、非暴力。それは、配慮は最大にするけれども、「ああしろ」「これはダメ」という命令と禁止の口出しと手出しを最小することなんです。
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