Siamo tutti un po' pazzi.

~我々は皆少しおかしい(イタリアの慣用句)~

普段色々考えていることの日記です。

通りすがりさんへ

2009年10月11日 | 漫画
コメントありがとうございます。
長文になりますので、別途記事を上げさせていただきました。

まず、私が『ヘタリア』に対して抱いている思いを理解していただきたく、私がアニメイトへと送った文章の一部下書きを載せます。
これは『ヘタリア』のアニメがケーブルテレビのキッズステーションでの放映を止め、アニメイトでの動画配信に変更したことを受けて送った文章です。
残念ながら本文ではありませんが、当時私がどういう思いで『ヘタリア』を見ていたかが分かる文章だと思います。

~アニメはある国から抗議を受けたためにテレビ放映できなかったという噂があります。もしその噂が本当ならば、なぜそのような抗議が来たのかスタッフや関係者、そして原作者は十分考慮すべきだと思います。そしてこんな曖昧な形でアニメを放映するのではなく、その国ときちんと交渉をし、お互い理解を得、堂々と放映してほしいです。
またその噂がウソであれ本当であれ、テレビ放映できない理由を曖昧にすることなく公表すべきです。公表しないで曖昧にすることはよからぬ憶測がファンの間に飛び交い、果ては「差別事件」へと発展する可能性があります。日本には本作の主人公であるイタリア人を始め多くの外国人がいます。その人たちへの偏見や差別を助長する作品に「ヘタリア」がならないように願います。
私が「ヘタリア」を好きなのは、ともすれば偏見により嫌われる国・国民を愛嬌あるキャラクターに置き換えて、その国へ行ってみたいな、その国を知りたいな、その国の人と会ってみたいなと思えるようにする漫画だからです。そんな「ヘタリア」が現在日本社会に厳然と存在する民族差別を無視することによって、むしろ差別を助長することになるのは本当に悲しいです。
どうか、うるさい良識派の意見などと考えず、ご一考ください。切にお願いします。~


この文章で書いてある通り、私は「ともすれば偏見により嫌われる国・国民を愛嬌あるキャラクターに置き換えて、その国へ行ってみたいな、その国を知りたいな、その国の人と会ってみたいなと思えるようにする漫画」として『ヘタリア』を評価していました。
通りすがりさんが読まれたであろう記事にも、「国の擬人化というレベルを超えて個々のキャラクターが立ち、もはや帝国主義とかそんなこと以前の世界で物語が紡がれてい」るとか、「国民性をベースにしながら擬人化された登場人物は、その国民性から独立したキャラクターを獲得してい」るなどと書いています。
これはニューヨーク在住の留学生という立場が日丸屋さんに独特の国際的なバランス感覚を身につけさせ、ともすれば民族差別的になる国の擬人化を愛嬌あるキャラクターへと変えていったのだと私は考えています。
しかし、それと同時に「擬人化はそのままその国の国民性を象徴してしまう危険もある」とも指摘しています。
『ヘタリア』のファンたちはサイトやニコニコ動画などを見る限り良識的な人が多く、ご指摘の通り韓国の文化や国、人を愛し、同時に韓国の擬人化であるヨンスを愛している人が多くいます。
ただ、残念ながら同じだけ、いえそれ以上に韓国人に対する蔑視や差別も存在し、そのことを動画のコメントやサイトに書く人も多いです。
そういった民族差別が厳然と日本に存在している中での韓国の擬人化であるヨンスの性格は、「異常な反応だ」と簡単に言っていいものでしょうか。
それは「華麗にスルー」していいものでしょうか。
私はそこに問題提起をしたくて、『ヘタリア』に対する記事を書かせていただいたのです。

