プロジェクト○川

学生に本を読んでもらおうという,ただそれだけのはずでした

メディアは…

2018年01月24日 | つぶやき
パスタも焦がしたりしているうちに、卒論報告会も無事終了。

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メディアとは…マッサージである。

技術と文化が大きく移り変わる時代には、数え切れない混乱と深い絶望がつねに生じるものである。現代が「不安の時代」である原因は大部分、今日の仕事を昨日の道具――昨日の概念――でこなそうとしているためである。
(マーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオーレ『メディアはマッサージである 影響の目録』、河出文庫、p.10)


マクルーハンはメディア論のえらい人。

この1967年に刊行された本を信じるのなら、僕らの時代が不安であり続けるのは仕方がないってことか。

もう一カ所、「お父さん」でもわかる解説部分を。

「いいかい、父さん。マクルーハン教授が言ってるのは、人間が作り出したメディアという環境が、逆に人間の役割を定義するってことだよ。活字の発明は、直線的、つまり連続的な思考を生み出し、その結果、思考が行動から分離した。ところがいまでは、テレビとフォークソングのせいで思考と行動が近づいて、社会参加が大きくなってる。ぼくらはふたたび村に住んでるんだ。わかる?」
(同書、p.159)


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全豪を見ていない

2018年01月23日 | テニスに目が眩んで
終電で帰る途中で「テニス365」をチェックしたら、チョンがジョコに勝ったというニュース。

しまった、録画していない。卒論ウィークと重なったもので、先週の途中から、全豪はほとんどノーチェックになってしまっていたのだ。おお、ズベレフにも勝っているのか。

ね、チョンはいい選手だって言ったでしょう?
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コピーではなく

2018年01月22日 | つぶやき
ええ、ええ、もちろんまだいますよ、研究室に。

さて。

いつの頃からかゼミ生たちが、プリンターで「印刷する」ことと「コピーする」ことの区別がつかなくなっている。あるいは「区別をつけなくなっている」と表現する方が正しいのかもしれない。

「このファイルを印刷する」と言うべきところで、「このファイルをコピーする」と言ってしまうのだ。しかも、「違うよ」と諭しても直らない。

なんでだろうとあらためて考えて、コピー機が「複合機」になったことが大きいのではないか、という結論に行き当たった。同じ機械ですることだから、「コピー」も「印刷」もいっしょだ、と。

でも、やはり別の動詞を使うべきだと思うのだが、僕が古いのだろうか…高校の先生にそう習ったという証言も出てきた。

平成も終わるわけだ。
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ソーメンを焦がす

2018年01月19日 | つぶやき
今日はこれに尽きますね。

ソーメンを焦がす。

…来週の火曜日が卒論発表会です。
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杉田くんと西岡を讃える

2018年01月16日 | テニスに目が眩んで
テニスにナショナリズムを持ち込まない主義の私ですが、全豪一回戦の報道が小さいことには腹を立てています。

手術からカムバックしたばかりの西岡は27シードのベテラン、コールシュライバーにフルセットで勝利、杉田くんは8シードのソックに完勝ですよ。盆と正月がいっぺんに来たようなこの大ニュース、もっともっと大きく扱われるべきですって。

特に杉田くんの扱いは小さ過ぎ。もう松岡の最高ランキングを越えたところにいるってのに!

さあ、錦織くんのことはしばらく忘れて(その方が本人のためにもなる)、2人を応援しよう。
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ムーミンとマニュアル、生きる力+

2018年01月16日 | 本の話
センター試験にムーミンの問題が出たというので、Y太郎は喜んでいます。「Y太郎はわかるよ!」と(笑)。

ムーミンの舞台がフィンランドとは限らない、出題ミスではないかと盛り上がっているそうだけれど、問題を解くという行為の一部は、出題者の意図を読みとることですよね。そう考えると、あの問題を「誤読」する可能性は薄いような気がするけれど…。

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試験会場で嘔吐した受験生がいて、マニュアルどおりの対応が取られなかった、という報道も出てました。それで思い出した一節を引用しておきます。

大学を辞めたのでもうしなくてよくなって、ほっとしていますが、センター入試の試験監督という仕事が大学教員にはあります。一センチほどの厚さのマニュアルを渡されて、それを熟読し、そこに書かれている通りに入試業務を進行するという、悪夢のような仕事です。僕は退職前には入試部長という仕事をしていましたが、試験前に読むことを求められた「責任者用マニュアル」は全六冊、片手では持てない厚さと重さでした。

