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普段色々考えていることの日記です。

ヘタリア感想

2008年04月03日 | 漫画
ヘタリアについてちょっとまじめな感想

へたれイタリア=ヘタリア
という設定で国を擬人化したWeb漫画がコミカライズ化したらしい。
まだ現物の方は手に入れてないので、コミックの方の感想は書けないけどWebコミックの方は読みました。

 え~と、う~ん…面白いんだけどね……
 ウ~ン……ちょっと危険かな……国を擬人化するのはね……ちょっとね
 帝国主義的って言うか、民族主義的って言うか、そこからファシズムだとか優性遺伝子論だとかが生まれたわけで……

 国を擬人化する行為は別に目新しいわけではないです。
 近代国家の誕生と同時にそれは行われてきました。
 イギリスはブリタニアという架空の女性(モデルは国王の愛人だとか)を金貨に刻んだし、同じくフランスもマリアンヌという女性(自由の女神)を生み出したし、アメリカのコロンビアという女性は未だにある映画会社のイメージキャラクターです。

 国の擬人化というのは、近代国家の誕生上どうしても必要なモノでした。
 それまで「国」というモノは一般の人に認識されていないモノでした。
 明治維新前の日本を思い浮かべてもらえばいいように、領主とその領主に支配されている農民という関係が一般の人々の世界観だったのです。
 もちろん領主の上に教皇だとか国王だとかがいましたが、日本の将軍が大名の領地について基本的に不介入だったように、それぞれの領主は一つの国のように独立していました。しかもその関係は多層的で、農民からすると領主と自分の関係より庄屋と自分の関係の方が大事だったりしました(一応便宜上は領主の支配下にあるのですが、実際には庄屋の支配下だったりしたのです)。
 それが、近代国家になると領主がいなくなり、「国家」と「国民」というものすごく抽象的な関係が生まれてくるのです。
 このとき、この「国家」という抽象的な存在を分かりやすくしたのが「擬人化された国」だったわけです。

 といっても初め「擬人化された国」は、「女神」の形をとっていました。
 国を守る守護女神という位置づけです。
 近代国家が生まれ落ちた時、まだその存在は不安定で旧勢力に簡単に覆される危険がありました。
 何度も繰り返しますが、農民にとって領主→農民の関係がすべてで、国家←→国民の関係は理解できなかったのです。だから昔自分を支配していた領主がとてもいい人だったりしたら、国家(というより新政府)の方が「悪」となったのです。
 そのため、国民を団結させる存在として、「国を象徴する何か大切なモノ」つまり「国を象徴する女神」が生み出されました。
 フランスの自由の女神=マリアンヌなんかがいい例ですね。
 ドラクロワが描いた『民衆を導く自由の女神』なんかは非常に象徴的な絵だと思います。
 今まで人々を守り導く抽象的な存在は天使とか神だったのですが、「国」という女神がそれに取って代わったのです。

 ただ、この「国を象徴する女神」は近代国家の誕生時にはそれなりに役割がありましたが、徐々にその問題点をあらわにし始めるのです。
 抽象的な国家を擬人化するのはいいのですが、ではその「国家」は誰のモノなのでしょう?
 イギリスが「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」という国名が正式名称なように、イギリスにはイングランドとスコットランドとウェールズと北アイルランドとマン島とチャンネル諸島があります。
 すべてが一つの国家の日本では想像するのが難しいかもしれませんが、これらの国は個々独立した行政区であり、独立した経済、政治、文化を持つのです。
 さらに民族としても歴史としても独立している彼らをひとまとめとして「国家」という場合、その「国家」を擬人化することは果たして可能なのでしょうか?
 日本でも琉球とか蝦夷を無理矢理日本の中に組み込んでおきながら、「日本は単一民族だ」などと言って紛糾しているぐらいなのです。自分たちは「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」の中の一国家だと考えている彼らが、大まとめにして「ブリタニア」と呼ばれることを納得するでしょうか?
 オリンピックなど国際的な大会を見ていると、スコットランドの人達は自国の選手を応援する時、必ずスコットランドの旗を振っているぐらいですからね。
 つまり、「国を象徴する女神」は誕生と同時に「帝国主義」の衣をまとい始めていたのです。

 さて、その帝国主義が顕著になっていくのが植民地支配時代です。
 帝国主義とは簡単に言うと、「世界をパイのように切り刻んでいくこと」です。
 アフリカはフランスで、アジアとオセアニアはイギリスで……という奴ですね。
 レーニンが1916年に『帝国主義論』の中で唱えた理論です。
 実際、第一次世界大戦時や第二次世界大戦時の世界地図を見ると、美しいぐらいに世界が色分けされています。
 そしてこの帝国主義が発展して行くにつれ、「国の象徴」は女神ではなく男性の形を取り始めます。
 イギリスのジョン・ブルやアメリカのアンクル・サムがその典型例です。
 女神という抽象的な存在より、より親しみやすいキャラクターにという意味もあるかもしれませんが、女神→男性という変化はもっと別の意味もあったのです。
 ここからはジェンダー論とかサイードの「オリエンタリズム」の分野になってくるのですが、 『男性=近代化、女性=非近代化』とか『男性=支配者、女性=被支配者』とかいう考えが、当然至極のモノとして当時(そして今も)存在しており、本国を男性に、植民地国を女性にしてそれが当然の関係のように表したのです。
 つまり、植民地国は「女性のように」遅れた国で「女性のように」か弱い存在だから、本国は「男性のように」彼らを導き、「男性のように」彼らを守らねばならない。そして本国のその行為に対し、植民地国は「女性のように」仕えなければならない。ということです。
 特にこの表現はイギリスがよく使い、それを真似するようにアメリカも使い始めます。やがて、日本もこの表現でもって韓国併合とか満州国とか大東亜共栄圏の正当性を主張します。
 具体的な礼を言うと、「敵に襲われるアジアの女性とそれを助ける自国の男性」という図です。世界史とか日本史を習っていると、近現代史で一度ぐらいは目にしているあの絵です。
 中には本国の男性と植民地国の女性による結婚式の絵とか、植民地国の女性をハーレムのように並べる本国の男性の絵とかがあり、そういう絵を自宅の居間に飾る者もいたそうです。

 ところで、「国を象徴する女神」でも言いましたが、国を擬人化する場合その擬人化された国は一体何人で描かれるべきでしょう?
 これまた日本人には想像できないことですが、人種のるつぼのアメリカは元より、ヨーロッパ大陸も民族のるつぼで、イギリス=アングロ・サクソン人、ドイツ=ゲルマン人、ロシア=スロバキア人という風に国を簡単に民族で色分けできないのです。
 ものすごくわかりやすい例を言うと、アンクル・サムを白人にした場合、アメリカにいる黒人を思いっ切り排除してしまうことになるのです。同じことがジョン・ブルにも言えます。
 一体アメリカを、黒人を抜きにして、ヒスパニア人を抜きにして、そして昨今ではアジア人を抜きにして語ることができるでしょうか?
 もちろん、イギリスも、フランスも、ドイツも、ロシアも単一民族で作られた国ではないのです。
 その国を象徴する人物をある一つの民族をモデルにして描かれた場合、描かれなかった民族はどこに行くのでしょう?
 国を擬人化するという行為は、その国に存在する少数民族を排除するという結果も招くことになるのです。

(つづく)


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