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プロジェクト○川

学生に本を読んでもらおうという,ただそれだけのはずでした

就職や転職で

2024年11月29日 | 本の話
以下は、今年のノーベル経済学賞を取ったアセモグルとジョンソンの『技術革新と不平等の1000年史』(早川書房)より。

 近年の研究によると、ビジネススクールで学んだ経営者は、とりわけ賃金設定に関してフリードマ ン・ドクトリンを実践しはじめたことがわかっている。ビジネススクールに通わなかった人物が経営する似たような企業と比較して、彼らは自社での賃上げを止めた。アメリカとデンマークでは、経営学修士号を持たない経営者は、付加価値の増加分の約二〇パーセントを自社の労働者と分かち合う。 ビジネススクールで教えを叩き込まれた経営者だとこの数字はゼロだ。ビジネススクールやフリードマン-ジェンセン学派の経済学者にとってはやや気落ちする話だが、ビジネススクールで教育を受けた経営者が、生産性、売り上げ、輸出、投資を増やすという証拠はない。しかし彼らは株主価値を増やしはする。 貸金を削減するからだ。ほかの経営者と比べて、彼らは自分自身に気前よく報酬を弾む。

ということは、就職や転職の際には、他の条件が同じであるなら、経営者がMBAを持っている会社は避ける方がいいわけだね。もちろん、株を買うなら話は別だけれど。







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本の整理

2024年03月18日 | 本の話
そんなわけで、ゼミ室の本の整理をしていました。

基本的には図書館に「返す」ことになるのだけれど、スペースがないという理由でほとんど死蔵、あるいは処分されてしまうらしい。

少し前に一般論として報道があったけれど、うちも書籍については、除却して外部に出すことは一切しない方針です。

(ほんの)一部とはいえ、税金を投入されて購入したものが古書市場に流通することがあってはいけない、という理由らしい。処分はOKというところに「バレなきゃいい」がある気がしないでもないが、要は批判を避けるという、現代(日本?)的な対応なのでしょう。

それはわからないでもないのだけれど、本が処分されることは承服しがたいので、学内で図書登録を引き継いでくれる人を探して、交渉(というか売り込み)に力を入れたり…それで、片付けが遅れて、いまは大変なことになっているんだけどね…。

さて、本の整理をしているのに、それを読まないということはあり得ない。特に、古い対談本での発言を読んで、その後と照らし合わせるのはけっこう面白い。

斎藤 その部分はまさに動物化してしまっていて、内省できなくなっているわけですね。僕のような神経症的な主体でも(笑)、ネット上のセキュリティに関しては、ほとんど自動的に無自覚になってしまう。例えばメールだって、厳密に考えるなら、それほど信頼できるものではないわけでしょう。それでも日常的に頻繁に使っている。そのへんの信頼が何から来ているのかということもあるのですが、一つ言えることは、サイバー空間はしばしば密室的なイメージを伴うということです。先ほど言った九五年の「InterCommunication」 誌での座談会でも出てきた話ですが、どういうわけかサイバー空間というのは他者性が抹消されてしまう空間で、だからこそフレーミングがあっさり起こってしまったりとか、妄想=分裂態勢みたいなことになってしまって、相手のことを考えずに果てしなく攻撃的になってしまう。サイバー空間は、広大な空間というイメージとは別に、そこに没入していくときには非常に閉鎖された二者関係しかないような空間になってしまって、 第三者が見張っているという意識が働きにくい。

東 そのとおりですね。 それこそ、日記サイトや匿名掲示板の悪口がなぜあれほど腹が立つのかというと、それだけが存在するような錯覚がしてしまうからなんですね。ネット上にはそれ以外にもたくさんの意見があるはずで、そんなものは気にしなくてもいいのだけれど、変な錯覚が入り込んでしまう。
(斎藤環『メディアは存在しない』、大澤真幸・東浩紀との鼎談、p.283)

『メディアは存在しない』は2007年出版で、この鼎談が行われたのはもう少し前のはず。この頃に「なぜあれほど腹が立つのか」がもっと突き詰められていたら・・・と思っちゃうよね。