さて、韓国の話になりましたので、先にそちらの方のコメントに返信させて頂きます。
私も初めは通りすがりさんと同じく、ヨンスの性格は愛嬌あるキャラクターとして好意的に見ていました。
正直に申し上げると、この性格だったら韓国人を蔑視していることにならないだろうと考えていました。
ところが、韓国の議会でこのキャラクターに対して「米国・日本に依存し、中国を兄貴と呼び、常に日の丸の旗を持っていて、文物は何でも韓国起源だと主張する」と評価されているのを見て、ガーンと後頭部を殴られたような気持ちになりました。
たとえこちらがそのつもりはなくても、相手が別の意味でとらえたらそれは客観的に自分の意思の通りの表現になっていないのだということなのだと、思い知らされたのです。
そしてそこに、自分自身の考えの奥にある韓国・朝鮮人への蔑視を垣間見た気がして、「顔から血の気が引」いたのです。
確か京極夏彦さんだと思いますが、その方が「作家はたった一人の涙でも文章を変えなければならない。誰もが泣かなくてすむ表現方法を模索するのが作家の務めだ」と述べられていて、私はその通りだと思いました。
もし、だれか一人でもこのヨンスの性格を不快だと考えているのであれば、私たちはなぜなのかその理由を考えなければならないと思います。
そして誰もが幸せになれるヨンスの性格を考えていかなければならないのです。
日本の民族問題は、特に在日朝鮮人の問題が深刻です。
北朝鮮の拉致問題がテレビで取りざたされた時、朝鮮学校に通う在日朝鮮人の女生徒が暴行を受けました。
他にも恐喝をされたり、制服を切り裂かれ燃やされるという事件も多発しました(朝鮮学校の制服はチマチョゴリでした)。
痛ましく、同じ女性として悔しかった事件です。
何かつらいことがあると弱い者にはけ口を見出す日本社会は変えなければいけない、ということには通りすがりさんも同意していただけると思います。
そういった事件の先にあるヨンスの性格は一体これでいいのだろうかということは、お互いに考えていかなければなりません。
その問題提起になっただけでも、私としてはうれしく思っています。

次に、「ある一つの民族をもとにして国を擬人化する=描かれていない少数民族を排除する」の件についてですが、実はこれは私自身が「県民性」番組を見ていた時の気持ちも反映しての意見なのです。
私は兵庫県出身ですが、兵庫県は他の県に比べて県民性というものがほとんど存在しない県です。神戸と姫路、豊岡、丹波、淡路でその気候、風土、歴史、文化、そして県民性はまったく違います。
たいてい「兵庫県の県民クイズ!」とか言うと神戸中心になります。そしてそういうものを見るにつけ、「うちとこは違うけどなぁ」と思ってしまうのです。
さらに私は兵庫県の中でも姫路を中心とした播州地方に住んでいます。
そして播州地方は「ガラが悪い」という評価を他地方から受けています。同じ兵庫県民からも「播州と一緒にせんといて」と言われたりします。
確かに播州地方は瀬戸内海の重要な港や山陽道の要として発展してきたので、言葉づかいや性格が荒いのは本当です。ですがその荒い播州弁は実は京都の御所言葉を元に生まれた方言です。同時に播州は都(京都)との深い歴史的・文化的つながりもあります。「播州はガラが悪い」と評価される時、そこにはそういった播州の歴史や文化は入ってきません。
県民性、あるいは国民性というものは、そういった取り上げられなかった事がら(歴史・文化・民族・宗教etc.)をどうしても無視してしまうものではないかと私は感じているのです。

確かに多民族多人種の国家アメリカでも、なんとなく「これがアメリカ人」という雰囲気はあります。
しかしそれは、ともすれば「アメリカ人とはこう」という偏見にも発展しますので、やはりこれも問題提起させていただいたのです。
何よりも私がここで主張したかったのは、金髪碧眼の男性キャラクターが「アメリカ人の顔」になっていることについてです。
アメリカにいる人々は金髪碧眼のアングロ・サクソン人ばかりではありません。黒髪黄色い肌の中国系もいれば黒髪浅黒い肌のヒスパニア系もいる。当然黒人もいます。
その中でなぜ作者は金髪碧眼の男性キャラクターを「アメリカ人の顔」にしたのかということに問題を提起したかったのです。
(作者は「英語教師をモデルにした」と書かれていますがそういう主観的な問題ではなく客観的な部分で問題を提起したかったのです)
これはイギリスに対してもフランスに対してもドイツに対しても言えます。
イギリスはスコットランドやウェールズの問題だけではなく、大英帝国時代の移民であるインド系やアフリカ系が国の文化の中枢部へと浸透しています。いえ、むしろ生粋のイギリス人の方が少なくなってきている現実があります。この時、やはりなぜ金髪碧眼の男性キャラクターが「イギリス人の顔」なのかという疑問が出てきます。
アメリカに関しても、実は人口比率を言うとヒスパニア系やアフリカ系(黒人)が国の大半を占めています(最近は中国系・韓国系が追い付き追い越そうとしています。もちろん日系人もいます)。
であるなら、「アメリカ人」の顔は黒人でもヒスパニア系でもあるいはネイティブアメリカンでもよかったはずです。
そこを問題にしているのです。

