・・・・・・良かったんじゃないですか?
と思うんですけど、どうでしょう?
私はもともとこの時代好きだし、実のところドラマ界における歴史だとかルールだとか知らないから、そう思うのかも。
でもまぁ、色んなところの感想見て回って「?」という感想があったから、ちょっと指摘はしてみようと思います。
いきなり平太が御所に直訴に行った!!
御所じゃないでしょ、あそこ。
祇園女御の家でしょ。
結構こういう突込みがあって、ちょっとビックリしました。
みなさん、昨年の作品のトラウマを抱えているのかな?
祇園女御もそもそも本当の「女御」ではないし。
この時代、いや、今も昔もそうだけど、宮廷というのは身分社会で、
たとえどれだけ帝に愛されても身分によって妃の位は決まっていたのです。
大臣クラスなら女御になれても、大納言クラスなら更衣どまりとか。
源氏物語で光源氏のお母さんがあんだけ帝に愛されながら「更衣」だったのはそういう意味です。
ちなみにこの源氏物語で光源氏のお母さん、桐壷更衣を愛した桐壷帝を
紫式部は楊貴妃に入れ込んだ中国の玄宗皇帝になぞらえて非常に否定的に評しています。
つまり、当時の感覚として「身分の高いものが、ましてや帝とあろう者が、
自分の意のままに行動することは決して許されざる行為」と考えられていたのです。
つまり「帝」だと身分の低い女性と交わるどころか、
そういう者たちと関わること自体が「許されざる行為」だったのです。
だが、上皇は違います。
上皇はもう帝では無いので、身分の低い者と関わりあっても許されます。
だから白河院は身分の低い武士や白拍子と積極的に関わったのです。
帝なら「殿上人(昇殿を許された五位以上の貴族)」としか会えないですからね。
ということで、祇園女御は元白拍子の白河院の愛人です。
「女御」など絶対になれない人です。
ただ、まるで女御みたいに権勢をふるったから「祇園女御」と呼ばれていただけなんですよ。
そのため、当然ですが彼女は御所に入ることはできません。
いくら白河院の寵姫でも、
「女御」とちまたで呼ばれていても、
彼女に御所で生活する「位」はないですから。
だから、平太が駆け込んだのはただの白河院の愛人別宅で、御所でも無ければ、白河院の住まい(院の御所)でも無いのです。
実際に侍女が、「法皇様がお越しになられました」とわざわざ白河院が来たことを告げ、
ここが御所では無いことを物語っていたと思うんだけどなぁ……
とまぁ、そんなわけで私の突込みどころはもっと別の所にいっぱいありまして…
例えば、ただの白拍子に「舞子」は無いだろう!!
とか。
この時代「子」という漢字には「貴人」の意味があったから、貴族の女子しか付けられなかったはずなんだけど。
待賢門院の藤原璋子とか、美福門院の藤原得子とか……
ちなみにですね、高貴な身分のように扱われているが、璋子は中流貴族の娘。
忠盛や清盛、あるいはこれから出てくる時子とかと同じ身分なのである。
本来なら御所に上がって女御として入内なんて、とてもやそてもやできない身分。
ただ、両親が白河上皇の乳母をやっていたからその縁で白河上皇に可愛がられていたのである。
彼女が入内するにあたって白河上皇の養女になったのはそういう理由。
律令制はすでに崩れ去っていたのですね。
平氏とかそういう武士階級がのし上がっていくのは、この「院政」と切っても切り離せない関係があるのだが、
その辺どうするんだろうね……
簡単な貴族VS武士の対立構造ではこの時代は表せないんだけどな。
私はむしろ、そっちが心配だったり。
と思うんですけど、どうでしょう?
私はもともとこの時代好きだし、実のところドラマ界における歴史だとかルールだとか知らないから、そう思うのかも。
でもまぁ、色んなところの感想見て回って「?」という感想があったから、ちょっと指摘はしてみようと思います。
いきなり平太が御所に直訴に行った!!
御所じゃないでしょ、あそこ。
祇園女御の家でしょ。
結構こういう突込みがあって、ちょっとビックリしました。
みなさん、昨年の作品のトラウマを抱えているのかな?
祇園女御もそもそも本当の「女御」ではないし。
この時代、いや、今も昔もそうだけど、宮廷というのは身分社会で、
たとえどれだけ帝に愛されても身分によって妃の位は決まっていたのです。
大臣クラスなら女御になれても、大納言クラスなら更衣どまりとか。
源氏物語で光源氏のお母さんがあんだけ帝に愛されながら「更衣」だったのはそういう意味です。
ちなみにこの源氏物語で光源氏のお母さん、桐壷更衣を愛した桐壷帝を
紫式部は楊貴妃に入れ込んだ中国の玄宗皇帝になぞらえて非常に否定的に評しています。
つまり、当時の感覚として「身分の高いものが、ましてや帝とあろう者が、
自分の意のままに行動することは決して許されざる行為」と考えられていたのです。
つまり「帝」だと身分の低い女性と交わるどころか、
そういう者たちと関わること自体が「許されざる行為」だったのです。
だが、上皇は違います。
上皇はもう帝では無いので、身分の低い者と関わりあっても許されます。
だから白河院は身分の低い武士や白拍子と積極的に関わったのです。
帝なら「殿上人(昇殿を許された五位以上の貴族)」としか会えないですからね。
ということで、祇園女御は元白拍子の白河院の愛人です。
「女御」など絶対になれない人です。
ただ、まるで女御みたいに権勢をふるったから「祇園女御」と呼ばれていただけなんですよ。
そのため、当然ですが彼女は御所に入ることはできません。
いくら白河院の寵姫でも、
「女御」とちまたで呼ばれていても、
彼女に御所で生活する「位」はないですから。
だから、平太が駆け込んだのはただの白河院の愛人別宅で、御所でも無ければ、白河院の住まい(院の御所)でも無いのです。
実際に侍女が、「法皇様がお越しになられました」とわざわざ白河院が来たことを告げ、
ここが御所では無いことを物語っていたと思うんだけどなぁ……
とまぁ、そんなわけで私の突込みどころはもっと別の所にいっぱいありまして…
例えば、ただの白拍子に「舞子」は無いだろう!!
とか。
この時代「子」という漢字には「貴人」の意味があったから、貴族の女子しか付けられなかったはずなんだけど。
待賢門院の藤原璋子とか、美福門院の藤原得子とか……
ちなみにですね、高貴な身分のように扱われているが、璋子は中流貴族の娘。
忠盛や清盛、あるいはこれから出てくる時子とかと同じ身分なのである。
本来なら御所に上がって女御として入内なんて、とてもやそてもやできない身分。
ただ、両親が白河上皇の乳母をやっていたからその縁で白河上皇に可愛がられていたのである。
彼女が入内するにあたって白河上皇の養女になったのはそういう理由。
律令制はすでに崩れ去っていたのですね。
平氏とかそういう武士階級がのし上がっていくのは、この「院政」と切っても切り離せない関係があるのだが、
その辺どうするんだろうね……
簡単な貴族VS武士の対立構造ではこの時代は表せないんだけどな。
私はむしろ、そっちが心配だったり。
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