僕らが「授業評価アンケート」を読むときにも、批判的なコメントがあると、客観的には「ある一人の意見」だと思いつつ、やはり強く受け止めてしまう。

北田 「競争するとスーパー日本人が育つ」っていう理論をお持ちらしい。

五野井 そのスーパー人材を作るには、やはり教育にある程度の投資をしなければいけないわけで。
今は、競争を勝ち残った者だけがとりあえず生き生きと活躍せよという方針ですね。これは勝ち残らなかった人は敗北感を抱いてテロリスト化する危険性も孕む。警察や自衛隊の任官制度は多く採用して不適格者を振り落としていく方式ですけども、訓練された警察なり自衛隊なりに反感を抱いている人を民間に大量放出しているわけです。 また勝ち残った側もウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』みたいにウルトラにギスギスした人を生み出します。
(北田暁大・白井聡・五野井郁夫『リベラル再起動のために』、毎日新聞出版、p.85)

こちらは2016年出版。この本を読み返すことはあまりお勧めしませんが、「訓練された警察なり自衛隊なりに反感を抱いている人を民間に大量放出している」ことの帰結(のひとつ)を知ってから読むと、ここで指摘されている問題の大きさを実感できてしまう。

養老 もうひとつは、やはりシステムです。日下公人さんがおっしゃっていたのですが、阪神大震災の後に経済的に興味深かったのは、あれだけの建物損壊の後で人件費も機材費用も一切値上がりしなかったというのです。普通だったら、今までだったら、ああいった大地震があったらそのあとの建築ラッシュで、木材の値段が上がって人手不足になって手間賃が上がってとなるはずなのに、それが一切上がらなかったというのです。つまり、建築業に関しての日本経済は、徹底的な供給過剰だったというわけです。

内田 へえ、そうだったんですか!

養老 供給能力がありすぎて、あれだけの地震でもなんなく対応できてしまう。だから、高層マンションがボコボコと建つのは、あれくらい建てなくちゃ今のシステムが動かないということでしょう。
(養老孟司・内田樹『逆立ち日本論』、新潮選書、p.154)

「供給能力がありすぎ」た頃を、こんなに早くに懐かしむことになるとは…と思うと、なんともトホホな(昭和感!)感じです。

(公開し損ねてた…。)
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しなくなっ(てい)た話3

2023年10月24日 | 本の話
本屋にも長いこと行っていなかった。自分のこれまでを考えると、これも信じられないことのひとつです。

ようやく久しぶりに、リアルな書店も訪れるようになってきました。もうだいぶ前から、行けないわけではなかったけれど、気持ちが本(小説)に向かわなかったこともあり…まあ、そのあたりの事情はまたいずれ。

で、先日久々に駅前のK伊国屋(お約束)に行って、いつの間にこんな本が…といろいろ驚いてきました。と言っても、もう何に驚いたかの大半は忘れてしまっていて(笑)、覚えているのはジュリアン・グラックが何冊も並んでいたことくらい。ただ、それを買うより『シルトの岸辺』と『アルゴールの城にて』を再読したいという気持ちが先に立って、購入は自制(書棚に余裕がないのだ)。

そうだ、最近やっと読んだカポーティの『遠い声、遠い部屋』の新訳(しかも村上春樹訳)と、ようやく『懐かしい年への手紙』を再読して、やっと読み始めたところだった大江健三郎『晩年様式集』の文庫(しばらく品切だったはず)が並んでいたのにも、少し「やられた」という感じを受けたのでした。

あと、創元推理文庫の『ポオ小説全集』(全4巻)が重版になっていたのには喜びました。第2巻だけ買ってなかったので。『フリアとシナリオライター』は気づいて買ってあった。これは文庫だから近いうちに読めるだろう。

さて。それからしばらくして近所のまあまあ大きめの書店に行ったときには、アラスター・グレイ『哀れなるものたち』(ハヤカワ文庫)の文庫に目が眩みました。これが文庫に?と思ったら、映画化されたんだ…。これ、ものすごく面白いです。僕は『ラナーク』をずっと積んだままなんだよね…だってあまりに重いんだもの。