その中で、年々頁数が増してゆくのが「トラブル対応集」でした。「試験中奇声を発する受験生」や「『必勝』はちまきをしている受験生」や「強烈な香水をつけている受験生」をどう処遇すべきかが、そこには書いてありました。前年から増えた増補分は、おそらく「前年にどこかの会場であった実例」でしょう。でも、このペースで毎年改定を続けてゆくと、やがて「トラブル対応集」だけで数百頁の読み物となってしまうことに気づいた人たちがいて、「センター入試はもうやめよう」ということになった。制度廃絶の一因は、監督マニュアルの無限増殖にあったのだろうと、僕は推察しております。

「ありうるすべての事態を網羅的に列挙し、それについての個別の対応を精密にマニュアル化すべきだ」というのは、現代社会に取り憑いた病です。それもたいへん重篤な病です。まことに愚かなことだと僕は思います。

マニュアル信奉者は、マニュアルは精緻化するほどに浩瀚な書物となり、あるレベルを超えるともはや「取り扱い説明書」の用をなさなくなるという、当たり前のことに気づいていません。

でも、もっと重大なのは、マニュアルを精緻化することで、僕たちの社会は「どうしてよいかわからないときに、適切にふるまう」という、人間が生き延びるために最も必要な力を傷つけ続けているということです。そのことの危険性に誰も気づいていない。(内田樹『街場の共同体論』より)


生きる力。確かに、マニュアルを厚くする先に、「生きる力」をつけられる教育があるとは思えない。でも「新テスト」の方にも、やっぱりなさそうだよね…。

ところで、僕も15年くらい前に、一度だけセンター試験の試験監督をしたことがあります。監督業務以外には何もしてはいけないけれど(試験問題を解いてみる、なんてもってのほか)、居眠りなんてしたら新聞沙汰になりかねないというので、カフェインの錠剤を飲んで挑んだのを覚えています(笑)。

その頃のマニュアルは、まだ1センチもなかった。同僚の先生に聞いたら、確かに何年のように厚くなっているのだそうです。

「マニュアルどおりの対応が取られなかった」というのは事実ですよね。でも、ジャーナリズムの仕事は、その事実を報道するだけじゃなくて、その背景を分析することであるはず。監督業務をしている人に聞けばすぐにわかることなんだけどなあ…。
コメント (2)
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おめでとうございます

2018年01月05日 | つぶやき
あけましておめでとうございます。

新春の話題が相撲に紅白、天皇と新元号、そこにお笑いだ、将棋だ、AIだという強烈な既視感に、もしかすると新しい元号は平成なのではないか、真夏の雨のように蒸発した僕らの18、9どころか、20代、30代、40代までが繰り返されるのではないか、もうすぐ陽水がセフィーロの窓から無言で手を振るのではないかと、いらぬ心配と皮算用に怯える初夢を見ているうちに、冬休みももう終わり。

年がわかるのがどの辺かは置いておくとして、とにかく師走の風邪を延々引きずってしまって、ゼミ生某がピザを配達に来たらしい瞬間も、妻の実家で寝て過ごしていました。

だからもともとあまり縁のない年末年始のテレビも、今年は「大人のピタゴラスイッチ」(NHKなんていらないという意見は間違っている。全国民がこれを見て片桐といっしょに物事の考え方を学べば、消費税を上げて、その金で幼児教育を無償化するなんていう、支離滅裂な政策が取られることはなかっただろう)くらいしか見ていません。WOWOWで『ジュラシック・ワールド』を見てすっかり恐竜ブームのY太郎と、LaQでステゴサウルスやティラノサウルスとかを作ってプライスレスな時間を過ごしてはいますが。

ここまで読んで(という段階で、あなたはもうかなり特殊に奇特な人なわけですが)、ああ、またせんせい飲み過ぎてるなと誰かが思ったら、僕のこの15年間もあながち無駄ではなかったということになるのだけれど(おかしいか?)、それは過度な期待というものだし、大きすぎる期待が良い結果につながることは極めて少ない。

さて。

去年は久し振りに「1年のテーマ」を決めて過ごしました。20歳くらいの頃は、なんとなくではあったけれど、毎年「今年のテーマ(目標)」を決めて過ごしたものです。覚えているものだと、「映画の年」「世界文学の年」「夜遊びの年」とか。

去年のテーマを公表するほどには酔っていないのですが、まあ、一定の成果はあったかなあ。ただ、今年も同じテーマを継続というわけにはいかない。となると、次のテーマはあれだよなあと、必然的に決まるのだけれど、これも公表するようなことでもない。

Never too late.

いや、これが締めのセリフでは、同年代に顔向けができないから、こっちにしよう。

おまえらは、どないやねん。
(この30年間、彼への信頼が揺らいだことはないな。良いファンではなかったとしても)
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