最後にハンガリーが女性であることですが、やはりこれも「女性」という記号が持つ意味を問題にしています。
この件に関しては『紅一点論』や『お姫様とジェンダー』という本が分かりやすく、そして面白く書いてあります。非常に読みやすい本ですので、ぜひご一読ください。そして感想を聞かせていただけますと幸いです。
まぁ、私の持論に関しては私の大学での指導教官の論説を参考にして書いています。教授はまだそれについて研究途中で本として発表していません。何か論文を発表していないか検索してみて、その論文をもとにして私も論を展開しようと考えているのですが、なにぶん無精者ゆえいまだ一向に進んでいない状態です。
ですが、簡単に申せば「男性」→「女性」の「支配」→「被支配」の関係が現在社会に存在している以上、作者の意図がどうであれ国を擬人化した際それは国同士の「支配」→「被支配」の関係を表してしまうのだということが言いたいのです。

あと、「原爆萌えw」「○○が××侵略すればいいのに」「第三次世界大戦起こらないかなぁ」という発言に関してはAPHの同人に関してルールを考えるサイトがあり、そこで「こういった表現は行わないでください」と注意されていた文言です。
私自身も実際に目にしていませんし、ヘタリアファンにはそのような非常識な人は存在していないと信じています。
しかし例えば「日本の脇腹に二発の銃弾痕があれば萌える」という発言は目にしました。他にも「侵略」や「戦争」に対して心ない発言を目にしたことがあります。
そのような発言の一番極端な例として上記発言を引用させていただいたのです。
通りすがりさんがおっしゃる通り、「とてもデリケートなジャンルの漫画」ですし、「すべての人がそれをきちんと弁えて楽しむ事が出来るようになる日」を目指して私も日々精進していきたいと思います。

このたびはご意見ありがとうございました。
こういったご意見を頂けると、私の中にある迷いや悩みが整理され、よりはっきりと自分の意見を意識することができました。
心から感謝の言葉を述べさせていただきます。
(と敬語を使うとなんか建前で言っているような感じですが、本気で嬉しかったです。ありがとうございました)

追伸:韓国が中国を「に~に」と呼んでいることに関しての韓国側の評価はある意味興味深く感じていました。例えば日本が中国を「に~に」と呼んでいることに対しては、日本人はかなり好意的に感じています。私も「中国は日本の『に~に』だなぁ」と考えていますし、そこに否定の意味はなくなんだか中国が日本の「に~に」であることに嬉しさすら感じています。ですが、韓国(一部の方かもしれませんが)はそれを「属国的な意味」であるととらえていることにこの両国間の複雑な歴史を思わせられました。

参考文献
斎藤 美奈子『紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』筑摩書房(ちくま文庫) (2001/09)
若桑 みどり『お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(ちくま新書)筑摩書房 (2003/06)
エドワード・W. サイード『オリエンタリズム』{今沢 紀子訳,平凡社 (1986/10)}
神戸新聞社播磨取材班『播磨気質』神戸新聞出版センター (のじぎく文庫)(1988/05)

「ヘタリア 感想」に関する当ブログの記事
ヘタリア感想
ヘタリア感想2
『ヘタリア』 日丸屋秀和
今更「Axis powers ヘタリア」感想

『ヘタレイタリア』=『ヘタリア』という呼称に関してこういった意見もあります。
ttp://d.hatena.ne.jp/osahune/20090129/1233237295

10/14 斜線部訂正・追記


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