ほぼ電車の中にしか読書の時間がないので、重い本は厳しい。いまもフアン・ビジョーロの『証人』が読みたいのだけれど、『魔の山』にしています。

近所の本屋の話に戻ると、あとは重版になったらしく何冊も積んであったブッツァーティ『タタール人の砂漠』(岩波文庫)の帯の、日本の作家(二人とも悪くない作家だとは思うけれど)のコメントにちょっとむっとしたり。

『シルトの岸辺』と『タタール人の砂漠』って、ストーリーが少し似ていて、しかも読んだ時期も近いので、いくらか混ざっているような気がする。そう書きながら言うのはなんだけれど、どちらも大傑作だし、個人的にもツボです。

再読するならどちらも、最初に読んだ、古い世界文学全集版がいいと思うけれど、やっぱり文庫版になっちゃうだろうなあ。
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数学+

2023年07月27日 | 本の話
彌永昌吉・赤攝也『公理と証明 証明論への招待』(ちくま学芸文庫)をちらちら読んでいて、この文庫本の親本が、1963年に「新初等数学講座 現代の数学」というシリーズの一冊(正確には二冊)として、ダイヤモンド社から出ていたことに気付いて愕然とする。

僕が勘違いしているのでなければ、それって経済や経営の本をたくさん出している「ビジネスパーソン御用達」の、あのダイヤモンド社でしょう。

同じ出版社が出していたから、読者層も重なっていたとは限らないけれど、半世紀前と比べて、日本の一般人の数学レベルがどう変わったかを如実に示しているような気がしてしまう…。

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先日、文科省が、例の理工農系学部拡充支援事業の対象校(第一弾)を公表したけど、たとえば北海道の私大の理工農学部には、入試偏差値が50に届いているところすらない(学科単位は別)。

国公立の工学系でも、偏差値が40台だったりする。ここでしっかり勉強すれば、しっかり実力もつくし、かなりの大手企業に入れるだろうなと思うところも多いのに…僕の知人でも、この辺りの大学を出て、僕よりずっと高い給料をもらっていそうな人がたくさんいる。

こういう状況で、理工農系の学部や学科を増やしたら何が起こるか…別に理系の大学で勉強しなくても、それくらいわかりそうなものだけれど。

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追記。

「まえがき」によるとこの本(の親本)は、小山書店から出ていたものを、ダイヤモンド社が再刊したのだそうだ。

で、小山書店というと、伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』を出版し、それがわいせつ文書として告発されたことの影響で倒産した小山書店なのだろう(だとすると、読み方は「おやましょてん」)。

1950年代に倒産した会社の出版物を、経済系のダイヤモンド社が再刊したというなら、やっぱり読者はビジネスパーソンだったはず。この時代だと、「ビジネスマン」ですらなく、「サラリーマン」という表現を使うべきかもしれないけれど。

工場ではある程度高度な数学が「必要」だったんだよね。だからこそ、数学の需要があったのだろうし。でも、いまのマーケティングに統計学だって言うけど、現場には分析の結果が必要なだけでさ…。

モノを作る仕事よりも、売る仕事の方が人気で(というか儲かって)、その売る仕事よりも、その人たちにお金を貸したり、売るための情報とやらを分析したりする方が「上」に扱われる(もっと儲かる)っていうのは、やっぱり何かおかしいと思う。

もし本当の危機が来たら、この序列はひっくり返るはず。でも、それを望みたくはないしなあ。

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極小の世界

2023年07月15日 | 本の話
以下は、大森荘蔵・坂本龍一『音を視る、時を聴く[哲学講義]』(ちくま学芸文庫)より。

O それがあるんです。それから知覚の場合でも、一つの音波を一時刻ですっぱり切ったら、空気は、スピードだけはありますけど、振動数もなにもないわけですね。この「このへん」をはっきり言い表わす言葉、なかなかないんですよ。自分で見つけるまではベルグソンの使わしてもらって、純粋持続とでも呼ぶのがいちばんわかりがいいんじゃないかとも思います。

S 最小と言っちゃあだめなんでしょうかね。

O ええ、またちょっと危険が生ずる。 何言っても危険なんです、これは。おそらくぴったりした比喩はないだろうと思いますね。前に言ったピンボケの比喩は不十分です。しかも少しも神秘的なふしぎなことじゃなしに、誰もが生まれてからいままで一刻もそれから離れることはない、そういうものですからね。

