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『十日間の不思議』エラリー・クイーン

2009年01月07日 | 推理小説
十日間の不思議 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-1)
エラリイ・クイーン
早川書房

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『十日間の不思議』エラリー・クイーン (早川書房)

 エラリー・クイーンの話をとにかく最初から読もうと思って『ローマ帽子の謎』から始めたのですが、『スペイン岬の謎』が古本屋になくて若干挫折中でした。
 だけど、突然『九尾の猫』が読みたくなり、その前編ともいうこの『十日間の不思議』も家にあったので、読んでみました。ちなみにこの『十日間の不思議』の前編とも言う『災厄の町』と『フォックス家の殺人』は家になかったので未読です。
 で、この話、ある紹介本には『エヴァンゲリオン』とそっくりらしいです。・・・・・・確かに似ていると言えば似ているけど、『エヴァンゲリオン』も『十日間の不思議』もどちらも心理学をテーマに扱っているからその上での類似という感じがします。もしかすると庵野監督は参考にしたかもしれないですけどね。
 この話は精神分裂症やエディプスコンプレックスなどの心理学的テーマを縦軸に善と悪、神と悪魔の対立という神学的モチーフを横軸にした推理小説で、「神の領域」に果敢に挑戦した話らしいで。・・・・・・が、よろず神を信じる日本人としてはもっぱつピンと来ません。
 まぁ、ものの解説本によると、「神=探偵」と「悪魔=犯人」そして「人=被害者」という構図が前提として推理小説は成り立っている。ところがこの話は探偵を人間の地位にまで引きずり落としたのだそうです。
 う~ん、つまるところネタバレ覚悟で言うと、推理小説は「正義=神=探偵」と「悪=悪魔=犯人」という対立構造であらねばならず、この前提があるからこそ読者は安心して読むことが出来るのだが、この話は神が悪魔の手先になり、悪魔が神を創造するというように前提自体が崩れ去っている。ということだろうか。
 それにしては、モーゼの十戒とか精神分裂症とかそういったことが色々大仰に出てきたが、なんだかどれも不発弾だったような気がする。
 モーゼの十戒に関してはキリスト教信者ならピンと来て、犯人の異常さに同感する道具となったかもしれないが、それに慣れ親しんでないものからすれば被害者を追い詰める道具にしか見えず、犯人を示唆するものでしかなかった。
 ぶっちゃけエラリーがなぜ目の前の犯人に気づかなかったのか。

 それこそが私は不思議だった。


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