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~我々は皆少しおかしい(イタリアの慣用句)~

普段色々考えていることの日記です。

ヴェニスの商人

2013年10月14日 | ミュージカル・演劇
彩の国シェイクスピア・シリーズ第28弾『ヴェニスの商人』 

じゃじゃ馬ならしを見てから3年。
私ははっきりと確信しました。

蜷川さんはコメディが苦手だと。 

面白くないというレベルを超えて、うすら寒いんですよ。
ツンドラ以上の寒風が吹きすさぶんです。
彼のギャグには。
ああ、寒いよ。寒すぎるよ。これ以上耐えられない。

十二夜しかり。
シンベリンしかり。
トロイラスとクレシダしかり。
アントニーとクレオパトラしかり。

あとの二つは悲劇だろって?
いえいえ、ギャグパートはひどいものだったのです。
チャップリンの言葉ではないが、ギャグパートを真剣にこなしてこそ悲劇が際立つのに、彼はどこかでギャグに対しての偏見があるのか、「これはギャグですよ」と言わずもがなな事を大声で主張しちゃうから興ざめになってしまう。
頼むから、吉本新喜劇をもっと学んでほしい。
ズデーンと現実世界ではありえない程大仰にすっ転んでも、そのすっ転び方に真実が混じっているから新喜劇は面白いのだ。

さて、そんなわけで、今回は問題劇の「ヴェニスの商人」。
問題劇と今では銘打たれているが、本当は「喜劇」の部類に入るシェイクスピア劇。

不安だ。
はてしなく不安だ。
心の底から不安で仕方がない。(;一_一)

そして、冒頭に戻る。

蜷川さんはコメディが苦手なんだと。

そう、この作品は「喜劇」ではなく「問題劇」。
だがそこを、あくまでも「喜劇」の様式美で彩った。
そこにはてしない感動を呼んだのだと思う。

蜷川さんは喜劇が苦手だ。
だがしかし、悲劇はお手のものである。 

1幕終盤、「私がユダヤ人だからだ」というシャイロックのセリフ。
2幕終盤、何もかもを失ったシャイロックの退場シーン。

涙があふれて止まらなかった。

ヨーロッパで公然と連綿と続くユダヤ人差別は、ナチスのホロコーストを紐解くまでもない。
そして、翻ってパレスチナ問題とつながる。
シャイロックが言ったように、同じ血が流れ、同じ肉を持ち、同じ心を宿しているはずなのに、なぜ人が人を差別する世界は無くならないのだろう。
シャイロックに寄せられた万雷の拍手が、せめて世界中のシャイロックの勇気と希望になりますように。
そう願って仕方がなかった。

歌舞伎役者の伝統的な演劇手法が、滑稽なまでにシャイロックを喜劇役者へと仕立て上げ、「ああ、これは、勧善懲悪。悪者が最後は討たれる喜劇なんだ」と油断させておいてのシャイロックのセリフ。
歌舞伎の伝統的手法がとられているからこその感動。
日本人の魂の奥深いところが揺さぶられる瞬間。

猿之助さんのセリフは私の心の奥に大きな傷跡を残して行き、シャイロックが退場した後のコメディシーンも笑みがどうしても強張りがちだった。
あのまま、シャイロックが退場したままなら、私はきっと救われなかっただろう。
だが、シャイロックはもう一度現れる。
ああ、良かった。
何となくそのシーンでほっとしてしまった。

何もかもが金銭づくめの物語なのに、主人公たちは「愛」を謳う。
そのウソ臭いおとぎ話のような世界の中で、ただ、シャイロックだけが、この世界の真実を言っていた。

 「生きる術を奪って、どうやって生きろと?
 それが、あなたがたの慈悲なら、いっそこの命を奪ってくれ」 


世界は相変わらず、愛と平和を謳いながらミサイルが飛ぶ。


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