S このことを表わす言葉を、とりあえずいままでぼくらが持ってないということは、いま新しく出てきた聴こえ方、見方なんでしょうかね。

O こうだと思います。私の動きを非常な速い映画に撮って、たとえば指がどうなった時は何時何分かを決めていく。物理的にはいくらでも細かく決められるわけです。つま
私の肉体を一つの測りうべきものだとすれば、物理学でいくらでも細かく測れます。
だけど、私がこれ飲んで、こういう味がした。あるいはこのライターの光がいま見えた、坂本さんの声がいま聴こえた、という時の〈今〉はそういう測定方法で測定することはできないと思います。つまり何億分の一秒まで測定するということの意味がない。たかだか一秒ぐらいの範囲で、二時五分過ぎから二時五分一秒の間にあって、ということ。つまり二つの物理的な時刻で挟むことはできる。そして挟む間の間隔、それは大体、二分の一から十分の一秒ぐらいじゃないかと思うんです、ふつうのケースで。坂本さんみたいな微妙な音の聴覚になりますと、もう少し狭い範囲で挟めると思います。しかし百分の一秒にはならないと思います。

S そうすると二分の一秒から百分の一秒で・・・・・・。

Oそれはもう相当でまかせですね。ですがまあ、そんなもんですね。つまりとにかく限度があるということですね。一方、物理的な測定のほうは限度がないわけです。原理的に。

S 実際的にはありますね。その実際的な限界までいったときにあるかもしれない混乱に興味がありますが。

確率論にも似たような話があるよね。連続型の確率変数がある数値(点)に一致する確率はゼロなのに、それを集めた範囲に対しては一定の確率が与えられる、とかさ。

無限大や無限小の世界では、僕らの常識は通じない。確率論だと、このあたりは測度論を勉強しないとすっきりいかない。

いまはYouTubeにも動画がいろいろあるけれど、素人が書籍でカントールとかルベーグとかを勉強しようと思うなら、やっぱり最初は志賀浩二先生か…(数学の素人の一人として、僕もずいぶんお世話になっています)。

そう思いながらAmazonをみたら、ルベーグを扱った『無限をつつみこむ量』(大人のための数学6)が切れていて、古書に高値が付いている。データサイエンス絡みでの人気なんだろうな。紀伊国屋書店さん、増刷してね。

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意思疎通

2023年07月05日 | 本の話
札幌市の下水サーベイランスを見ると、新型コロナウイルスの最新の数値は、昨年8月のピークと同水準になっている。

その昨年8月は、ちょうど僕が寝込んでいた時期だ。で、現在の数値は僕が感染した(であろう)昨年7月下旬の2.5倍。Y太郎のクラスは半数が休んで学級閉鎖になっていた。

仙台のサーベイランスも似た状況を示しているようだ。

自粛生活に戻ろうと言うつもりはないけれど、消毒用アルコールを撤去したりするのは(その心理的効果も含めて)まだ早いのでは…。

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リルケ『マルテの手記』(大山定一訳、新潮文庫)より。

しかし、僕はそれよりも前、すでに恐怖を感じたのを知っている。たとえば、僕の犬が死んだ時だ。犬は自分の死をあくまで僕のせいだと信じこんでしまったのだ。犬の病気は非常に重かった。僕はその日一日、犬のそばに付ききりにしゃがんでいた。 突然、犬が短くきれぎれに吠えた。知らぬ人間が部屋にはいって来た時に吠える吠え方だった。僕と犬とはそのような場合、いつもこんな吠え方で知らせあうことに決めていた。だから、僕は思わずドアの方を振りむいた。しかし、「死」はすでにもう内部へ忍びこんでしまったのだった。僕は不安になって犬の目を求めた。 犬も僕の目を求めてきた。しかし、犬の目は、最後の別れを告げる目とは違っていた。 犬は僕を情けなさそうな、激しい目でにらんだのである。その目は僕が黙って「死」を内部へはいらせてしまったことを非難していた。僕だったらそれを追い返すことができると、あくまで犬は主人を信じきっていたのだろう。しかし、今僕を過信していたことがわかったのだ。僕はもう犬に事情を説明してやる暇がなかった。犬は僕を情けなさそうに、寂しく見ながら、死んでしまった。

深く意思疎通できてしまったが故の辛い挿話。ポーを思い出すよりも、親子の関係に投影してしまいそうになる。

もっと時間があれば、もう一段階深く理解しあう方法があれば、と考えたくもなるけれど、完全なコミュニケーションなんてあり得ない。

病気といい隣人といい、それらはいずれも、ある組織体へもたらす障害によってのみ自己の実体を示すものにほかならぬ。(同書)

だからといって、これではネガティブに過ぎる。完全は無理でも、十分は可能なのだから。

十分をよしとせず、完全を求めたくなってしまうのも現代の病だとしたら、これも二十世紀の産物か。

  
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チース

2023年05月03日 | 本の話
何気なく本棚から百閒先生『御馳走帖』(中公文庫)を手に取る。背表紙に520とある割には綺麗な本だ。奥付を見ると1993年の12刷。いつ買ったのかは(もちろん)覚えていない。

そのなかの「チース」という短いエッセイによると、百閒先生が大学生の頃は、チーズではなくチース、ビスケットはピスケットと発音していたそうだ。

『御馳走帖』の原本は昭和21年刊だが、百閒先生が大学生というと明治の終わりくらいのはず。おさるのジョージに出てくるピスケッティさんも、何か関係あるだろうか。

ところでその「520」を見ながら、文庫の背表紙の数字(価格)って、いつまであったのかなと思う。

で、周囲の本を確かめると、岩波文庫と集英社文庫にはないけれど、わりと最近買ったちくま文庫(蓮実重彦『ゴダール革命』)と河出文庫(ソローキン『親衛隊士の日』)の背表紙には、どちらもちゃんと4桁の数字が入っている。「いつまであったのか」は間違った問いでした(笑)。

もう少し本棚を探ると、1995年に出た岩波文庫の、カルヴィーノ『むずかしい愛』の背表紙には価格があり、1999年の版の内村鑑三『代表的日本人』にはない。1997年の消費税増税(3%から5%)のときにやめたのかな。

その頃の僕らはと言うと、消費税の増税を別として、物価は上がるものだという感覚は、そろそろなくし始めていたんじゃないだろうか。




 
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古本

2023年04月23日 | 本の話
父が持っていた、紀田順一郎『古書街を歩く』(新潮選書、昭和54年)をぱらぱらとめくり、目についた「文庫の森をさ迷って」(この表記、いま使うかな)という章を少し読んだ。

何せ昭和の話なので、紹介されている「珍しい文庫本」は、僕も見たことがないものが多い。同じ小説でも翻訳が違ったりして。

ひとつだけ、なじみのあるタイトルを見つけた。

日本小説文庫のごときは、大衆小説専門のためか読み捨ての厄に遭い、完全な書目リストも把握されていないようだ。 国枝史郎の『神州纐纈城』などは、幻の名著として探求されたものであるが、一九六八年 (昭和四十三年) 初出誌(「苦楽」)により翻刻された。文庫版を所有している人は、ごく限られている。(紀田順一郎『古書街を歩く』、新潮選書、p.26)

『神州纐纈城』(しんしゅうこうけつじょう)は幻の傑作として知られていたもので、僕も最初に書名を知ったときには、手に入らなかったはずだ。未完なのに、国枝史郎作品の中で、いまは最も高名なのではないか。

最初は図書館で借りて読んで、手元のどこかに河出文庫版があるはず。

実家の本棚に、カバーがかかった講談社大衆文学館文庫コレクション版を見つけたのは、父が亡くなってからだった。

いっしょにこの本の話をしたかったなあと、今頃になって思う。



 
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記憶すべきことども

2023年04月14日 | 本の話
まず引用。

xxxにとっては、感情的に怒るとかそういうのはレベルの低いことですから。怒るよりは、そこにある状況を少しでも深く見抜くみたいなことが美徳だと考えられています。そしてそこで自分がどんな行動をとればいいのかを考えます。そして今できるもっとも価値のあることをやり続ける、ということが大切なんです。

正論というか、ビジネス本に出ていそうな話でしょう。僕の職場の人たちにも、こんな風に考えてほしいと思う(マジで)。

でも、これの出典は村上春樹『約束された場所で』(文春文庫)。語っているのはオウム真理教の信者で、xxxには「オウムの信者」という言葉が入る。

(ハルキ祭りに少しだけ乗ってみた。タイトルは、久々に読んでみている小説の節タイトルから。これはさすがに誰も知らないと思う。検索するとネルヴァルが出てくるけど、別な作家です。)

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僕が学生だった頃に「ヤバい」とされていた「三大」新興宗教の教祖たちがみんなこの世を去った。

当時の記憶で、後の世代に伝えなくてはいけないと思うのは、どの宗教でも、末端の信者たちには、純粋で真面目で、しかも優秀な人が少なくなかったこと。

僕の思い込みかもしれないけど、僕より上の世代で宗教に向かったのは、具体的な苦しみを抱えた人が多かったように思う。たとえば僕の恩人の一人は、旦那さんと一人娘を病で早くに亡くして一人で暮らしていた方で、創価学会の熱心な信者だった。まだ少年だった僕が、いちばん辛い思いをしていた時期に、寄り添ってくれた優しい隣人。彼女が亡くなるまで、僕は口が裂けても創価学会を悪く言うまいと決めていた。

僕ら(バブル期世代)あたりからは、具体的な不幸ではなく、地に足がつかない総中流の安定の中で、人生の意味をうまくつかめずに、信仰に吸い寄せられた人が多かった気がする。少なくとも僕の周囲はそうだった。

もちろん、それが稚拙な判断だったと批判するのは簡単だけれど、あの頃もいまも、彼らよりはるかに下劣な連中(僕も含めて)がのさばっていると言われたら、それは否定できないな。

 
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食欲

2023年04月09日 | 本の話
少し前に「コオロギ食」批判という文脈で、「人がコオロギを食べると人にも強烈なタンパク質欲が出てくるかもしれません」という記事を書いていた人がいて、あとから検索してみたら、コピペもばら撒かれているみたいだ。

その記事に出てくるコオロギの話は、たぶんローベンハイマー&シンプソン『科学者たちが語る食欲』(サンマーク出版)が大元だろう。ただ、自分でこの本を読んでいれば、この記述を含む章のタイトルが「バッタ タンパク質のためなら『共食い』もいとわない」だと気づいたと思うから、直接読んではいないのかも。

で、この『科学者たちが語る食欲』はすごくおもしろい本で、

1つ目のネットワークを「長寿経路」――わかりやすくいうと「状況が好転するまで身を潜めてじっと待て」ネットワーク――もう1つを「成長・繁殖経路」――チャンスを逃すな、あとは野となれ山となれ」ネットワーク――と呼ぼう。
重要な点として、これら2つのシステムは互いに阻害しあう関係にある。
一方が機能しているときは、もう一方は機能しない。食料と栄養が不足すると、長寿経路が作動し、成長・繁殖経路は停止する。細胞とDNAの修復・維持システムが活性化し、いつか世界が変化して食料が豊富になり、繁殖という進化上の目的を果たせるようになるまでの間、動物の健康を維持する。

だとか、

そして今や世界中の研究グループによって示されているとおり、そうした状況下で長寿回路を作動させるのは、カロリーを摂取しない時間、すなわち「断食」である。

なんてことが書いてある。そうか、俺は腹を空かしているべきなのか。

それにしても、あれをそのままの文脈でコピペしちゃう人がたくさんいるとは…。もとの記事のコメントも少し眺めてみたけれど、ツッコんでいる人は見つけられなかった。

そんなみなさんへアドバイス。フライドチキンなんて食べてると、朝にコケコッコーって鳴きたくなっちゃうかもしれないから気をつけて!(ここだけコピペして馬鹿にされたりして)
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人生の課題

2023年04月03日 | 本の話
引用だけ。

 人生前半の課題は挑戦であり、後半の課題は別離であるというテーゼがある。おそらく正しいだろう。それは所有していたものとの別離だけではない。所有しなかったもの、たとえば若い時に果たせなかったことへの悔恨からどう別離するかということもある。もはや果たすことはないであろう多くのことへの別離である。
 この別離がうまく達成できるかどうかはきまっていない。若い時に実らなかったことへの悔恨を繰り返し繰り返し思い味わい直している老い人も決して少なくない。
 さらに新しい別離が日々発生する。
 ある別離は外からの事件としてくる。さまざまな関わりのあった人との死別。それは、肉親との死別から、未見におわった人――しかしひそかに師、モデル、遠い星とあおいでいた人の死亡記事までの幅がある。生別もある。子の親離れから、遠くに去る友人まである。もはや新しいものが二人の間には生まれないであろうという予感のもとでの友人との心理的な別れもありうる。
(中井久夫「世に棲む老い人」、『「つながり」の精神病理』、ちくま学芸文庫)



 
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2023年03月01日 | 本の話
遅めに帰って、ご飯を食べながらスマホのニュースをみてて(良い子は真似してはいけないし、Yたろにも悪影響)、真顔で驚いて咽そうになる。歳はとりたくない。

どういうことなのか…と、すっかりやられてます。

4月まで待つしかないけど、なるほど、ここまでタイトルを明かさなかったわけだ。うまいとしか言いようがない…と、僕みたいなのが、せっせとマーケティングの片棒を担ぐ。

増刷していなければ、あっちが品薄になるなと思ったけど、Kindleもあるし、いまやAudible版もあるんだっけ。

それにしても驚いた。

 
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教養の変化

2023年02月25日 | 本の話
昨日、久々にMっつが出張ついでに顔を出してくれて、いっしょにFくんも来た。

この二人が来ると必ず、面白い本はないかという話になるわけで、ポール・コリアー『エクソダス 移民は世界をどう変えつつあるか』(みすず書房)、アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(岩波書店)、高木徹『ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』(講談社文庫)、渡辺努『物価とは何か』(講談社選書メチエ)、外山恒一『政治活動入門』(百万年書房)、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)などの話をしました。ついでに、検定と効果量についてのプチ講義(笑)をしたり。

こういう話ができる卒業生が何人もいるのだから、うちのレベルは捨てたものではないと心底思う。

以下は、本が手元になくて見せられなかった、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)の第1章の冒頭部分。

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現代の「教養あるビジネスパーソン」像

 まずは、夏目漱石、司馬遼太郎、村上春樹、三島由紀夫。このあたりを全部読まなくてもいいのですが、一冊も読んだことがないとなると「さすがにどうなの?」と思われます。好きか嫌いかはどうでもいい。むしろ、嫌いでもいい。まずは、読んでみる。 ただそれだけなので今からでもできます。そういうある種の一般教養のほうが、小手先のスキルよりも大切なのです。パソコンでいうと「OS」みたいな部分だからです。(田端信太郎『これからの会社員の教科書』)

 いくらかの挑発的なトーンを含んだこの一節は、リクルート、LINE、ZOZOなどで要職を務めてきた田端信太郎が「これからの時代に会社員がどう生きていくべきかをまとめた」書籍『これからの会社員の教科書』(二〇一九年)からの引用である。該当部分は同書の「『社交スキル』は一生モノの武器になる」という章に記されており、その手前には音楽ユニットのフリッパーズ・ギターについて知っていた大学生に面接で高評価を与える描写がある。
 小山田圭吾と小沢健二の二人からなるフリッパーズ・ギターは「渋谷系」と称される九〇年代の音楽のムーブメントに大きな影響を与えたユニットで、一九八七年から一九九一年にかけて活動していた。このエピソードは「5年くらい前」の話とのことなので、二〇一四年ごろの大学生が彼らのことを知っていたとしたら「古いものをよく知っている」 部類に入るだろう。学業や専門的なスキルではなく過去のポップカルチャーにたまたま明るかったことを採用の決め手にする意思決定について、田端は以下のように解説している。

 これを「一般教養」というのか「人間力」というのかわかりませんが、ビジネスの場面では案外そういうものがものを言います。(同前)

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少しわかりにくいかもしれないけれど、『ファスト教養』のなかで『これからの会社員の教科書』(こちらは未読。というか、読むことはないでしょう)が引用されている部分です。

これはね…ほんとに世界がひっくり返るような衝撃でした。自分がどれだけ歳をとったのか、わかっていなかったんだなあと。

「司馬遼を読んでおくと就活で有利なんだってさ」とか言いながら、ゼミ室に『坂の上の雲』を揃えたりしたこともあったけど、なんだ渋谷系の話でよかったのか!

来年度の教養ゼミは「東京物語」や「七人の侍」ではなく、「テスタメント」と「THE BAND OF 20TH CENTURY」で決まりだな。

(念のため書いておくけれど、ふざけてますよ)

 

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値上がり≠インフレ +

2022年12月15日 | 本の話
松浦寿輝の『半島』が復刊された。

21世紀に入ってから書かれた日本の長編では、これがいちばんというくらい好きなんだけど、税込700円程度だった文春文庫から、講談社文芸文庫ではなんと2,420円!

同じく講談社文芸文庫で復刊になった、蓮實重彦「大」先生の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(言わずと知れた超のつく名著。ただ、これを読んだ「だけ」では、フーコーもドゥルーズもデリダもぜんぜんわからない。それより『陥没地帯』が好きな人に向いていると思う)は1,980円。河出文庫版は621円(+税)だったのに。

もちろん喜ばしいという気持ちはあるのだけれど、講談社文芸文庫は愛想のない表紙だし、紙の質くらいはよくなったのかもしれないが、程度のいい古本を手に入れる方がいいような気がしてしまう。

ただ、この「値上がり」はインフレではなく、本が売れないことが理由だ。トータルでの著者の取り分は、別に上がっていないのだと思う。日本語の本は、国外にマーケットを広げることもできないから…もし翻訳されて売れたとしても、日本語版の価格には影響しないだろうし。

だから講談社を責めたいわけでもなんでもなく、その責は、ちゃんとした本を読まなく(買わなく)なった日本語の読み手が、集団として負うしかない。これは人口減少の影響よりも手前の話なので、それだけに問題は深刻です。

ただ、一方でビオイ・カサーレス『モレルの発明』がついに(!)増刷されていて、こちらは定価変わらずの1,500円+税。いまとなっては信じられない安さです(水声社に拍手を。こういう出版社の本は、古本ではなく新本を買おう)。下手に文庫化されていたら(前には僕もそういう希望を書き綴っていたけれど)、もっと高くなっていたりして。

増刷と言えば、平凡社ライブラリーの『シュルツ全小説』(もちろん工藤幸雄訳)も増刷されたのか入手可能になっている(ブラザーズ・クエイつながりですね、と言って、通じる誰かがこれを読むだろうか)。

まあとにかく、紙の本を愛する同志は、どちらも手に入るうちに買っておきましょう。あなたが面白いと思うかどうかはわからないけれど、どちらも素晴らしい文学作品であることは私が(無駄に)全力で保証します。

僕も『シュルツ全小説』は、もう一冊買っておこうかと悩んでいたりする。シュルツ全集も集英社世界の文学も手元にあるのだけれど…ああ、こういうことをしているから本棚が…(ここでデジャヴが到来)。

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皆の前で+

2022年11月06日 | 本の話
金間大介『先生、どうか皆の前でほめないで下さい: いい子症候群の若者たち』(東洋経済新報社)は、今どきの大学教員など、若者と付き合う機会のある人なら誰もが読むべきで、たくさんの謎が解けます。読みやすい本だし、audibleにもあるので、内容はそちらを。

でね、昨日のYahoo!ニュースに「「キャンパスにいても教室に来ない」大学生たちの本音は? コロナ禍で変わる大学の価値」(AERA dot.)という記事があって、大学の授業の意味を考えるという体になってるんだけど、そこに描かれている「現象」は、この『先生、どうか…』を踏まえて考える方がよさそうに思う。

記事には、「大教室でやるような講義形式の授業は、オンラインが選べるなら、大学にいても教室では受けません」(学生ラウンジから遠隔で受講)という、ある大学四年生の話が「その理由は後ろ向きなものではない」という文脈で紹介されている。でも、『先生、どうか…』を読んだ後だと、続くコメントのなかの「教授からいつ指名されるかという緊張もない」という部分に、どうしても注目してしまう。もちろん、彼女は実名取材を受けているのだから、この本でいう「いい子症候群」そのものではなさそうだけれど。

このあいだY太郎の学習発表会があって、平成ー令和式の「全員が平等にセリフ」という劇を見てきたばかり。親としても教員としても、考えることが多いです。
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